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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第17話 黄金色のフロランタンと、触れられない秘密

 その日は、クラリスが備品の買い出しのために朝から街へ出かけていた。

 いつもならテキパキと指示を飛ばす彼女の声がしないキッチンは、驚くほど静かで、窓から差し込む陽光だけがのんびりと床を撫でている。


 私は、ルイ様と庭で先日植えたばかりの苗木に水をやり、丁寧に土を整えた。


「見てください、ルイ様。星降りトマトの芽が、もうこんなに力強く……」


「ああ、本当だね。君が毎日、慈しむように世話をしているからだろう」


 並んでしゃがみ込み、土をいじる。

 ふとした瞬間に触れそうなほど近い距離。

 ルイ様の細く長い指先が、土をそっと押さえる動作一つとっても、まるで芸術品を扱っているかのように優雅で、私は思わず見惚れてしまった。


 ◇


 手入れを終えた私たちは、テラス席で一息つくことにした。

 今日のお茶菓子は、私が腕によりをかけて焼き上げた「キャラメルアーモンドのフロランタン」だ。


「お待たせいたしました。淹れたてのダージリンと、フロランタンですわ」


 カチャリ、と静かな音を立ててカップを置く。

 キャラメルの甘い香りと、アーモンドの香ばしい匂いが午後の空気に溶け出していく。


「いただきます、アリシア」


 ルイ様は、完璧なマナーでフロランタンを口に運んだ。

 サクッ、という軽やかな音。キャラメルの濃厚な甘みがアーモンドの歯応えと重なり、紅茶の渋みがそれを優しく包み込んでいく。


「……素晴らしいな。このフロランタンの多層的な味わいは、君の心の深さを表しているようだ。疲れが溶けていくよ」


「……光栄ですわ、ルイ様」


 褒められ慣れているはずの私なのに、彼に真っ直ぐ見つめられると、胸の奥が騒がしくなる。

 逆光を浴びて輝くルイ様の夕焼け色の髪、伏せられた睫毛の影。そして、深い知性と慈愛を湛えたエメラルドの瞳。


(……本当に、なんてお綺麗な方なのかしら)


 森ごと買い取るなどという、一国の王にしか成し得ないようなことをさらりと口にする男。

 その正体は、きっと私が想像も及ばないほど高く、遠い場所にいる人なのだろう。


(ルイ様……あなたは、本当はどなたなのですか?)


 喉元まで出かかった問いを、私は熱い紅茶と一緒に飲み込んだ。

 もし、彼の本当の身分を知ってしまったら、この穏やかで自由な「森の店主と常連客」という関係は、音を立てて崩れてしまうのではないか。

 そんな予感が、冷たい指先のように私の心に触れる。


 お父様やお母様から逃げ出し、ようやく手に入れたこの安らぎ。もし真実がそれを壊す毒になるのなら、私は一生、何も知らない無知な店主のままでいたい。


「アリシア? 顔色が優れないようだが、どうしたんだい?」


 ルイ様が心配そうに顔を覗き込んできた。その優しさが、今は少しだけ怖くて、愛おしい。


「いいえ……少し、紅茶の香りにうっとりしていただけですわ。ルイ様、おかわりはいかが?」


 私は、完璧な淑女の微笑みを仮面のように貼り付けた。

 

 いつか来るかもしれない「終わり」の予感に震える自分を隠して。

 今はただ、このキャラメルの甘さが消えないうちに、彼と同じ時間を過ごしていたかった。


(……今日はなんだか珍しく、胸が苦しいですわね)


