第10話 真夜中の晩餐、月下に交わす男たちの矜持
夏の夜気は、夕立が過ぎ去った後もなお、湿った熱を孕んでいた。
森の静寂の中に、遠くで響く梟の声と、葉先から滴り落ちる雨垂れの音だけが規則正しく刻まれている。
私は、自室のベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
昼間のテラスでの、ウォーレンの強引な抱擁。
そして夕立の岩陰で、ルイ様が見せた剥き出しの独占欲。
耳元にはまだ、ルイ様の熱い吐息が残っているような気がして、胸元の「鍵」のペンダントに触れる。
この鍵は、彼が「もし私が力の使い方を間違えたら、これで私を止めてくれ」と託してくれた、信頼の証。
ルイ様こそが、私の帰るべき場所。
それは疑いようのない真実なのに、私の心臓は、いまだに不作法な音を立てて波打っていた。
「……眠れませんわ。冷たいミルクでも飲んで、落ち着かなければ」
私は肩に流れる銀髪を無造作に手櫛で整え、寝間着の上に薄手のガウンを羽織ってキッチンへと向かった。
ところが。
深夜のカフェのダイニングには、消し忘れのような微かなランプの光が灯り、そこから芳醇な酒の香りと、低く唸るような男たちの声が漏れていた。
「……王様。あんた、意外と酒は強いんだな。もっとこう、薄いワインをちびちび飲むタイプかと思ってたぜ」
「……君こそ、その双剣のように酔い方も鋭いようだね。没落してなお、これほど質の良い飲み方を忘れていないとは」
私は、キッチンの入り口で立ちすくんだ。
そこには、テーブルを挟んでルイ様とウォーレンが向き合い、一本の酒瓶を共有していた。
ルイ様は、いつもの洗練された身なりを少しだけ崩し、シャツの第一ボタンを外している。
夕焼け色の髪がランプの光に透け、エメラルド色の瞳は、酔いのせいか、あるいは隠しきれない情熱のせいか、潤んだような光を湛えていた。
対するウォーレンは、夜空を溶かし込んだような紺青の髪をさらに乱暴に撥ねさせ、鋭く削ぎ落とされた幾重もの毛束が、彼の不敵な横顔を野性的に彩っている。
短剣の刃を思わせる鋭い毛先が、グラスを傾けるたびに肩の上で揺れ、スモークブルーの瞳には、ルイ様への敵意を隠そうともしない挑戦的な色が浮かんでいた。
「……お二人とも。こんな時間に何をなさっているのですか?」
私が声をかけると、二人の視線が一斉に私に向けられた。
「アリシア。すまない、起こしてしまったかな……あまりに月が綺麗だったから、少しばかり、この放浪の男と語り合っていたんだよ」
「語り合うなんて可愛いもんじゃないぜ、アリシア……どちらが先に潰れるか、男のプライドを賭けた真剣勝負の最中だ」
ウォーレンが不敵に笑い、私の銀髪をじっと見つめる。
その視線に射抜かれ、私は思わずガウンの襟を合わせた。
「不作法ですわ。ルイ様も、深酒は身体に毒ですわよ」
「わかっている……だが、今夜はどうしても、シラフでいるのが難しくてね」
ルイ様の視線が、私の唇をなぞるように動く。
夕立の岩陰での記憶が蘇り、私は顔が火照るのを感じた。
「――アリシア様。そしてルイ様……少々、不作法が過ぎるようですな」
背後から、重厚な鎧の擦れる音と共に、落ち着いた声が響いた。
鉄衛騎士団の団長、マルクスだ。
長身を直立させ、くすんだ茶色の瞳に静かな厳格さを宿した彼は、巡回を終えたばかりなのか、僅かに雨の匂いを纏っていた。
「マルクス。まだ起きていたのか」
「ルイ様。私の職務はアリシア様と、そして貴方様の身を守ることです。このような深夜に、どこの馬の骨とも知れぬ狼と酒を酌み交わすなど、護衛官としては見過ごせません」
