第16話 泣く子も黙るバタークッキーと、明日へ芽吹く苗木
カランカラン、カラン!
いつになく激しく、そしてどこか焦ったような音を立ててドアベルが鳴り響いた。
「いらっしゃいませ……って、あら?」
出迎えた私の目に飛び込んできたのは、黒いコートを翻し、眉をこれ以上ないほど「八の字」に下げて立ち尽くすイグニスの姿だった。
あの、初対面で殺気を振りまいていた男と同一人物とは思えないほど、今の彼は困り果てている。
「……小娘。すまないが、こいつを、その……なんとかしてくれッ!」
イグニスが差し出した大きな手の先には、ボロボロと大粒の涙をこぼし、わんわんと泣きじゃくる小さな女の子がしがみついていた。
琥珀色のふわふわとした髪は草木の破片で少し乱れ、濡れた頬は赤く、大きな瞳からはひっきりなしに涙が溢れている。
擦りむいた膝からは血が滲み、小さなワンピースの裾も泥で汚れていた。
「まあ! どうしたのですか、その子は」
「知らん! 森の茂みでうずくまって泣いていたんだ。声をかけたらさらに激しく泣き始めて……俺はただ、腹が減ったから店まで連れてきただけだ!」
(嘘をおっしゃい! 完全に放っておけなくて、ここまで手を繋いで連れてきたんでしょう!?)
イグニスの不器用すぎる優しさに内心でツッコミを入れつつも、私は泣き止まない女の子の前で膝をついた。
「……よしよし、怖くないですわよ。お腹が空いたのかしら? 甘いものは好き?」
私は急いでキッチンへ走り、ちょうど焼き上がったばかりのバタークッキーを小皿に乗せて持ってきた。
豊かなバターの香りと、ほんのりとした甘い匂いが店内に広がる。
「はい、どうぞ。サクサクして美味しいですわよ」
女の子がおずおずと手を伸ばし、小さな口でクッキーを齧る。
……サクッ。
「……おいしい」
ピタリ、と泣き声が止まった。
女の子の顔にぱぁっと明るい笑顔が戻った瞬間、私は心の中で拳を突き上げた。
(淑女の教養として叩き込まれたお菓子作りが、今この瞬間に最大の価値を発揮しましたわーーー!!)
「ふふ、良かったですわ。お名前を教えてくれるかしら?」
「ミシェル」
ミシェルちゃんというその子は、街の片隅にある花屋の娘さんだった。
綺麗な花を摘もうと夢中になっているうちに、森に迷い込んでしまったらしい。
◇
私たちは、ミシェルちゃんを送り届けるために連れ立って森を出た。
完璧な所作で歩く私、そして、落ち着いた足取りで隣を歩くルイ様。
そこに、なぜか「最後まで見届けないと寝覚めが悪い」とブツブツ文句を言うイグニスまで加わり、奇妙な四人組の行進となった。
街の端にある小さな花屋にたどり着くと、そこには血相を変えて娘を探していた、ミシェルちゃんのお母様の姿があった。
「ミシェル! ああ、良かった……!!」
再会を喜ぶ親子。
お母様は何度も私たちに頭を下げ、私たちが森の奥でカフェを営んでいることを話すと、目を輝かせた。
「森のカフェですって? それなら、ぜひこれを持っていってください。お礼なんて言いきれませんけれど、お店の役に立つはずだわ」
そう言って奥の温室から運んできてくれたのは、麻布で丁寧に根元を包まれた、瑞々しい苗の数々だった。
どれも王宮の温室ですら滅多にお目にかかれないような、生命力に満ち溢れた希少な種ばかりだった。
「ありがとうございます。大切に、大切に育てて、最高の一皿にさせていただきますわ」
私が深々とお辞儀をすると、お母様は少し照れたように、けれど確信に満ちた優しい眼差しで私の手を握り返した。
「ええ、あなたのその綺麗な手が、美味しいものを生み出す魔法の手だってことは、ミシェルの笑顔を見ればわかりますもの。森のカフェが、この苗たちでもっと賑やかになりますように」
ミシェルちゃんも、私のスカートの裾をぎゅっと掴んで、期待に満ちた瞳で見上げてくる。
「ねえ、お姉ちゃん。そのトマトが赤くなったら、またクッキー食べに行ってもいい?」
「ええ、もちろんですわ、ミシェルちゃん。その頃には、もっとびっくりするくらい美味しいお料理を準備しておきますわね」
私が優しく微笑むと、ミシェルちゃんは「約束だよ!」と元気よく指切りを求めてきた。
その光景を、少し離れたところで腕を組んで見ていたイグニスが「……ふん。トマトが実るまで、この小娘の店が潰れてなきゃいいがな」と、わざとらしく鼻を鳴らす。
すると、隣にいたルイ様が、迷いのない、けれど静かな威圧感を湛えた声で、さらりと言い放った。
「心配は無用だ。私がこの森を買い取った以上、彼女の店が不当な理由で閉ざされることは万に一つもない……ミシェル、トマトが赤くなる頃には、最高の特等席を予約しておこう」
「わあ! お兄ちゃん、本当!? やったー!」
ルイ様の規格外な「予約(森の管理宣言)」に、お母様が「まあ……?」と少し目を丸くして驚いていたが、ミシェルちゃんの純粋な歓喜の声にかき消されていった。
親子は私たちが街の角を曲がるまで、ずっと手を振って見送ってくれた。
背後に感じる街の喧騒。けれど、今の私の腕の中には、これから森で育っていく新しい命がある。
(……ふふっ。お父様、お母様。ご覧になって? 私は今、家柄や権力ではなく、一枚のクッキーでこれほどまでに豊かな『縁』を手に入れましたわ!)
夕日に照らされた帰り道、私は弾む心を完璧な淑女の歩調で隠しながら、心の中で盛大なステップを踏んでいた。
◇
森に戻った頃には、夕焼けが木々をオレンジ色に染めていた。
私たちはさっそく、カフェの庭の隅にいただいた苗を植えることにした。
「ルイ様、そちらはもう少し深く掘ってくださいませ。イグニス、そこは踏み固めすぎないで!」
私が指示を出すと、ルイ様は「私に任せなさい」と優雅に土を動かし、イグニスは「ちっ、面倒な」と言いつつも、誰よりも熱心に苗を運んでくれた。
やがて、整然と並んだ新しい苗たちが、森の土にしっかりと根を下ろした。
「……ふむ。これらが育てば、君の店はより一層、鮮やかな場所になるだろうね」
ルイ様が泥のついた手を眺めながら、慈愛を感じさせるような声で言った。
「ええ、楽しみですわ」
(お父様、お母様! 私は今、泥にまみれて未来の食材を植えましたわ! 公爵家では絶対に許されないこの汚れこそ、私の自由の証ですわーーー!!)
夕闇が迫る中、新しい苗たちが風に揺れている。
この場所がさらに賑やかになる予感に、私は静かに胸を躍らせるのだった。




