第14話 特製パスタと、王都からの風
リザードマンの客人が去り、店に穏やかな夕刻が訪れた頃。
片付けを終えたクラリスが、珍しく神妙な面持ちで私の前に立った。
「お嬢様。王都にいる私の友人から、少々不穏な知らせが届きました」
彼女が差し出したのは、小さな筒に入れられて運ばれてきたであろう、薄い羊皮紙の手紙だった。
「クラリスの友人? そんなところから、どうやってここまで……」
「ええ、私の数少ない友人でして。お嬢様の身に万が一のことがないよう、定期的に王都の動向を知らせるよう頼んでいたのです」
彼女は事も無げに言うけれど、この深い森の奥まで正確に情報を届ける友人も、相当な手練れに違いない。
私はルイ様に一言断ってから、その手紙に目を通した。
そこには、以前ルイ様に一喝されて逃げ帰ったはずの、ライオネル殿下の名が再び記されていた。
(ライオネル殿下……あんなに惨めな姿で逃げ出したというのに、まだ何か企んでいるというの……?)
手紙によれば、殿下は自身の醜態を棚に上げ、私が「邪悪な魔術師(ルイ様のこと?)にたぶらかされている」という破天荒な噂を王都で流し、父である国王陛下に「救出の許可」を求めて泣きついているらしい。
(予想を上回るしぶとさと、驚愕の責任転嫁ですわ!! そこまでいくともはや芸の域ですわね、殿下ーー!!)
私は心の中で爆笑しながらも、手紙を持つ指先には一切の震えを見せず、冷徹なまでの微笑を浮かべてそれを閉じた。
「……そうですか。わざわざ知らせてくれたお友達に感謝しますわね、クラリス。いつかその方にも、私のお料理を召し上がっていただきたいものですわ」
「はい。彼女も近々、こちらへ向かうと言っております。お嬢様のお料理を心底楽しみにしているはずですよ」
そう言って目を細めるクラリスを見て、私も再会の時を楽しみに思いながら、その日の夜を過ごした。
◇
翌朝。まだ朝露が草木を濡らし、森の空気がひんやりと心地よい時間帯のこと。
開店準備を始めようとしたその時、カランと軽やかな音を立てて店のドアが開いた。
「――お久しぶりですね、クラリス。相変わらずフライパンの磨き具合が完璧で安心しました」
ドアを潜ってきたのは、簡素な旅装束に身を包んだ、麦わら色の髪を一つに束ねた女性だった。
年齢はクラリスと同じくらいだろうか。大きな丸眼鏡の奥で、鳶色の瞳が賢しげに輝いている。
一見すると、王都のどこにでもいる商家の娘のような「背景に溶け込む」容姿。けれど、その足運びには一切の迷いがなく、音も立てない。
「ええ、セシル。あなたも相変わらず、犬並みの鼻の良さですね。ここを見つけるのに、大して時間はかからなかったでしょう?」
クラリスが、いつもの無表情の中にほんの少しだけ親愛の情を滲ませて、彼女――セシルを迎え入れた。
「お嬢様、紹介いたします。グラン・ロアのギルドで事務をしながら、私の手足となって動いてくれているセシルです。セシル、こちらが私がお仕えする、アリシア様です」
紹介された瞬間、セシルは流れるような所作で膝をつき、完璧なカーテシーを披露した。
それは王都の高級サロンでも通用するほど、非の打ち所がないものだった。
「初めまして、アリシア様。セシルと申します。道中、アリシア様が目利きして仕入れられたという、あの素晴らしいベーコンの噂を耳にしました。噂以上の芳醇な香りに、思わず仕事を忘れてしまいそうです」
セシルが立ち上がると同時、私は驚きに目を丸くした。
彼女は挨拶を終えるなり、流れるような動きでカウンターに散らばっていた予備のカトラリーを整え、お冷を補充し、まだ私が手をつけていなかった看板の微調整を始めたのだ。
無駄のない動き、客席全体を把握する視野の広さ。クラリスが「武」の侍女なら、彼女は「静」の給仕。
二人が並ぶと、まるで鏡合わせの双子のように店内の空気が引き締まっていく。
(クラリスのお友達、有能すぎですわ!! この二人さえいれば、うちの店は実家の騎士団が攻めてきても、お茶を出しながら撃退できる気がしますわよ!!)
