第8話 狼の寝顔、奪われた距離
森の昼下がりは、すべてを停止させるほどの熱量を帯びていた。
あまりの暑さに蝉の声さえも途切れがちになり、木々の影だけが色濃く、湿った土の匂いを閉じ込めている。
昼営業を終えたカフェ・ヴァレンタインの店内には、氷の溶ける微かな音と、涼やかな甘い香りが漂っていた。
「……ふぅ。不作法なまでの陽射しですわね。せめて口にするものくらいは、極上の涼を届けなければ」
私は火照った頬を扇子で仰ぎながら、カウンターに並べたばかりの『蜂蜜漬けレモンの氷結テリーヌ』を見つめた。
透明なゼリーの層には、極薄にスライスされたレモンが鱗のように重なり、その隙間を昨日市場で仕入れたばかりのスターリーフルーツが彩っている。
一口運べば、蜂蜜の濃厚な甘みとレモンの鮮烈な酸味が氷の粒と共に弾け、鼻に抜けるミントの香りが、夏の不作法な熱を瞬時に忘れさせてくれるはずだ。
「バルト、これをルイ様に。離れのログハウスまで運んで差し上げて。それから……テラスの方にも一人、不作法に眠りこけている方がいますわね」
私はトレイを手に、勝手口へと向かった。
◇
テラスの長椅子には、案の定、紺青の影が横たわっていた。
ウォーレンだ。
夜空をそのまま切り取ったような紺青の髪が、枕代わりの外套の上に乱雑に散っている。
眠っている間もどこか警戒心を解かない獣のように、鋭く削ぎ落とされた毛先が影を落とした彼の横顔をより一層際立たせていた。
(……こんなところで眠っていては、熱中症になってしまいますわ)
彼を覗き込むように屈み込んだ拍子に、私の下ろした銀髪の先が彼の頬をくすぐる。
「……ウォーレン? こんなところで寝ていると、命に関わりますわよ」
返事はない。私は少しだけ身を屈め、彼の肩を揺らそうとした。
その瞬間。
「――捕まえた」
不意に、スモークブルーの瞳が薄く開いた。
驚く間もなく、私の手首が熱い手の平に掴まれる。
次の瞬間、視界がぐるりと回り、気づけば私は長椅子に押し付けられるような形で、彼の腕の中に閉じ込められていた。
「な、何を……! 離してくださいな、ウォーレン!」
「やだね。やっと、邪魔な王様がいない二人きりの時間だ。少しは俺のことを思い出してくれたか? アリシア」
耳元で囁かれる、低く掠れた声。
彼の乱れた紺青の髪先が、私の首筋を不作法に擽る。
尖った毛先が、私の下ろした銀髪と複雑に絡み合い、そこから彼の荒い体温が伝わってきて鼓動が激しく跳ねた。
「思い出してなんて……私はもう、忘却の店主ですわ! それより貴方、腕の怪我はどうなりましたの? これほど強く私を掴めるなら、もう全快ですわよね!」
「……痛てっ……ああ、忘れてた……でもさ、君の心臓の音、俺の腕にまで響いてるぜ。嘘を吐くのは、昔から下手だよな」
ウォーレンはわざとらしく顔をしかめて見せたが、その瞳には逃れようのない執着が渦巻いていた。
私を包み込む彼の腕。
絡まり合う紺青と銀の髪。
私は彼を突き放さなければならない。
本命であるルイ様のために。
けれど、この懐かしい「狼の匂い」に包まれると、身体が重い鉛のように動かなくなってしまう。
「……アリシア……非常に、不愉快な光景を見ている気がするのだが」
凍りつくような、低い、けれど透き通った声。
テラスの入り口に立っていたのは、トレイに乗せた先ほどのレモンテリーヌを持ったルイ様だった。
彼のエメラルド色の瞳は、いつになく深く沈んでいる。
それは王としての怒りではなく、大切な宝物を泥棒に触れられた、一人の男としての剥き出しの敵意。
「ルイ様! ……これには、その、不作法な事情が……!」
私は慌ててウォーレンの腕を振り解き、立ち上がった。
乱れた銀髪を整えようとするが、指先が震えてうまくいかない。
ウォーレンは、面倒そうに身を起こすと、不揃いに撥ねる段層の髪を指先で掻き上げ、ルイ様に不敵な笑みを向ける。
「……おっと、王様の登場か。だが、今は取り込み中なんだ。彼女と俺の『続き』の話をしてたところでね」
「続き、など存在しない。ウォーレン。君に貸しているこの場所は、私の大切な女性を傷つけるための場所ではない……もう一度だけ、不作法を繰り返すというのなら、次は王の慈悲ではなく、私の『力』をもって君をここから追放しよう」
ルイ様の右手の紋章が、警告を発するように微かに黄金の光を湛えた。
「はっ、力ずくかよ。いいぜ、王様……あんたがどれほど彼女を守り抜けるか、試してやろうじゃねえか」
二人の男が、テラスの熱い空気の中で真っ向からぶつかり合う。
一人は、すべてを浄化する黄金の太陽。
一人は、すべてを呑み込もうとする夜空の狼。
「お二人とも! お黙りなさいな!」
私は、震える声を精一杯張り上げて、二人の間に割って入った。
「私のテラスで勝手なことを言い合わないでくださいませ! ルイ様、そんな怖い顔でテリーヌを食べないで。せっかくの蜂蜜が固まってしまいますわ。ウォーレン、貴方は今すぐキッチンでジャガイモの皮を剥くのを手伝いなさい! 怪我をしている暇などありませんわよ!」
そう言い残し、私は足早にキッチンへと逃げ込んだ。
ルイ様を裏切る気など毛頭ない。
彼こそが私の帰る場所。
けれど、ウォーレンに触れられた手首が、いまだに熱を持って疼いている。
(私、最低ですわ……ルイ様の愛を信じているのに、どうしてこうも、あの狼の熱を振り払えないのかしら)
キッチンで野菜を切る音だけが、私の騒がしい鼓動を掻き消そうとする。
「……お嬢様。今日はジャガイモの皮が、少々『厚く』剥かれすぎていますわ。その乱れた髪のように、心の整理がついていない証拠ですわよ」
クラリスが、淡々と私の肩にかかる銀髪を指先で整えながら、冷徹な一言を放った。
彼女の目の前には、一口分だけ切り分けられたテリーヌ。
「味は完璧です。ですが、隠し味に『焦燥』を混ぜるのは、一流の店主のすることではありませんわ」
不作法な夏。
不作法な男たち。
そして何より、自分自身の心が一番不作法に揺れ動いている。
私は、冷たい水で何度も顔を洗った。
けれど、髪に残るあの「狼のたてがみ」の感触と、蜂蜜の甘い香りは、どうしても消えなかった。




