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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第5章

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第10話 真夜中の晩餐、月下に交わす男たちの矜持

 夏の夜気は、夕立が過ぎ去った後もなお、湿った熱を孕んでいた。

 森の静寂の中に、遠くで響く梟の声と、葉先から滴り落ちる雨垂れの音だけが規則正しく刻まれている。


 私は、自室のベッドの中で何度も寝返りを打っていた。

 昼間のテラスでの、ウォーレンの強引な抱擁。

 そして夕立の岩陰で、ルイ様が見せた剥き出しの独占欲。


 耳元にはまだ、ルイ様の熱い吐息が残っているような気がして、胸元の「鍵」のペンダントに触れる。

 この鍵は、彼が「もし私が力の使い方を間違えたら、これで私を止めてくれ」と託してくれた、信頼の証。

 ルイ様こそが、私の帰るべき場所。

 それは疑いようのない真実なのに、私の心臓は、いまだに不作法な音を立てて波打っていた。


「……眠れませんわ。冷たいミルクでも飲んで、落ち着かなければ」


 私は肩に流れる銀髪を無造作に手櫛で整え、寝間着の上に薄手のガウンを羽織ってキッチンへと向かった。

 

 ところが。

 深夜のカフェのダイニングには、消し忘れのような微かなランプの光が灯り、そこから芳醇な酒の香りと、低く唸るような男たちの声が漏れていた。


「……王様。あんた、意外と酒は強いんだな。もっとこう、薄いワインをちびちび飲むタイプかと思ってたぜ」


「……君こそ、その双剣のように酔い方も鋭いようだね。没落してなお、これほど質の良い飲み方を忘れていないとは」


 私は、キッチンの入り口で立ちすくんだ。

 そこには、テーブルを挟んでルイ様とウォーレンが向き合い、一本の酒瓶を共有していた。


 ルイ様は、いつもの洗練された身なりを少しだけ崩し、シャツの第一ボタンを外している。

 夕焼け色の髪がランプの光に透け、エメラルド色の瞳は、酔いのせいか、あるいは隠しきれない情熱のせいか、潤んだような光を湛えていた。


 対するウォーレンは、夜空を溶かし込んだような紺青の髪をさらに乱暴に撥ねさせ、鋭く削ぎ落とされた幾重もの毛束が、彼の不敵な横顔を野性的に彩っている。

 短剣の刃を思わせる鋭い毛先が、グラスを傾けるたびに肩の上で揺れ、スモークブルーの瞳には、ルイ様への敵意を隠そうともしない挑戦的な色が浮かんでいた。


「……お二人とも。こんな時間に何をなさっているのですか?」


 私が声をかけると、二人の視線が一斉に私に向けられた。


「アリシア。すまない、起こしてしまったかな……あまりに月が綺麗だったから、少しばかり、この放浪の男と語り合っていたんだよ」


「語り合うなんて可愛いもんじゃないぜ、アリシア……どちらが先に潰れるか、男のプライドを賭けた真剣勝負の最中だ」


 ウォーレンが不敵に笑い、私の銀髪をじっと見つめる。

 その視線に射抜かれ、私は思わずガウンの襟を合わせた。


「不作法ですわ。ルイ様も、深酒は身体に毒ですわよ」


「わかっている……だが、今夜はどうしても、シラフでいるのが難しくてね」


 ルイ様の視線が、私の唇をなぞるように動く。

 夕立の岩陰での記憶が蘇り、私は顔が火照るのを感じた。


「――アリシア様。そしてルイ様……少々、不作法が過ぎるようですな」


 背後から、重厚な鎧の擦れる音と共に、落ち着いた声が響いた。


 鉄衛騎士団の団長、マルクスだ。

 長身を直立させ、くすんだ茶色の瞳に静かな厳格さを宿した彼は、巡回を終えたばかりなのか、僅かに雨の匂いを纏っていた。


「マルクス。まだ起きていたのか」


「ルイ様。私の職務はアリシア様と、そして貴方様の身を守ることです。このような深夜に、どこの馬の骨とも知れぬ狼と酒を酌み交わすなど、護衛官としては見過ごせません」


 マルクスは私に恭しく一礼すると、ウォーレンに向けて鋭い一瞥を投げた。


「ウォーレン・アスター。ヴァレンタイン公爵閣下が目をかけていた、あの有望な嫡男か……だが、今の貴方はただの野良犬に過ぎない。我が主の娘に、これ以上の不作法を働くというのなら、この私が容赦はしない」


