第15話 深淵の契約、月下に語られる一族の業
ウォーレンが陽炎の向こうへと消えてから、カフェ・ヴァレンタインには奇妙な静寂が居座っていた。
夏の盛りを過ぎようとしてもなお、森を包む熱気は衰えを知らない。
夜になっても土は昼間の日差しを溜め込み、草むらからは沸き立つような虫の音が、執拗に静寂を削り取っていた。
閉店後のダイニング。
私は一人、カウンターを磨いていた。
ウォーレンがいつも陣取っていた席は、今やただの空間としてそこにある。
あの日々がいかに賑やかで、そして不作法なまでの活力に満ちていたかを、皮肉にもその「不在」が証明していた。
「アリシア。まだ休んでいないのかい」
離れのログハウスから、ルイ様が静かに足を踏み入れてきた。
夕焼け色の髪はランプの光を受けて穏やかに揺れている。
けれど、そのエメラルドの瞳には、かつてないほど鋭い決意の光が宿っていた。
「ルイ様……ええ、少しばかり、手が止まらなくて」
「君の心がざわついているのはわかるよ……私も、同じだ。アストライアの王宮へ早馬を出した。私の直属部隊を国境付近へ待機させる。何があっても、君にだけは火の粉を飛ばさせない」
ルイ様は私の隣に立ち、力強く私の手を握った。
彼が「王」としての力を、再び私のために振るおうとしている。
その覚悟の重さに、私の胸が締め付けられた。
「ルイ様、ありがとうございます……けれど、これはヴァレンタイン家の、私の血が招いた嵐かもしれませんのに」
「君の血が何であろうと、君は私のすべてだ、アリシア」
ルイ様が私の銀髪にそっと触れようとした、その時。
「――アリシア様、ルイ様……お話しすべき時が来たようです」
背後の闇から、重厚な足音と共にマルクス団長が現れた。
くすんだ茶色の瞳は、いつになく深く沈んでいる。
彼は私のお父様――ヴァレンタイン公爵に長年仕え、紆余曲折を経て今は私のカフェを守ってくれている鉄衛騎士団の誇り高き団長だ。
その彼が、これほどまでに深刻な顔をしているのを見るのは、お母様が連行されたあの日以来だった。
マルクスは、促されるままにテーブルの端に腰を下ろした。
鉄衛騎士団の紋章が刻まれたマントを傍らに置き、彼は絞り出すような声で語り始めた。
「ウォーレン・アスターの家……アスター家が没落したのは、責任を押し付けられる形で失脚しただけではありませんでした。あの一族は、グラン・ロアの北方に眠る『白銀の鉱脈』の権利を代々守ってきたのです。北の公爵が喉から手が出るほど欲していた、国の根幹を揺るがすほどの利権です」
私は、手にしていた布巾を強く握りしめた。
「北の公爵はその権利を奪うために罠を仕掛けた……そして、不運にもその企みに『名を貸して』しまったのが……アリシア様、貴女のお母様だったのです」
「お母様が……? どうして、そんなことを」
「お母様はヴァレンタイン家の栄光をより盤石なものにしたいと考えられたのでしょう……公爵から提示されたのは、アスター家を排除する代わりに、ヴァレンタイン家が北の利権の半分を継承するという『白銀の誓約』でした。お母様は、お父様に内緒でその契約書にサインをしてしまったのです」
目の前が真っ白になるような感覚だった。
かつて花畑で一緒に遊んだウォーレン。
彼の家が壊れた原因の一端が、私の、一番身近な肉親の手によるものだったなんて。
「お父様はその事実を後から知り、激怒されました……公爵はお母様の署名が入ったその誓約書を盾に、ヴァレンタイン家を脅迫し始めた。お父様が下した決断は、あまりに残酷なものでした……お母様を『別件の罪』で王宮へ差し出すことで、あえてその繋がりを公に断ち切り、貴女とヴァレンタインの名を、完全な破滅から救い出したのです」
