第11話 熱々とろける禁断の円舞曲、ハニーナッツと薪窯の調べ
イグニスという嵐のような客人が去った翌日。
私たちは足りなくなった調味料や小麦粉を仕入れるため、ふもとの街の市場へと向かっていた。
「たまにはこうして外に出るのも、目の保養になりますわね!」
私はカゴを手に、軽やかな足取りで石畳を歩く。
隣には荷物持ちを自称するルイ様、そして背後には「お嬢様、買いすぎ厳禁ですよ」と釘を刺すクラリス。
「アリシア、あっちの露店に珍しい香辛料があるようだ。行ってみないかい?」
ルイ様は市場の雑多な雰囲気にも物怖じせず、むしろ楽しそうに私のエスコートをしてくれる。
その立ち居振る舞いは相変わらず目立っていたけれど、今の私にはそれが誇らしくもあった。
……が、その時だった。
「……ッ!? アリシア、すまない、少し隠れる!」
「えっ? ルイさ――むぐっ!?」
突然、ルイ様が私の肩を抱き寄せ、近くの大きな樽の影へと飛び込んだ。心臓が跳ね上がる間もなく、彼は私の頭を優しく、けれど力強く自分の胸元へ引き寄せる。
「……静かに。あそこにいるのは……まずいな」
ルイ様の視線の先。
人混みを割るようにして歩いてくる、一人の青年がいた。
磨き上げられた銀の甲冑を纏い、腰には見事な長剣。その鋭い眼光は、まるで獲物を探す鷹のようだ。
どこからどう見ても、誇り高き「王宮騎士団の精鋭」そのものだ。
「ルイ様、あのお方は……」
「生真面目を絵に描いたような騎士だ。執事の指示を無視して、独断で私を探し回っているに違いない」
ルイ様は苦笑いしながら、さらに深く樽の影に身を潜めた。
あんなに堂々としていた殿方が、一人の騎士から逃れるために、市場の隅で私を抱きかかえるようにして息を潜めている。
そのギャップが可笑しくて、けれど彼に守られているような密着具合に、私の顔は再び収穫したてのベリーのように赤くなっていく。
(……ルイ様、近いですわ。近すぎますわ……!)
彼の纏う清涼な香水の香りと、服越しに伝わる確かな体温。
市場の喧騒が遠く感じられ、世界には私とルイ様の二人しかいないような錯覚に陥る。
私は、お父上から「殿方とは三歩引いて歩きなさい」と口を酸っぱくして言われてきた教えを、この瞬間、完全に記憶の彼方へ放り投げていた。
◇
「……行かれましたわ。ルイ様、もう大丈夫です」
人混みの向こう側に、鋭い足音と共に騎士たちの背中が完全に消えた。
私はようやく深く息を吐き出した。
ルイ様もゆっくりと腕の力を抜き、名残惜しそうに、けれど紳士的な所作で私から離れる。
「助かったよ、アリシア。彼に見つかれば、今頃は無理やり担ぎ上げられて、あの息の詰まる場所に連れ戻されていたところだ……できればもう少し、君の隣にいたいからね」
さらりと、けれど真剣な眼差しでそう告げるルイ様。
あまりの至近距離と熱い言葉に、私の心臓が跳ね上がったその時――。
「……あの、お二人とも。お熱いところ大変恐縮ですが、あちらの角から別の兵士が回ってきております。見せつけたい気持ちは山々でしょうが、今は小走りで逃げますわよ!」
背後から、クラリスが呆れたような、けれど油断のない声で釘を刺した。彼女は私たちの護衛を兼ねるかのように、周囲への警戒を片時も怠っていなかったのだ。
「ああ、すまない、クラリス……アリシア、行こう!」
「は、はいっ!」
私たちは騎士たちに見つからないよう、クラリスに急かされながら市場の裏道をすり抜ける。
手に入れたばかりの戦利品――新鮮なクレソンと蜂蜜に漬け込んだナッツ――を抱え、私たちは息を切らして森の奥のお店へと辿り着いた。
◇
「ふぅ……! よ、ようやく戻ってこられましたわね。心臓が止まるかと思いましたわ」