マルクスは私に恭しく一礼すると、ウォーレンに向けて鋭い一瞥を投げた。
「ウォーレン・アスター。ヴァレンタイン公爵閣下が目をかけていた、あの有望な嫡男か……だが、今の貴方はただの野良犬に過ぎない。我が主の娘に、これ以上の不作法を働くというのなら、この私が容赦はしない」
「……へぇ。親父のことを知ってる奴が、こんな森にいるとはな」
ウォーレンが、初めて少しだけ真剣な表情を見せた。
マルクスは、アリシアの父である公爵に長年仕えてきた忠臣だ。
彼にとって、ウォーレンという存在は、懐かしさと同時に、今の平穏を乱す「不穏分子」に他ならない。
「マルクス、いいのですわ。ウォーレンは、その……怪我をしているようですし」
「怪我、ですか。アリシア様、この男の目は獲物を狙う狩人のそれです。同情は不作法な隙を生みます。ルイ様も、これ以上彼に構うのはおやめください」
張り詰めた空気がダイニングを満たす。
私はこの息が詰まるような緊張感を打ち消すために、キッチンへと足を踏み入れた。
「お喋りをする口があるなら、少しは腹ごしらえをしなさいな。酒だけを流し込むなんて、一流の飲み手とは言えませんわ」
私は、冷蔵庫から丸ごとのカマンベールチーズを取り出した。
それを厚手のフライパンに乗せ、弱火でじっくりと温める。
チーズの表面が膨らみ、中がトロリと溶け始めた頃合いを見計らって、私はそこへ黒胡椒をたっぷりと挽きかけた。
ジワッ、という音と共に、黒胡椒の鮮烈な刺激がチーズの濃厚な香りと混じり合う。
仕上げに、黄金の蜂蜜を滝のように回しかければ、『深夜の焦がし蜂蜜ペッパー・カマンベール』の完成だ。
「さあ、召し上がれ。マルクス、貴方の分もありますわよ」
私はバゲットの切れ端を添えて、三人の男たちの前に一皿ずつ置いた。
トロリと溶け出したカマンベールの塩気に、蜂蜜の背徳的な甘みが絡みつき、黒胡椒のキレが全体を引き締める。
熱々のチーズを口に運べば、酒で痺れた舌に強烈な「悦楽」が走り、冷えた心が強制的に温められるような感覚になるはずだ。
「……美味い! やはり、君の料理は毒だ、アリシア」
ウォーレンが、チーズを一口食べ、幸せそうに瞳を細める。
「……ああ。君の作るものは、どうしてこうも、心を穏やかに……そして激しく揺さぶるのだろうな」
ルイ様もまた、愛おしげにフォークを口へ運んだ。
「閣下が愛した味を、アリシア様もしっかりと継いでおられる……不作法な真似をした自分を恥じたくなるような、清廉な味ですな」
マルクスも、いつになく穏やかな表情で頷いた。
三人の男が、私の作った料理を囲んで、再び静寂の中に沈む。
黄金の守護者、ルイ様。
紺青の侵略者、ウォーレン。
そして、過去と忠誠の象徴、マルクス。
私を巡る「ノイズ」は、この深夜の晩餐を経て、より深く、より複雑に絡み合っていく。
(ルイ様……私は貴方のものだと誓いました……けれど、どうしてこの不作法な夜が終わってほしくないなんて、思ってしまうのかしら)
私は、自分自身のカップに残った冷たいミルクを飲み干した。
ルイ様とウォーレン、そしてそれを監視するマルクス。
夏の夜空には、昨夜よりもずっと大きく、けれど冷たい月が浮かんでいた。
私の決断が必要な朝は、もうすぐそこまで来ている。
「……お嬢様。夜更かしは、お肌にも、そして何より『覚悟』にも毒でございますわよ」
いつの間にか影のように現れたクラリスが、私の肩にショールをかけ直す。
私は、三人の男たちの背中を見つめながら、夜の静寂へと戻るしかなかった。
夏の熱気は、眠りを拒むほどに、濃密に私を包み込み続けていた。




