第7話 熱を帯びる市場、二人の足音と重なる影
夏の朝の光は、まだ少しだけ夜の冷気を孕んでいる。
森の木々が吐き出す濃密な酸素の匂いと、朝露が蒸発し始める気配。
私はいつものように、カフェの開店準備を始めるべく、早朝の仕入れへと向かう準備をしていた。
「……よし。今日はトマトのソースを多めに仕込んで、黄金ベリーのタルトも焼かなければなりませんわね」
気合を入れ直して大きな背負い籠を手に取り、店の扉を開けようとした――その時だった。
「おはよう、アリシア。今日は私が護衛兼、買い出し係を務めよう」
離れのログハウスから、いつも以上に颯爽とした足取りで現れたのはルイ様だった。
朝日を浴びた夕焼け色の髪が、まるで溶けた金のように輝いている。
彼は私の手から自然に籠を奪うと、そのエメラルドの瞳を優しく細めた。
「ルイ様? 執務はよろしいのですか?」
「ああ。カインへの報告書なら昨夜のうちに片付けたよ……それより、不穏な狼がうろつくこの森で、君を一人で行かせるわけにはいかないからね」
ルイ様が「不穏な狼」という言葉を口にした瞬間、キッチンの裏手から、わざとらしいあくびと共に紺青の影が飛び出してきた。
「おはよう。王様、その役目は俺に譲ってくれないか? 俺はここの居候兼、下働きなんだ……重い荷物運びこそ、俺の出番だろ?」
ウォーレンだ。
短剣で無造作に削ぎ落としたような、鋭い毛先の段層が重なる紺青の髪が、朝の風に揺れている。
彼はルイ様の視線をさらりとかわすと、私の隣を陣取るように一歩踏み出した。
「ウォーレン! 貴方は昨日、腕を痛めたと言っていませんでした?」
「君の顔を見たら、奇跡的に治っちまった……さあ、行こうぜ、アリシア」
◇
結局、私は右にルイ様、左にウォーレンという、史上最高に圧の強い「護衛」を引き連れて市場へ向かう羽目になった。
二人の男が放つ異なる熱量に挟まれ、私の足取りはかつてないほど「重たく」感じられた。
森を抜けた先にある村の広場は、朝市を訪れる人々と活気に満ち溢れていた。
色とりどりのパラソルが並び、土の匂いが残る新鮮な野菜や、冷たい氷の上に並べられた銀色の魚介たちが、夏の光を跳ね返している。
「アリシア。見てごらん、このトマト。実に鮮やかな赤だ。今、照れている君の頬と同じくらい、愛らしい色をしているね」
ルイ様が、瑞々しいトマトを一手に取り、甘い言葉と共に私に差し出す。
その所作の一つ一つが、宮廷の舞踏会のように洗練されており、周囲の村人たちからも「あら、素敵な騎士様」と溜息が漏れた。
「ルイ様……不作法――いえ、公共の場で何を……っ」
私が顔を赤らめた、その瞬間。
「おいおい王様……アリシア。こっちのリンゴを見てみろ。懐かしいだろ? 昔、この品種に勢いよくガブりついて、服を真っ赤に汚して泣いてただろ、君。鼻を真っ赤にしてさ」
「……っ、ウォーレン! 十年以上前の恥ずかしい話を、今しなくてよろしいですわ!」
ウォーレンが、ルイ様の知らない「幼い日の私」を不敵な笑みで引きずり出す。
ルイ様の表情が一瞬で「静かなる王」の無表情へと変わる。
「……ほう。ウォーレン。過去の記憶に縋るしか、君には彼女を惹きつける術がないのかい?」
「縋ってるんじゃねえよ。俺たちの間には、言葉にしなくても通じ合う『積み重ね』があるって言ってるんだ、王様」
――うわあ、重たい……。
物理的な荷物より、この二人の視線のぶつかり合いの方がよほど肩にくる。
私は二人の小競り合いを無視し、意識を「食材」へと集中させた。
市場の空気には、あらゆる「美味しい予感」が混ざり合っている。
魚の屋台では、氷の上に置かれた大きな銀サバが、冷たい蒸気を上げながら銀色の肌を輝かせている。
潮の香りが鼻腔をくすぐり、これを香草と共に焼き上げた時の芳ばしさが脳裏をよぎる。
