第12話 守られし自由、甘き余韻
幸せな余韻に包まれていた店内の空気が、突如として断ち切られた。
バンッ!
無作法に押し開けられたドアが壁に当たり、不快な音を立てる。
入り口に立っていたのは、お父様の右腕として知られる事務官だった。
彼は店内に一歩足を踏み入れるなり、鼻をつくベーコンの香りに露骨に顔を顰め、絹のハンカチで口元を覆った。
「……アリシアお嬢様。このような、獣の脂の臭いが染み付いた豚小屋のような場所で、一体何をされているのですか。ヴァレンタイン家の名を泥に塗るのも大概になさい」
その言葉は、私がこの店に込めた自由も、クラリスの献身も、そして今ルイ様と分かち合った温かな時間をも、すべて汚物であるかのように切り捨てた。
あまりの侮辱に、私の指先が怒りで小刻みに震える。
言い返そうと私が口を開きかけた、その時だった。
「――言葉が過ぎるのではないか」
それまで穏やかだった店内の空気が、一瞬にして凍りついた。
ルイ様が、私の前に一歩踏み出す。その背中からは、先ほどまでの優しさが嘘のような、肌を刺すほどに冷徹で圧倒的な覇気が放たれていた。
「……な、何者だ貴様は。部外者は下がって――」
「黙れ」
ルイ様の低く、地を這うような一喝に、事務官の言葉が喉で止まる。
ルイ様は事務官を氷のような瞳で見据え、静かに、けれど逃げ場のない威圧感を持って告げた。
「ここは、私が心から安らぎを感じる唯一の場所だ。それを『豚小屋』と侮辱する不届き者は、誰であれ許さない……たとえ、ヴァレンタイン公爵の使いであろうともだ」
事務官はルイ様の放つただならぬ気位に、まるで巨大な肉食獣の前に立たされた小動物のように立ちすくみ、額からだらだらと脂汗を流し始めた。
守られている。その確信に胸が熱くなると同時に、私の心の一部は、別の意味で限界を迎えようとしていた。
(今のルイ様、まるでお父様どころか、国王陛下さえも跪かせてしまいそうな迫力ですわ……!)
私はどうにかドレスの裾を強く握りしめ、震える膝を抑えて「静かに怒れる公爵令嬢」の沈黙を保った。
「閣下に伝えろ」
ルイ様の声は、低く、けれど雷鳴のように店内に響き渡った。
事務官は、蛇に睨まれた蛙のように硬直したまま、言葉一つ返すことができない。
「彼女の自由は、この私が保証する。この場所を、彼女の意志を、塵一つでも傷つけようとするならば――ヴァレンタイン公爵家とて、相応の報いを受ける覚悟をすることだ」
その瞳に宿るのは、一切の妥協を許さない統治者の色だった。
事務官はガチガチと歯の根が合わない音を立て、逃げるようにして馬車へと転がり込んだ。やがて、土煙を上げて漆黒の馬車が去っていく。
嵐が去った後のような静寂の中で、ルイ様はふう、と静かに息を吐くと、いつもの柔らかな表情に戻って私を振り返った。
「すまない、アリシア。少し、強引すぎたかな?」
あまりの落差に、私は言葉を失う。
さっきまで「国王陛下も跪かせそう」だったお方が、今はもう、エプロンの紐が少し緩んでいることを気にする「困った助手」に戻っている。
(……ルイ様、強引すぎるどころか、格好良すぎて寿命が縮まりましたわ……!)
私は、お父様の事務官を相手に「報いを受ける」と言い切ったルイ様の底知れなさに震えつつも、それ以上に、彼が守ってくれた「私の自由」が愛おしくてたまらなくなった。
私は完璧な淑女の所作を維持しながら、深く一礼する。
「いいえ……私と、このお店を守ってくださって、本当にありがとうございました、ルイ様」
けれど、頭を下げている私の視界は、歓喜で潤んでいた。
(『私が保証する』ですって!! 全人類に今のシーンを録画して見せてやりたいくらいですわ!! お父様ーーー! 私、最強の味方を見つけちゃいましたーーー!!)
私は心の中でドレスの裾を翻し、感謝の言葉の裏で全力のガッツポーズをした。
◇
遠ざかる馬車の音を背に、私はようやく肺の底から大きく息を吐き出した。
先ほどまでのルイ様の圧倒的な覇気が嘘のように消え、店内の空気はいつもの穏やかな温度に戻っている。
「……お嬢様。まずは落ち着いて、お茶にしましょう。少し刺激が強すぎましたから」
クラリスが手際よくお湯を沸かし、今日市場で見つけた上質なアッサムの茶葉をポットに入れる。
やがて、蒸気と共に華やかな香りが広がり、張り詰めていた心を優しく解きほぐしていった。
ルイ様はエプロンを外し、いつものように優雅に椅子に腰を下ろすと、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「せっかくの新メニューの余韻を台無しにしてしまって、すまなかったね……紅茶、いただこうかな」
「とんでもございません。ルイ様がいてくださって、本当に助かりましたわ」
私は彼が淹れてくれた紅茶を一口、ゆっくりと含んだ。
温かな液体が喉を通り、お父様からの重圧を少しずつ洗い流してくれる。隣にいるのは、信頼できる無愛想な侍女と、あまりに頼もしすぎる謎の助手。
(ああ……これよ。誰に指示されることもなく、自分の好きな場所で、好きな人と、この香りに浸る喜び……!)
私はティーカップを置き、窓の外に広がる森の緑を眺めた。
お父様の怒りはまだ収まっていないだろうし、ルイ様の正体も分からない。問題は山積みだけれど、今はただ、この静かな時間を噛み締めていたかった。
「……ルイ様。もしよろしければ、これからもお店を手伝っていただけますか?」
「もちろんだ……君の隣にいられるというのなら、私は喜んで、この場所を全力で守らせてもらうよ」
ルイ様は悪戯っぽく、けれどどこまでも真剣にそう言った。
私は顔が赤くなるのを隠すように、最後の一口の紅茶を飲み干した。
(ルイ様……! その台詞は、もう反則を通り越して罪ですわ! 私の心臓をどうされるおつもり!?)
私は完璧な淑女の所作を維持しながらも、内面では喜びのあまりのたうち回っていた。
もしお父様やお母様が、私が実家の命令をはねのけた直後、あろうことか素性の知れない殿方と、のんびりとお茶を嗜んで微笑み合っている今の光景を見たならば。
間違いなく「ヴァレンタイン家の娘は、度胸まで公爵級になったというのか!」と叫びながら、その場で卒倒することだろう。