「……へぇ。親父のことを知ってる奴が、こんな森にいるとはな」


 ウォーレンが、初めて少しだけ真剣な表情を見せた。

 マルクスは、アリシアの父である公爵に長年仕えてきた忠臣だ。

 彼にとって、ウォーレンという存在は、懐かしさと同時に、今の平穏を乱す「不穏分子」に他ならない。


「マルクス、いいのですわ。ウォーレンは、その……怪我をしているようですし」


「怪我、ですか。アリシア様、この男の目は獲物を狙う狩人のそれです。同情は不作法な隙を生みます。ルイ様も、これ以上彼に構うのはおやめください」


 張り詰めた空気がダイニングを満たす。

 私はこの息が詰まるような緊張感を打ち消すために、キッチンへと足を踏み入れた。


「お喋りをする口があるなら、少しは腹ごしらえをしなさいな。酒だけを流し込むなんて、一流の飲み手とは言えませんわ」


 私は、冷蔵庫から丸ごとのカマンベールチーズを取り出した。

 それを厚手のフライパンに乗せ、弱火でじっくりと温める。

 チーズの表面が膨らみ、中がトロリと溶け始めた頃合いを見計らって、私はそこへ黒胡椒をたっぷりと挽きかけた。


 ジワッ、という音と共に、黒胡椒の鮮烈な刺激がチーズの濃厚な香りと混じり合う。

 仕上げに、黄金の蜂蜜を滝のように回しかければ、『深夜の焦がし蜂蜜ペッパー・カマンベール』の完成だ。


「さあ、召し上がれ。マルクス、貴方の分もありますわよ」


 私はバゲットの切れ端を添えて、三人の男たちの前に一皿ずつ置いた。

 

 トロリと溶け出したカマンベールの塩気に、蜂蜜の背徳的な甘みが絡みつき、黒胡椒のキレが全体を引き締める。

 熱々のチーズを口に運べば、酒で痺れた舌に強烈な「悦楽」が走り、冷えた心が強制的に温められるような感覚になるはずだ。


「……美味い! やはり、君の料理は毒だ、アリシア」


 ウォーレンが、チーズを一口食べ、幸せそうに瞳を細める。


「……ああ。君の作るものは、どうしてこうも、心を穏やかに……そして激しく揺さぶるのだろうな」


 ルイ様もまた、愛おしげにフォークを口へ運んだ。


「閣下が愛した味を、アリシア様もしっかりと継いでおられる……不作法な真似をした自分を恥じたくなるような、清廉な味ですな」


 マルクスも、いつになく穏やかな表情で頷いた。


 三人の男が、私の作った料理を囲んで、再び静寂の中に沈む。


 黄金の守護者、ルイ様。

 紺青の侵略者、ウォーレン。

 そして、過去と忠誠の象徴、マルクス。


 私を巡る「ノイズ」は、この深夜の晩餐を経て、より深く、より複雑に絡み合っていく。


(ルイ様……私は貴方のものだと誓いました……けれど、どうしてこの不作法な夜が終わってほしくないなんて、思ってしまうのかしら)


 私は、自分自身のカップに残った冷たいミルクを飲み干した。


 ルイ様とウォーレン、そしてそれを監視するマルクス。

 夏の夜空には、昨夜よりもずっと大きく、けれど冷たい月が浮かんでいた。


 私の決断が必要な朝は、もうすぐそこまで来ている。


「……お嬢様。夜更かしは、お肌にも、そして何より『覚悟』にも毒でございますわよ」


 いつの間にか影のように現れたクラリスが、私の肩にショールをかけ直す。

 

 私は、三人の男たちの背中を見つめながら、夜の静寂へと戻るしかなかった。

 夏の熱気は、眠りを拒むほどに、濃密に私を包み込み続けていた。

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