「……素晴らしい鮮度ですわ。バルトにはこれを塩焼きに、ルイ様には香草焼きにして差し上げましょうか」
次にハーブの露店へ向かうと、爽やかなミントと、力強いローズマリーの香りが周囲を支配していた。
ふと、ルイ様の手が私の手首に添えられる。
「このハーブの香りは、君の髪の匂いに似ているね、アリシア」
ルイ様の細くしなやかな指先が、私の銀髪を軽く掠め、肌に安定した温もりを伝えてくる。
心臓が不作法に跳ねる。
負けじと、ウォーレンが横から顔を出し、私の手元にあるハーブの束を奪い取るようにして匂いを嗅いだ。
「いや、こっちの力強い胡椒の方が、アリシアらしい。一口食べれば癖になって、二度と離れられなくなる。質のいい『毒』の香りだ」
「毒だなんて……! でも、確かにこの香りはソースの隠し味に最適ですわね」
結局、二人に翻弄されながらも、籠の中は輝くようなトマト、香り高いハーブ、そして丸々と太った魚たちでいっぱいになった。食材たちが放つ生命力に、料理人としての私の血が騒ぎ出す。
◇
食材を選び終え、少し人混みが激しくなった広場の中心部へ差し掛かった時だった。
「あ、あの……! 皆さん、すみません……! この子が、市場の焼きトウモロコシの匂いに釣られちゃって……!」
少し離れた屋台の前で、困り果てた声を上げている少年がいた。
ジュリアンだ。
どうやら彼は、別働隊としてバルトに頼まれた日用品の買い出しに来ていたらしい。
彼が連れているのは、荷物を運ぶ手伝いにと呼んだらしい「背負い籠を背負った巨大なハリネズミ」の魔物。
そのつぶらな瞳は、芳ばしい匂いのする屋台に釘付けで、ジュリアンを引きずらんばかりの勢いだ。
「……おーっほっほっほ! 汚らしい森の獣を公衆の面前に晒すなんて、相変わらず無能ですわね、ジュリアン!」
さらにその向こう側、人混みを避けるように優雅に佇んでいたのはカトリーナだった。
プラチナブロンドの縦ロールを揺らしながら扇子を広げている彼女も、どうやら魔導具の触媒を探しに市場へ来ていたようだ。
「カトリーナたちも来ていたのですわね! ……あら、それは焼きトウモロコシ?」
私が声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らした。
「……い、いけませんの!? これは、その、熱を感知する魔法の触媒として……不本意ながら購入しただけですわよ!」
ツンデレ魔導師の言い訳をよそに、ジュリアンのハリネズミが勢いよく鼻を鳴らし、市場の地面をトコトコと駆けていく。
「待って、行っちゃダメだよーっ!」
ジュリアンが慌てて追いかけ、その後ろをルイ様が魔法で群衆を分け、ウォーレンが「おっと」とハリネズミを片手で器用に捕まえてやる。
◇
結局、市場での偶然の遭遇と小騒動を経て、私たちは両手いっぱいの、そして「重すぎるほど」の思い出を抱えてカフェへと戻った。
ルイ様に半分持ってもらった籠の中には、まだ夏の熱気を湛えたトマトが赤々と光っている。
ウォーレンに背負ってもらった背負い籠からは、瑞々しいハーブの香りが溢れ出していた。
二人の男は、相変わらず不機嫌そうに、けれどどこか「アリシアの買い物」を完遂した満足感を漂わせながら歩いている。
「……本当に、騒がしい買い出しでしたわ」
私は、二人に見えないように小さく微笑んだ。
ルイ様の深い愛情と、ウォーレンの剥き出しの執念。
その間に挟まれて、私の心はまだ、どの食材をメインディッシュにするか決めかねているけれど。
「さあ、戻ったら仕込みですわよ! ……最高の食材には、最高の料理で応えなければなりませんもの!」
背後で、ルイ様とウォーレンが同時に「ああ」と頷く。
夏の熱気の中、私の日常は、かつてないほど濃密な「隠し味」を孕んで、加速し始めていた。




