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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第5章

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第6話 祝祭のあとの静寂に、忍び寄る紺青の足音

 星燈祭せいとうさいの幻想的な魔法が解け、森の村に過酷な夏の朝日が差し込んだ。


 昨夜、数千の灯火が星の河のように煌めいていた広場や川沿いは、今はただ露に濡れた静寂が広がり、祭りのあとの物悲しさが湿った熱気と共に立ち込めている。


 カフェ・ヴァレンタインのキッチン。

 私は一人、昨夜の「二人の男に同時に手を取られた」という不作法極まりない記憶を、冷たい水で強引に洗い流そうとしていた。


「……暑いですわね。朝からこれでは、氷の仕込みが追いつきませんわ」


 独り言をこぼしながら、私はボウルに山盛りのレモンを絞り入れる。


 本命は、ルイ様。

 それは私の心の中で揺るぎない、黄金の真実だ。

 アストライアを共に救い、王座さえも弟君に託して私の隣を選んでくれた彼の愛は、何物にも代えがたい「帰る場所」である。


 けれど、昨夜のウォーレンの、あの追い詰めるようなスモークブルーの瞳。

 そして、指先から伝わってきた「過去」という名の強烈な熱量を思い出すと、どうしてもレモンを絞る手に力が入りすぎてしまう。

 

「……いけませんわ。私は店主ですもの。お客様の好み以上に、自分の心に振り回されるなんて」


 私が自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。


「……おはよう、アリシア。昨夜はよく眠れたかい?」


 扉が開き、離れのログハウスからルイ様がやってきた。

 朝の光を背負った夕焼け色の髪が、露に濡れた木々のように艶やかに輝いている。

 彼は整理中の書類を脇に抱えながらも、その視線は真っ直ぐに私を捉え、昨夜の「一人の男としての宣戦布告」が夢ではなかったことを、静かな独占欲と共に告げていた。


「おはようございます、ルイ様。ええ、おかげさまで。ただ、少々……祭りの余韻が不作法に長引いておりまして」


「ああ、私もだよ。昨夜、君の手を取った時の熱が、まだ引かないんだ」


 ルイ様はカウンター越しに身を乗り出し、私のマリンブルーの瞳を覗き込む。

 その穏やかでいて逃げ場のない包容力に、私は一瞬、息を止めた。

 ルイ様のこういう、時折見せる「王としての強引さ」に、私はいつだって絆されてしまう。


「ルイ様、書類がおありなのでしょう? 私が朝食を用意するまで、あちらでお待ちくださいな」


「そうだね……だが、少しでも長く君のそばにいたいんだ。今日は朝の市場への買い出しも、私が同行しよう」


 ルイ様がそう微笑んだ、その時。


「――あーあ、こっちは腰が痛くてたまらねえ。やっぱり硬い床で寝るのは、流浪の身でも堪えるな」


 店の奥にある、普段は予備の食材やリネンを置いている物置のような小部屋。

 そこから、大きなあくびと共に一人の男が現れた。


 ウォーレン・アスターだ。


 夜空の闇を切り取ったような紺青の髪は、寝起きのせいでいつも以上に不規則に撥ね、幾重にも重なり合う鋭い段層が、彼の野性的な気配を際立たせている。


「……ウォーレン!? 貴方、なぜまだここにいますの? 昨夜、祭りのあとは宿を探しに行くと言ったはずでしょう!」


「行ったさ。けど、どこも満室だったんだよ。祭りの直後だからな……それに見てくれ、アリシア。魔獣を追い払った時に腕をひねったらしい。ほら、こんなに熱を持ってる」


 ウォーレンは、先日の戦闘で負った(と主張する)微かな擦り傷を見せつけるようにして、カウンターに肘をついた。


「怪我人を追い出すほど、お嬢様の心は冷え切っちゃいないだろ? 旅費も底を突いたしな、しばらくここで働かせてくれよ。用心棒でも、荷物持ちでもやる。報酬は三食の飯と、君の『微笑み』の味見でいいぜ」


「……不作法ですわ! 微笑みの味見なんて、そんなメニュー、ここには存在しませんわよ!」


「なら、今から作ればいい……な、王様?」


 ウォーレンはルイ様を「王様」と呼び、不敵に口角を上げた。


 ◇


 結局、なし崩し的にウォーレンの「居候」が始まってしまった。


 ルイ様が離れのログハウスから鋭い視線を送る中、ウォーレンは当然のようにエプロンを引っ張り出し、重い小麦粉の袋を軽々と担いでパントリーへと運び込む。


「アリシア。その大鍋、俺が運ぶぜ……怪我してるって言ったけど、君のためなら力が出るもんだ」


 背後から近づいてきたウォーレンの手が、私の手から鍋を奪う。

 その瞬間、彼の紺青の髪が私の頬を掠め、野性的な夜の匂いと旅慣れた男の少し荒い体温が伝わってきた。

 ルイ様がくれる「陽だまり」のような愛とは違う、夏の夕立の直前のような、焦燥感を孕んだ熱量。


「……っ、自分でできますわ!」


「いいから任せろ。君は、最高のソースを作ることに集中してろ……その方が、俺も美味い飯にありつけるからな」


 私は、逃げるようにして卵の調理に取り掛かった。

 今日用意したのは、市場で買ったばかりの新鮮なハーブを混ぜ込んだオムレツ。

 けれど、出来上がったそれは、どこか見た目が不格好で、味も自分でも驚くほど「ぼんやり」としていた。


「……お嬢様。今日のオムレツは、少々『迷い』が過ぎますわね」


 いつの間にか背後にいたクラリスが、冷徹な一言を放った。

 彼女は私の手からスプーンを取り、オムレツを一口味わうと、溜息と共に首を振った。


「焼き加減が悪いわけではありません……ただ、何の味を主役センターに据えたいのか、この一皿自体が戸惑っている味がいたしますわ。まるで、右のスパイスと左のハーブ、どちらを手に取るべきか決めかねている、今の誰かさんのように」


「……っ。不作法ですわよ、クラリス!」


「事実を申し上げたまでです。お嬢様……料理は嘘をつけません。器の中が水浸しになる前に、ご自分の心をお掃除なさることをお勧めいたしますわ。不作法な狼に、台所の秩序まで奪われる前に」


 クラリスはそう言い残すと、淡々と皿を洗い始めた。

 私はレードルを握りしめたまま、カウンターで書類を開くルイ様と、テラスで不敵に笑いながら椅子を磨くウォーレンを交互に見やった。


 ルイ様への愛は、確かにある。

 彼がくれる安らぎと、未来への約束は、私の魂を救ってくれる。

 けれど。

 ウォーレンが放つ、過去の記憶を呼び覚ますような強引な熱。

 彼がカフェに居座り、私の視界を「紺青」で塗り潰そうとするこの日常そのものが、私の心の表面を少しずつ、不作法に削り取っていくのを感じていた。


「……不作法……本当に、みんな揃って不作法ですわ」


 私は、洗い桶の中の水を激しく跳ね上げた。

 夏の熱気は、昼に向けてさらにその勢いを増していく。


 黄金の太陽が照らすログハウス。

 紺青の狼が潜むキッチンの隅。

 

 私の周りのノイズは、昨夜の祭りよりも、もっと切実で、もっと逃げ場のない音量で鳴り響き始めていた。


「……さあ、開店準備ですわよ! 誰が隣に立とうと、私の料理だけは一歩も譲りませんわ!」


 私は、自分に言い聞かせるように、力強くフライパンを火にかけた。

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