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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第5章

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第14話 朝凪の決断、狼の去り際

 昨夜の喧騒を飲み込んだ森は、夜明けと共にさらなる熱を帯び始めていた。


 霧は深く立ち込めているものの、それは涼しさではなく、これから訪れる猛暑を予感させる重苦しい湿気だ。

 キッチンの窓を開けると、早朝から鳴き始めたセミの声が、容赦なく室内に流れ込んでくる。


 私が朝一番のパンを焼き上げる頃、店の裏手から革の擦れる音と、低い蹄の響きが聞こえてきた。


「……こんな朝早くに、どちらへ行くつもりですの?」


 私が店の勝手口を開けると、そこには旅の支度を整えたウォーレンが立っていた。

 紺青の髪は湿った熱気に少し張り付き、いつもより落ち着いた色を放っている。

 そのスモークブルーの瞳には、昨夜までの人を食ったような余裕はなく、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿っていた。


「……アリシアか。起こすつもりはなかったんだが、鼻が利くのは相変わらずだな」


「居候が黙って逃げ出すのを許すほど、店主の耳は遠くありませんわ。ウォーレン、その格好、本当に店を出るのですか?」


 ウォーレンは愛馬の手綱を握り直し、強い日差しを避けるように目を細めた。


「……昨日、ユリウスから聞いたろ。北の公爵の狙いは、俺とアスター家の過去だ。あいつがこの森に余計な騒動を持ち込む前に、俺が先回りして、その思惑を叩き潰してくる」


「一人で? 相手はグラン・ロアでも指折りの実力者ですのよ!」


「俺一人の問題だ。君に、これ以上不吉な招待状を受け取らせたくない。ヴァレンタインの名を、俺の過去で汚させるわけにはいかないんだよ」


 彼の言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。

 没落し、すべてを失ってもなお、彼は私の誇りを守ろうとしている。

 その不器用な誠実さに、私はかける言葉を見つけられなかった。


「……待ちなさい。空腹で旅立つなんて、料理人の前で一番やってはいけない振舞いですわ」


 私は彼を強引に引き止め、キッチンへと戻った。

 急いで用意したのは、『厚切りローストビーフの黒胡椒サンド』。


 真夏の熱気に負けないよう、スタミナのつく上質な牛のローストを贅沢に厚切りにする。

 それを、表面を香ばしく焼いたバゲットに挟み、砕いたばかりの黒胡椒をたっぷりと振りかけた。

 ソースは、暑さで落ちた食欲を刺激するホースラディッシュを効かせたクリーム。

 さらに、口当たりを爽やかにするために、たっぷりのクレソンを押し込んだ。


「これを。北の冷徹な策略に負けないよう、刺激を強めにしてありますわ。それから、このスープも飲み干して行きなさい」


 熱いコンソメスープを差し出すと、ウォーレンは一瞬だけ呆れたように笑い、それを受け取った。


「……はは、どこまでも店主殿だな。美味い。この熱さえあれば、北の冷たい空気なんて吹き飛ばせそうだぜ」


 ウォーレンが豪快にサンドを頬張り、スパイシーな刺激に瞳を細めた。

 その様子を、キッチンの影から静かに見守る視線があった。


「……見送りに間に合ったかな、ウォーレン・アスター」


 テラスの階段から、ルイ様が静かに現れた。

 朝陽を浴びた夕焼け色の髪が、彼の神聖な威厳を際立たせている。

 右手には、書類の束ではなく、一本の剣が握られていた。


「ルイ様……」


「王様……わざわざ、俺を捕まえに来たのか?」


「いや。一人の男が自分の『精算』に向かうというのを、止めるほど私は野暮ではないよ。だが、ウォーレン。君を行かせるのには、一つだけ条件がある」


 ルイ様がウォーレンの目の前で剣を立て、エメラルドの瞳で彼を真っ直ぐに見据えた。


「条件だぁ?」


「生きて戻ることだ。君が向かう先には、想像以上の闇があるだろう。もし君が倒れれば、アリシアは自分のせいで君が死んだと一生悔やむことになる。それは、私の隣にいる彼女には似つかわしくない『影』だ」


 ルイ様が、一歩前に出る。

 

「君がここで朽ち果てることは許さない。精算が終われば、堂々とこのカフェに戻ってきて、私に負けを認めなさい。それが、私の大切な女性を不安にさせた君の、最低限の義務だ」


 ウォーレンは一瞬、目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。


「……はっ、最高に傲慢な王様だな。わかったよ、約束する。あんたに白旗を揚げるために、地獄の底からでも戻ってきてやるぜ」


 ウォーレンが馬に跨り、強い日差しで地面が揺れる森の参道へと向き直った。


「アリシア。昨夜言ったこと、忘れるなよ。俺が道を見失ったら、迎えに来てくれるんだろ?」


「……冗談はおやめなさいな。貴方が迷わないように、私がこの店で最高に美味しい料理を焼き続けてあげますわ。その匂いを目印に戻ってくればいいでしょう?」


 私は強がって笑い、胸元の鍵のペンダントを強く握りしめた。

 

「ああ。行ってくる」


 ウォーレンは一度も振り返ることなく、陽炎が揺れる森の奥へと消えていった。

 

 静かになったカフェ。

 ゾアが二階から「おい、狼はどこへ行った! 肉を奪い合う相手がいないぞ!」と大声で降りてくる。テリオンが森の陰から、去りゆく馬の音を静かに聞き届けていた。


「……ルイ様。私は……」


「わかっているよ、アリシア。君が彼を心配するのは、優しさではなく、君の誇りだ。店主として、家族を一人、送り出したのだからね」


 ルイ様が私の肩に手を置き、その安定した温もりを伝えてくれる。

 

 真夏の猛暑の中に、遠い北から届いた不穏な気配。

 ウォーレンの去ったカフェ・ヴァレンタイン。そこには、嵐を前にした静かな決意と、黒胡椒のような鋭い余韻が漂っていた。


「……さあ、仕込みを始めましょう。ルイ様、今日はお茶をたくさん淹れなければなりませんわね」


 私はフライパンを握り直し、一段と強い火を灯した。

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