第14話 朝凪の決断、狼の去り際
昨夜の喧騒を飲み込んだ森は、夜明けと共にさらなる熱を帯び始めていた。
霧は深く立ち込めているものの、それは涼しさではなく、これから訪れる猛暑を予感させる重苦しい湿気だ。
キッチンの窓を開けると、早朝から鳴き始めたセミの声が、容赦なく室内に流れ込んでくる。
私が朝一番のパンを焼き上げる頃、店の裏手から革の擦れる音と、低い蹄の響きが聞こえてきた。
「……こんな朝早くに、どちらへ行くつもりですの?」
私が店の勝手口を開けると、そこには旅の支度を整えたウォーレンが立っていた。
紺青の髪は湿った熱気に少し張り付き、いつもより落ち着いた色を放っている。
そのスモークブルーの瞳には、昨夜までの人を食ったような余裕はなく、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿っていた。
「……アリシアか。起こすつもりはなかったんだが、鼻が利くのは相変わらずだな」
「居候が黙って逃げ出すのを許すほど、店主の耳は遠くありませんわ。ウォーレン、その格好、本当に店を出るのですか?」
ウォーレンは愛馬の手綱を握り直し、強い日差しを避けるように目を細めた。
「……昨日、ユリウスから聞いたろ。北の公爵の狙いは、俺とアスター家の過去だ。あいつがこの森に余計な騒動を持ち込む前に、俺が先回りして、その思惑を叩き潰してくる」
「一人で? 相手はグラン・ロアでも指折りの実力者ですのよ!」
「俺一人の問題だ。君に、これ以上不吉な招待状を受け取らせたくない。ヴァレンタインの名を、俺の過去で汚させるわけにはいかないんだよ」
彼の言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
没落し、すべてを失ってもなお、彼は私の誇りを守ろうとしている。
その不器用な誠実さに、私はかける言葉を見つけられなかった。
「……待ちなさい。空腹で旅立つなんて、料理人の前で一番やってはいけない振舞いですわ」
私は彼を強引に引き止め、キッチンへと戻った。
急いで用意したのは、『厚切りローストビーフの黒胡椒サンド』。
真夏の熱気に負けないよう、スタミナのつく上質な牛のローストを贅沢に厚切りにする。
それを、表面を香ばしく焼いたバゲットに挟み、砕いたばかりの黒胡椒をたっぷりと振りかけた。
ソースは、暑さで落ちた食欲を刺激するホースラディッシュを効かせたクリーム。
さらに、口当たりを爽やかにするために、たっぷりのクレソンを押し込んだ。
「これを。北の冷徹な策略に負けないよう、刺激を強めにしてありますわ。それから、このスープも飲み干して行きなさい」
熱いコンソメスープを差し出すと、ウォーレンは一瞬だけ呆れたように笑い、それを受け取った。
「……はは、どこまでも店主殿だな。美味い。この熱さえあれば、北の冷たい空気なんて吹き飛ばせそうだぜ」
ウォーレンが豪快にサンドを頬張り、スパイシーな刺激に瞳を細めた。
その様子を、キッチンの影から静かに見守る視線があった。
「……見送りに間に合ったかな、ウォーレン・アスター」
テラスの階段から、ルイ様が静かに現れた。
朝陽を浴びた夕焼け色の髪が、彼の神聖な威厳を際立たせている。
右手には、書類の束ではなく、一本の剣が握られていた。
「ルイ様……」
「王様……わざわざ、俺を捕まえに来たのか?」
「いや。一人の男が自分の『精算』に向かうというのを、止めるほど私は野暮ではないよ。だが、ウォーレン。君を行かせるのには、一つだけ条件がある」
ルイ様がウォーレンの目の前で剣を立て、エメラルドの瞳で彼を真っ直ぐに見据えた。
「条件だぁ?」
「生きて戻ることだ。君が向かう先には、想像以上の闇があるだろう。もし君が倒れれば、アリシアは自分のせいで君が死んだと一生悔やむことになる。それは、私の隣にいる彼女には似つかわしくない『影』だ」
ルイ様が、一歩前に出る。
「君がここで朽ち果てることは許さない。精算が終われば、堂々とこのカフェに戻ってきて、私に負けを認めなさい。それが、私の大切な女性を不安にさせた君の、最低限の義務だ」
ウォーレンは一瞬、目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「……はっ、最高に傲慢な王様だな。わかったよ、約束する。あんたに白旗を揚げるために、地獄の底からでも戻ってきてやるぜ」
ウォーレンが馬に跨り、強い日差しで地面が揺れる森の参道へと向き直った。
「アリシア。昨夜言ったこと、忘れるなよ。俺が道を見失ったら、迎えに来てくれるんだろ?」
「……冗談はおやめなさいな。貴方が迷わないように、私がこの店で最高に美味しい料理を焼き続けてあげますわ。その匂いを目印に戻ってくればいいでしょう?」
私は強がって笑い、胸元の鍵のペンダントを強く握りしめた。
「ああ。行ってくる」
ウォーレンは一度も振り返ることなく、陽炎が揺れる森の奥へと消えていった。
静かになったカフェ。
ゾアが二階から「おい、狼はどこへ行った! 肉を奪い合う相手がいないぞ!」と大声で降りてくる。テリオンが森の陰から、去りゆく馬の音を静かに聞き届けていた。
「……ルイ様。私は……」
「わかっているよ、アリシア。君が彼を心配するのは、優しさではなく、君の誇りだ。店主として、家族を一人、送り出したのだからね」
ルイ様が私の肩に手を置き、その安定した温もりを伝えてくれる。
真夏の猛暑の中に、遠い北から届いた不穏な気配。
ウォーレンの去ったカフェ・ヴァレンタイン。そこには、嵐を前にした静かな決意と、黒胡椒のような鋭い余韻が漂っていた。
「……さあ、仕込みを始めましょう。ルイ様、今日はお茶をたくさん淹れなければなりませんわね」
私はフライパンを握り直し、一段と強い火を灯した。