私は心の中で喝采を送り、二人の「影のプロフェッショナル」による完璧な連携に、思わず背筋が伸びる思いだった。
「それでセシル。ライオネル殿下がいったい何を企んでいるのか、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
私が促すと、セシルは掃除の手を止めることなく、事務的な冷徹さで口を開いた。
「はい。殿下はご自身の失態を『魔術師の呪い』のせいにすり替え、王都で有志を募っております。『邪悪な魔に囚われた哀れなアリシアを救い出す』……名付けて、アリシア様奪還騎士団。近々、この森へ向けて進軍する構えです」
(奪還……騎士団……?)
あまりの馬鹿馬鹿しさに、耳を疑った。
ルイ様に一喝されて逃げ帰った恐怖を、今度は数に頼んで塗り潰そうというのか。
「……困りましたわね。静かな森の暮らしを邪魔されるのは、本意ではありませんわ」
「ご安心を、アリシア様。その『有志』の中には、私の息がかかった者も潜り込ませてあります。動きがあれば逐一ご報告いたしますわ」
セシルは眼鏡の奥で不敵に目を細めた。クラリスも隣で、静かにフライパンを握り直している。
「……まあ、その身勝手な騎士団(笑)の話は後日にしましょう。今は何より、遠路はるばる来てくれたセシルの歓迎が先決ですわ」
私がそう告げると、セシルの表情がパッと明るくなった。
「アリシア様……! そのお言葉をいただけるのを、心待ちにしておりました。道中も、こちらで味わえるお料理のことばかり考えてしまって空腹を紛らわせるのに必死でしたの」
先ほどまで王都の情勢を冷徹に語っていた「影のプロフェッショナル」はどこへ行ったのか。
丸眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせ、期待に胸を膨らませる彼女の姿は、まるで遠足を楽しみにしていた子供のよう。
そのあまりに真っ直ぐで潔い食いしん坊ぶりに、私は毒気を抜かれると同時に、たまらなく愛おしい気持ちになった。
(有能なスパイなのに、胃袋には勝てないなんて……最高ですわ! その期待、公爵家を追放された私のプライドにかけて、全力で応えてみせますわよーー!!)
セシルに最高の席を勧めると、私は軽快な足取りでエプロンの紐をきゅっと結び直し、厨房に立った。
厳選して仕入れた厚切りベーコンを贅沢に刻み、フライパンでじっくりと旨味を引き出していく。
そこへ、彩り豊かな季節の野菜と、茹で上げたばかりのモチモチの麺を投入する。
仕上げに黒胡椒をひと振り。燻製の香ばしさと野菜の甘みがパスタに絡みつき、店内に食欲をそそる香りが爆発した。
「さあ、召し上がれ。我が店特製『ベーコンと彩り野菜の贅沢パスタ』ですわ」
湯気の向こうで、セシルはフォークで勢いよく麺を巻き上げ、一口食べた瞬間に眼鏡を曇らせて身を乗り出した。
「なっ、何ですか、この一体感は! ベーコンの塩気がパスタの旨味を引き立てて、野菜の食感が絶妙なアクセントに……! 王都の高級店でも、これほど『心』が躍る一皿には出会えません!」
「ふふ、でしょう? 私が見抜いた自慢の食材と、この森の空気、そして何より自由という最高の調味料が効いていますのよ」
クラリスも無表情ながら、いつもよりフォークを動かす速度が速い。
親友との再会に、彼女の鋼のような瞳もどこか和らいで見えた。
三人の賑やかな笑い声が、夜の森に溶けていく。
王都での窮屈な礼儀作法も、誰かの顔色を窺う必要もない。ただ、信頼できる仲間と美味しい料理がある。
(これですわ! この何にも縛られない、気兼ねのない食卓こそが私の求めていた「自由」ですわーー!!)
私は心の中で快哉を叫びながら、黄金色に輝くパスタの最後の一口を、至福の心地で口に運んだ。
皿に残ったソースをパンで拭い取り、私は満足げにふうと息をつく。
不穏な手紙のことも、しぶとい元婚約者のことも、今はただこの満たされた幸福感の前の些細なスパイスに過ぎなかった。




