第9話 濡れた銀髪、嵐のあとの焦がし蜂蜜
その日の午後は、大気が極限まで膨張しきったような、逃げ場のない沈黙に包まれていた。
森の緑は深い影を落とし、遠くの空からは低く、飢えた獣の唸り声のような雷鳴が響き始めていた。
カフェ・ヴァレンタインの店内もまた、外気に負けないほどの熱を孕んでいる。
「暑苦しいですわね。イグニス、そんなところで黒いコートを脱がずに庭の手入れなんて、見ているこちらが倒れてしまいそうですわ」
「……死の気配というのは、これくらいの熱では揺らがないものだ。それよりアリシア、この『影歩き草』の根が、少しばかり湿りすぎている。嵐がくるぞ」
久々に「仕事」から戻ってきたイグニスが、鈍色の瞳で空を仰ぎ、不気味な色の植物を弄っている。
そのすぐ隣では、リザードマンのゾアが「暑い、暑いぞ主!」と叫びながら、巨大な斧を団扇代わりに振り回していた。
「我は冷たい肉が食いたい! 蜂蜜をたっぷりとかけた、氷のように冷えた猪肉を所望する!」
「ゾア、不作法に斧を振り回さないで……ジュリアン、アビーをそんなにバタバタさせたら、埃が舞いますわよ」
「あ、すみませんアリシアさん! アビーも暑いみたいで、羽を冷やそうとして……」
暗緑色の髪を揺らすジュリアンが、ワイバーンのアビーの首を必死に宥めている。
その光景を、プラチナブロンドの縦ロールを揺らしたカトリーナが扇子で仰ぎながら鼻で笑った。
「おーっほっほっほ! 獣もトカゲも、揃いも揃ってだらしない……けれど、一番だらしないのは、あそこで居眠りを装いながら店主のふくらはぎを眺めている、あの不遜な狼ではなくて?」
カトリーナの扇子が指す先には、テラスの陰で椅子に深く腰掛けたウォーレンがいた。
狼のたてがみを思わせる紺青の髪を顔に垂らし、寝たふりをしているが、そのスモークブルーの瞳は僅かに開いて私を追っている。
私は逃げるように視線を外したが、今度は離れのログハウスから戻ってきたルイ様と目が合ってしまった。
彼のエメラルド色の瞳は、いつになく深く沈んでいる。
テラスでウォーレンに抱き寄せられた記憶。
それを目撃したルイ様の凍てつくような嫉妬。
二人の男が放つ強烈な磁場に挟まれ、私は一刻も早くこの空間から逃げ出したかった。
「……氷が足りませんわ。魔力を帯びた『氷の泉』の水を汲んできます。バルト、後の接客は任せましたわよ」
「畏まりました、アリシア様……お気をつけて。虫が活発になる不作法な気圧ですから」
バルトの心配を背に、私は大きな水瓶を抱えて森の奥へと駆け出した。
◇
森の最深部、氷の泉に辿り着いた頃には、大気は既に限界を迎えていた。
泉の冷たい魔力に指先を浸し、少しだけ高鳴る鼓動を鎮める。
胸元では、ルイ様から預かったあの「鍵」のペンダントが、僅かに重みを持って揺れていた。
(ルイ様……あんなに怖いお顔をなさるなんて)
私がルイ様のことを思い、溜息を吐いたその瞬間。
世界が真っ白に弾け、直後に視界を遮るほどの激しい雨が降り注いだ。
「――っ!? 嘘でしょう!?」
夏の夕立は、不作法なまでに容赦がなかった。
一瞬にして世界は灰色に塗り潰され、大粒の雨が私の肩に流れる銀髪を、重く、冷たく濡らしていく。
泉の水面は激しく波立ち、あまりの雨音に周囲の音さえ聞こえなくなった。
「アリシア! こっちへ!」
激しい雨音を突き抜けて、聞き慣れた声が響いた。
夕焼け色の影が、荒れ狂う雨幕の中から飛び込んでくる。
ルイ様だ。
彼は大きな外套を広げると、呆然と立ち尽くす私を強引に抱き寄せた。
そのまま、泉のそばにある巨大な岩陰――雨風を凌げる小さな空洞へと滑り込む。
そこは、二人で入るにはあまりに狭かった。
岩の冷たさと、ルイ様の体温。
外界の豪雨が境界線を完全に遮断し、そこはまるで、この世に二人きりしか存在しないような、密な静寂に支配された。
「ルイ様……どうしてこちらへ。バルトに、行き先は告げなかったはずですが」
「君が店を出た瞬間の、あの『逃げるような』顔を見ればわかるよ……嫌な予感がしたんだ。雨の予感ではなく、君の心がどこか私の手の届かない遠くへ消えてしまうような、そんな不吉な予感がね」
ルイ様の声は、岩に叩きつける雨音に混じって低く、熱を帯びて響いた。
彼は私を岩壁と自分の身体の間に閉じ込めるようにして、濡れた外套を私にかけ直す。
彼の髪もまた雨に濡れ、いつもより深い色をした夕焼け色が、滴となって彼の頬を伝い、首筋へと流れていく。
「……ルイ様、貴方も濡れて……お召し物が台無しですわ」
私が震える手で彼の頬に触れようとした時。
その手首が、力強く、けれど壊れ物を扱うような繊細さで掴まれた。
昨日のウォーレンの野性的な熱さとは違う。