店の勝手口を閉めた途端、私は膝をつきそうになるのを堪えて、大きく息を吐いた。
「まったくです。ルイ様、あなたという人は……市場のど真ん中で公爵令嬢を抱き寄せるとは、心臓の毛が王宮の絨毯より厚いのではありませんか?」
クラリスが呆れたように肩をすくめると、ルイ様は「面目ない。だが、あそこはああするしかなかったんだ」と、少しだけ申し訳なさそうに、けれど満足げに口元を綻ばせた。
私は乱れた髪を素早く整えると、きりりと表情を引き締めた。
「さあ、気を取り直して! 買ってきたばかりのこれらを使って、新メニューの試作を始めますわよ!」
私はエプロンをきゅっと結び直し、手際よく練り上げておいた生地を薄く丸く伸ばしていく。
そこにたっぷりのチーズと、塩気のきいた厚切りベーコンを散らし、熱々に熱した石窯へと滑り込ませた。
「お嬢様、火加減は私が見ておきます。ルイ様はそちらのクレソンを洗っていただけますか?」
クラリスがテキパキと指示を出し、ルイ様も「分かった、任せてくれ」と慣れた手つきで手伝ってくれる。
数分後。薪の爆ぜる音と共に、香ばしい小麦の香りが厨房を満たす。
焼き上がったピザの上に、仕上げとして新鮮なクレソンをこんもりと盛り、黄金色のハニーナッツを惜しみなく回しかける。
「……完成ですわ!『厚切りベーコンとクレソンのピッツァ 〜ハニーナッツの輝き〜』です!」
看板メニューの『ベーコンと彩り野菜のサンドイッチ』に次ぐ、自信作。
とろけるチーズのコクと、ナッツのカリッとした食感。そこに蜂蜜の甘みが溶け合う、禁断のハーモニー。
私が差し出した皿の上で、熱に溶けた蜂蜜が宝石のように艶やかに光っている。
ルイ様はそれを見て、驚いたように目を細めると、一切れを手に取った。
一口。ゆっくりと時間をかけて味わう彼を、私は祈るような心地で見つめる。
やがて、ルイ様は指先に残った熱を感じながら、深く、甘い溜息を漏らした。
「……素晴らしいな。正直に言えば、これほどまでのものが出てくるとは思っていなかった」
「お口に合いましたでしょうか」
「ああ。熱々の生地の上で、相反する甘みと塩気がこれ以上ないほど完璧に重なり合っている……まるで、君と過ごす刺激的で穏やかな時間のようだ」
そう言って微笑むルイ様の瞳は、やはりどこか熱を帯びているようで。
私は焦げたチーズよりも熱くなった顔を隠すように、慌てて自分も一切れを口に運んだ。
「最初は驚きばかりだが、気づけばその刺激が心地よくて、一瞬たりとも目が離せなくなる……蜂蜜の甘みのようにとろける時間も、この熱さも、私をさらに欲張りにさせてしまうよ」
それは、夜会の社交辞令などとは比べ物にならないほど、体温の通った熱い言葉だった。
公爵家で叩き込まれた『殿方からの賛辞への淑女的対応』の教科書が、頭の中でバラバラに砕け散っていく。
私は頬が燃えるように熱くなるのを自覚しながら、震える指先をエプロンの下でぎゅっと組み合わせた。
「……あ、ありがとうございます……そのような、勿体ないお言葉をいただけるとは」
精一杯の「完璧な淑女の微笑み」を顔に貼り付ける。けれど、内側では嵐が吹き荒れていた。
(ルイ様! その天然で人を殺せるような台詞、どこで覚えてこられましたの!? 今すぐその場でのたうち回って「最高ーーー!」って叫びたいのを、どれだけの根性で耐えていると思っていらっしゃいますの!?)
私の心中を知ってか知らずか、ルイ様は満足げに、そして少しだけ悪戯っぽく目を細めて私を見つめ続けていた。
そしてその背後で、クラリスが「やれやれ、ご馳走様ですこと」と小声で呟きながら、紅茶の準備を始めるのが見えた。