「……じゃあ、お父様はお母様を売ったのではなく、私を守るために……お母様の犯した最大の罪を、隠蔽するために……」
「左様です……ですが、北の公爵は今もその『白銀の誓約』の原本を握っている。ウォーレン殿が一人で北へ向かったのは、その契約書を奪還し、ヴァレンタイン家の……貴女の過去を清算するためでしょう。あの男は、最初からすべてを知っていたのです」
涙が溢れそうになり、私は唇を噛んだ。
不作法な狼。
彼は私を恨むどころか、自分の家を壊した女の娘である私を、過去の呪縛から解き放つために一人で地獄へ向かったのだ。
重すぎる真実がダイニングを満たし、空気は氷のように冷え切っていた。
ルイ様は黙って私の肩を抱き寄せ、その大きな手で私の震えを抑えようとしてくれる。
「……マルクス。話してくれて、ありがとう……貴方の忠義に、感謝しますわ」
◇
私は立ち上がり、ふらつく足取りでキッチンへと向かった。
この動揺を、この胸を抉るような罪悪感を、私は料理でしか制御することができなかった。
私が用意したのは、『月下の真白きヴィシソワーズ(冷製ジャガイモのスープ)』だ。
丁寧に皮を剥き、じっくりと蒸し上げたジャガイモ。
それを裏ごしし、冷たいミルクと生クリームを加えて、滑らかに仕立てていく。
味付けは、ごく少量の塩と、隠し味にコンソメのジュレを。
ジャガイモは、ヴァレンタイン家の象徴――泥臭くとも大地に根を張り、人々を支える糧。
それを、冷徹なまでの純白に磨き上げた。
「……皆様、召し上がれ……冷たいですが、心の芯を温めるように作りましたわ」
私が差し出したスープ。
ルイ様は一口飲み、その滑らかな舌触りに目を閉じた。
「……アリシア。ジャガイモの力強い滋味が、クリームの優しさに包まれている。今の君の心のようだね……大丈夫だ、君は一人ではない」
「……アリシア様。お父様が守りたかったのは、この、一点の曇りもない貴女の料理なのですよ……我ら鉄衛騎士団は、どこまでもお供いたします」
マルクスもまた、一口ごとに噛みしめるようにスープを味わった。
冷たいスープが喉を通るたびに、私の覚悟が形を成していく。
逃げることはできない。
お母様の過ち、お父様の決断、そしてウォーレンの献身。
そのすべてを背負って、私は店主として、ヴァレンタインの娘として、答えを出さなければならない。
「……ルイ様。私、行かなければなりません……グラン・ロアへ。お父様を、そしてウォーレンを助けに」
「……わかっているよ、アリシア。君がそう言うことは、最初から予感していたさ」
ルイ様は私の手を取り、その手の甲にある「太陽の紋章」を私に見せた。
「君が向かう場所がどこであろうと、私の光は君のためにある。アストライアの王として、一人の男として、君の進む道を照らす光になろう。マルクス、鉄衛騎士団の準備を……私の直属部隊と連携し、グラン・ロアの国境を封鎖する」
「御意! アリシア様、ついに本当の『お掃除』の時間が来たようですな」
マルクスが力強く頷き、鎧を鳴らして立ち上がった。
窓の外。
夏の熱気を含んだ風が、木々を激しく揺らしている。
明日には、北の公爵からの正式な「招待状」が届く。
それは、私の平穏な日常に別れを告げる、宣戦布告に等しいものになるだろう。
「……クラリス。旅の支度を。最高に不作法で……そして魂を賭けた『里帰り』が始まりますわよ」
「畏まりました……お嬢様。雑巾より先に、磨き上げたフライパンが必要なようですわね」
クラリスが、暗闇の中で白緑の瞳を冷たく光らせた。
夏の終わりの夜。
私は、母が遺した因縁を焼き切るための火を、心の奥底で静かに灯した。
嵐はもう、そこまで来ている。