静かに、けれど心の底から燃え上がるような、逃れようのないルイ様の「執着」。
「アリシア……ウォーレンが君の『過去』だと言うのなら、私はそれを否定も邪魔もしない。だが、私の隣を空けることだけは、決して許さない」
ルイ様が一歩、密着するほどに距離を詰めた。
狭い岩陰で、彼の身体のラインが私に重なる。
濡れて肌に張り付いた私の銀髪を、彼の細い指先が愛おしげに、けれど強く掬い上げる。
湿り気を帯びた銀糸が彼の指に絡みつき、雨の匂いと、ルイ様がいつも纏っている白檀の香りが、濃密に立ち込めた。
「ルイ……様……」
「……不作法な狼に、私の『すべて』である君を譲る道理はないんだよ、アリシア。君を、誰にも、一瞬たりとも渡したくない」
彼のエメラルド色の瞳が、かつてないほどの色気と、剥き出しの独占欲を湛えて私を射抜く。
そこにあるのは、慈悲深い「アストライアの王」の顔ではなかった。
愛する女性を、他の誰にも触れさせたくないという、一人の「男」としての渇望。
ルイ様の顔が近づく。
彼の熱い吐息が私の唇をかすめ、雨の冷たさとは対極にある熱が私の意識を白く塗り潰していく。
胸元の鍵が、肌の上でルイ様の鼓動を伝えているかのようだった。
「……私は…………ルイ様のものですわ」
私が消え入りそうな声で答えると、ルイ様は満足げに目を細め、私の額に優しく、けれど深く、刻印を押すように唇を寄せた。
◇
雨が小降りになり、森に再び夏の夕暮れが戻ってきた頃、私たちは無言でカフェへと戻った。
店内に足を踏み入れると、そこには既に不機嫌そうな面々が待ち構えていた。
「……遅かったな。あまりに遅いから、テリオンが弓を持って飛び出そうとしていたところだぞ」
イグニスが濡れた私たちを見て、意味深に口角を上げる。
「おーっほっほっほ! まあ、なんて見苦しい姿かしら! かつての王ともあろうお方が、たかが夕立から令嬢一人守れず濡れ鼠にするなんて、護衛どころか三流の従者以下ですわね!」
カトリーナが縦ロールを揺らし、扇子で口元を隠しながら高笑いした。
彼女は「汚らわしいわ」とでも言いたげに鼻を鳴らすと、手近にあったタオルを、まるでゴミでも捨てるような無作法な動作で投げつけてきた。
「さあ、さっさとその汚らわしい姿を拭いなさいな! この格調高いカフェが泥で汚れてしまいますわよ!」
相変わらずの毒舌だが、カトリーナの真紅の瞳は、濡れて震える私の肩を素早く一瞥していた。
彼女なりの、最高に傲慢で不器用な気遣いなのだろう。
テラスの隅では、テリオンが不機嫌そうに、濡れた自分の黒髪を乱暴に拭いていた。
「……無事ならいい……だが、余計なノイズが増えて帰ってきたようだな」
カメリア色の瞳が、ルイ様の肩に置かれた私の手へと向けられ、彼は舌打ちをして森の闇へと消えていった。
そして。
入り口の柱に寄りかかり、腕を組んで立っていたウォーレン。
雨に濡れてより一層濃紺を増した、鋭い毛先の重なり。
彼は一言も発さず、ただスモークブルーの瞳で、ルイ様に守られるようにして帰ってきた私を、残酷なほど真っ直ぐに見つめていた。
「……皆様、お騒がせいたしましたわ。今すぐ、身体を温めるものを用意します」
私は逃げるようにキッチンへ入り、火を起こした。
震える指先で用意したのは、『生姜とシナモンの焦がし蜂蜜ラテ』。
深煎りのコーヒー豆を丁寧に挽き、小鍋で生姜の絞り汁とシナモンを煮出す。
そこへ、別の鍋で煙が上がるまで熱し、香ばしい苦味を引き出した黒蜂蜜を注ぎ込む。
ジワッ、という音と共に立ち上がるのは、キャラメルのような甘さとスパイシーな刺激。
そこへたっぷりの温かいミルクを加えれば、夏の雨で冷え切った身体に、強烈な活力を与える極上の一杯が出来上がる。
「ルイ様、これを召し上がって。バルト、皆様にも」
「ありがとう、アリシア……スパイスの熱が、心の奥まで届くようだ」
ルイ様が、愛おしげにカップを両手で包む。
その穏やかな微笑みが、岩陰で見せた「一人の男」の顔を覆い隠していく。
「……お嬢様。今日はまた、一段と『火加減』が強すぎますわね」
クラリスが、私の濡れた銀髪をタオルで拭きながら、耳元で静かに囁いた。
「……蜂蜜を焦がしすぎたのは、それだけ何かを『焼き切りたい』と願っている証拠。お嬢様、一度ついた王様の独占欲という火は、どんな夕立でも、もう消えはいたしませんわよ」
クラリスの瞳が、キッチンの外で静かに、けれど獲物を狙うようにこちらを凝視しているウォーレンを捉える。
夏の夕立は、洗い流すどころか、三人の間の熱をさらに濃密に、そして不作法に、熟成させていく。
私の指先に残るルイ様の感触は、焦がした蜂蜜の香りと共に、夜の静寂へと溶けていった。