 心の中で、小さく自分を笑う。

 クラリスが戻ってくるまでの、ほんの短い、けれどあまりにも贅沢で、壊れやすい二人きりの休息だった。


 ◇


 沈黙すら心地よいこの空間で、ルイ様はカップを置くと、ふと外の深い緑へと視線を向けた。


「――アリシア。森に籠りきりで疲れたのではないかい?」


 ルイ様の穏やかな声が、私の迷いを打ち消すように響いた。

 完璧な淑女の微笑みを保っていたつもりだったけれど、この方の鋭い観察眼からは逃げられなかったらしい。


「今日は少し店を休んで、街へ気晴らしに行こう」


「えっ……ま、街でデート、ですの!?」


 思わず裏返った声が出てしまい、私は慌てて口を押さえた。ルイ様は悪戯っぽく微笑み「エスコートさせてほしいんだ」と優雅に手を差し伸べる。

 ドギマギと心臓が跳ねる。淑女教育で学んだどんなダンスのステップよりも、今、一歩を踏み出すのが難しく感じられた。


 ◇


 活気にあふれた街は、多種多様な香辛料の香りと人々の笑い声で満ちていた。

 広場を彩る花々や、見たこともない装飾品が並ぶ露店。

 いつもなら「珍しい食材探しですわーーー!!」と駆け出すところだけれど、今の私にはそれどころではない。


「人が多いね。迷子にならないように、こうしておこうか」


 ルイ様が、ごく自然に私の手を握った。

 大きな、温かい手。先ほど一緒に苗を植えた、少し土の匂いが残る、けれど力強いてのひら


「あ、あの、ルイ様! 恥ずかしいですわ……!」


「ミシェルには笑いながら指切りをしただろう? 私とも、はぐれないという約束をしてほしいんだ」


 彼は子供をあやすような、それでいて深い慈愛を込めた瞳で笑う。

 そのあまりの美しさに、行き交う人々が思わず足を止めて振り返るほどだった。


(……このまま、時間が止まればいいのに)


 そんな私たちの様子を、広場の噴水の影から、大きな荷物を抱えたクラリスがじっと見守っていた。


「……やれやれ。あの方も、あんな子供のような顔をなさるのですね……お二人とも、隙だらけですよ」


 彼女はため息をつきながらも、決して邪魔をすることなく、その場を離れていった。

 しかし、平穏な時間は長くは続かなかった。


「――おい、あそこにいるのは……!」


 通りの向こう側、立派な紋章をつけた騎士風の男たちが、血相を変えてこちらを指差した。

 ルイ様の背中が、一瞬にして鉄のように硬くなる。


「……まずいな。アリシア、走れるかい?」


「え、ええ! もちろんですわ!」


(走れるどころか、全力疾走は私の得意分野ですわーーー!!)


 ルイ様に手を引かれ、私たちは路地の裏へと滑り込んだ。

 背後から「待て!」「あの方を見失うな!」という怒号が聞こえる。


 入り組んだ石畳を駆け抜け、色とりどりの洗濯物が干された狭い通路を潜り抜ける。

 ルイ様は何を恐れる風でもなく、むしろこの「逃走」を楽しんでいるかのように、時折軽やかに笑った。


「ふふ、まるで悪いことをしている子供の気分だね」


「笑い事ではありませんわ! あの方たちは、ルイ様の……」


「今はただの『ルイ』だよ。君を連れて、森の隠れ家に帰るだけのね」


 私たちは追っ手を巻くために、わざと賑やかな市場の真ん中を突っ切り、そのまま一気に街の外れへと駆け抜けた。

 心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打っている。けれど、握られた手から伝わる確かな体温が、何よりも私を安心させてくれた。


 ◇


 森の入り口までたどり着き、追っ手の気配が完全に消えたことを確認して、私たちは大きく息を吐いた。

 私は乱れた息を整えながら、ドレスの裾についた埃を完璧な所作で払い落とす。


「ふふっ……あんなに走ったのは、家を飛び出した時以来ですわ」


「君の足の速さには驚かされたよ、アリシア……最高の休日になった」


 ルイ様はそう言って、再び私の手をそっと握り直し、ゆっくりと森の奥へと歩き出した。


(……ルイ様。あなたが誰であっても、今は聞かないことにしますわ)


 夕日に照らされた二人の影が、長く伸びて重なる。

 まだ正体は霧の中。

 けれど、街で見せたあの楽しそうな笑顔だけは、嘘偽りのない「ルイ様」のものだと、私は信じたかった。

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