第6話 祝祭のあとの静寂に、忍び寄る紺青の足音
星燈祭の幻想的な魔法が解け、森の村に過酷な夏の朝日が差し込んだ。
昨夜、数千の灯火が星の河のように煌めいていた広場や川沿いは、今はただ露に濡れた静寂が広がり、祭りのあとの物悲しさが湿った熱気と共に立ち込めている。
カフェ・ヴァレンタインのキッチン。
私は一人、昨夜の「二人の男に同時に手を取られた」という不作法極まりない記憶を、冷たい水で強引に洗い流そうとしていた。
「……暑いですわね。朝からこれでは、氷の仕込みが追いつきませんわ」
独り言をこぼしながら、私はボウルに山盛りのレモンを絞り入れる。
本命は、ルイ様。
それは私の心の中で揺るぎない、黄金の真実だ。
アストライアを共に救い、王座さえも弟君に託して私の隣を選んでくれた彼の愛は、何物にも代えがたい「帰る場所」である。
けれど、昨夜のウォーレンの、あの追い詰めるようなスモークブルーの瞳。
そして、指先から伝わってきた「過去」という名の強烈な熱量を思い出すと、どうしてもレモンを絞る手に力が入りすぎてしまう。
「……いけませんわ。私は店主ですもの。お客様の好み以上に、自分の心に振り回されるなんて」
私が自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
「……おはよう、アリシア。昨夜はよく眠れたかい?」
扉が開き、離れのログハウスからルイ様がやってきた。
朝の光を背負った夕焼け色の髪が、露に濡れた木々のように艶やかに輝いている。
彼は整理中の書類を脇に抱えながらも、その視線は真っ直ぐに私を捉え、昨夜の「一人の男としての宣戦布告」が夢ではなかったことを、静かな独占欲と共に告げていた。
「おはようございます、ルイ様。ええ、おかげさまで。ただ、少々……祭りの余韻が不作法に長引いておりまして」
「ああ、私もだよ。昨夜、君の手を取った時の熱が、まだ引かないんだ」
ルイ様はカウンター越しに身を乗り出し、私のマリンブルーの瞳を覗き込む。
その穏やかでいて逃げ場のない包容力に、私は一瞬、息を止めた。
ルイ様のこういう、時折見せる「王としての強引さ」に、私はいつだって絆されてしまう。
「ルイ様、書類がおありなのでしょう? 私が朝食を用意するまで、あちらでお待ちくださいな」
「そうだね……だが、少しでも長く君のそばにいたいんだ。今日は朝の市場への買い出しも、私が同行しよう」
ルイ様がそう微笑んだ、その時。
「――あーあ、こっちは腰が痛くてたまらねえ。やっぱり硬い床で寝るのは、流浪の身でも堪えるな」
店の奥にある、普段は予備の食材やリネンを置いている物置のような小部屋。
そこから、大きなあくびと共に一人の男が現れた。
ウォーレン・アスターだ。
夜空の闇を切り取ったような紺青の髪は、寝起きのせいでいつも以上に不規則に撥ね、幾重にも重なり合う鋭い段層が、彼の野性的な気配を際立たせている。
「……ウォーレン!? 貴方、なぜまだここにいますの? 昨夜、祭りのあとは宿を探しに行くと言ったはずでしょう!」
「行ったさ。けど、どこも満室だったんだよ。祭りの直後だからな……それに見てくれ、アリシア。魔獣を追い払った時に腕をひねったらしい。ほら、こんなに熱を持ってる」
ウォーレンは、先日の戦闘で負った(と主張する)微かな擦り傷を見せつけるようにして、カウンターに肘をついた。
「怪我人を追い出すほど、お嬢様の心は冷え切っちゃいないだろ? 旅費も底を突いたしな、しばらくここで働かせてくれよ。用心棒でも、荷物持ちでもやる。報酬は三食の飯と、君の『微笑み』の味見でいいぜ」
「……不作法ですわ! 微笑みの味見なんて、そんなメニュー、ここには存在しませんわよ!」
「なら、今から作ればいい……な、王様?」
ウォーレンはルイ様を「王様」と呼び、不敵に口角を上げた。
◇
結局、なし崩し的にウォーレンの「居候」が始まってしまった。
ルイ様が離れのログハウスから鋭い視線を送る中、ウォーレンは当然のようにエプロンを引っ張り出し、重い小麦粉の袋を軽々と担いでパントリーへと運び込む。
「アリシア。その大鍋、俺が運ぶぜ……怪我してるって言ったけど、君のためなら力が出るもんだ」
背後から近づいてきたウォーレンの手が、私の手から鍋を奪う。
その瞬間、彼の紺青の髪が私の頬を掠め、野性的な夜の匂いと旅慣れた男の少し荒い体温が伝わってきた。
ルイ様がくれる「陽だまり」のような愛とは違う、夏の夕立の直前のような、焦燥感を孕んだ熱量。
「……っ、自分でできますわ!」
「いいから任せろ。君は、最高のソースを作ることに集中してろ……その方が、俺も美味い飯にありつけるからな」
私は、逃げるようにして卵の調理に取り掛かった。
今日用意したのは、市場で買ったばかりの新鮮なハーブを混ぜ込んだオムレツ。
けれど、出来上がったそれは、どこか見た目が不格好で、味も自分でも驚くほど「ぼんやり」としていた。
「……お嬢様。今日のオムレツは、少々『迷い』が過ぎますわね」
いつの間にか背後にいたクラリスが、冷徹な一言を放った。
彼女は私の手からスプーンを取り、オムレツを一口味わうと、溜息と共に首を振った。
「焼き加減が悪いわけではありません……ただ、何の味を主役に据えたいのか、この一皿自体が戸惑っている味がいたしますわ。まるで、右のスパイスと左のハーブ、どちらを手に取るべきか決めかねている、今の誰かさんのように」
「……っ。不作法ですわよ、クラリス!」
「事実を申し上げたまでです。お嬢様……料理は嘘をつけません。器の中が水浸しになる前に、ご自分の心をお掃除なさることをお勧めいたしますわ。不作法な狼に、台所の秩序まで奪われる前に」
クラリスはそう言い残すと、淡々と皿を洗い始めた。
私はレードルを握りしめたまま、カウンターで書類を開くルイ様と、テラスで不敵に笑いながら椅子を磨くウォーレンを交互に見やった。
ルイ様への愛は、確かにある。
彼がくれる安らぎと、未来への約束は、私の魂を救ってくれる。
けれど。
ウォーレンが放つ、過去の記憶を呼び覚ますような強引な熱。
彼がカフェに居座り、私の視界を「紺青」で塗り潰そうとするこの日常そのものが、私の心の表面を少しずつ、不作法に削り取っていくのを感じていた。
「……不作法……本当に、みんな揃って不作法ですわ」
私は、洗い桶の中の水を激しく跳ね上げた。
夏の熱気は、昼に向けてさらにその勢いを増していく。
黄金の太陽が照らすログハウス。
紺青の狼が潜むキッチンの隅。
私の周りのノイズは、昨夜の祭りよりも、もっと切実で、もっと逃げ場のない音量で鳴り響き始めていた。
「……さあ、開店準備ですわよ! 誰が隣に立とうと、私の料理だけは一歩も譲りませんわ!」
私は、自分に言い聞かせるように、力強くフライパンを火にかけた。




