第10話 甘い香りに誘われた、死神
収穫したばかりのワイルドベリーと、清涼感あふれるミント。
私たちはキッチンに戻り、クラリスの指導のもと、それらをふんだんに使った特製ドリンクを仕立てた。
グラスの底でベリーを軽く潰し、氷と炭酸水、そして摘みたてのミントを添える。
「『自由への休息――ベリーとミントのシュウェップス風』ですわ。ルイ様、どうぞ」
テラスの円卓に、三人分のグラスが並ぶ。
ルイ様は一口飲み、喉を鳴らすと、ふっと柔らかな感嘆の息を漏らした。
「……瑞々しいな。摘みたての香りが鼻を抜けて、疲れがすべて消えていくようだ。アリシア、君が選ぶものは、どうしてこうも私を驚かせるんだろう」
高貴な殿方に真っ向から褒められ、私はまたしても心の中で小さくガッツポーズを決めてしまう。もちろん、表向きは「お口に合って光栄ですわ」と優雅に微笑むのを忘れない。
クラリスも自分のグラスを手に、淡々と、けれど満足げに頷いている。
「お嬢様の無駄な動きによる体力消耗も、これで少しは回復するでしょう……さて、この平和が、あと数分でも続けばよろしいのですが」
「もう、クラリス。せっかくの休憩なんだから、そんな不吉なこと――」
言いかけた私の耳に、カランカラン、と。
森の静寂を破る、店の入り口のドアベルが鳴り響いた。
私とクラリス、そしてルイ様が同時に顔を見合わせる。
これまで、この店を訪れるのはルイ様(と、実家からの不愉快な使い)だけだった。
「……お客様、でしょうか?」
私は期待と緊張を胸に、エプロンのシワを伸ばして立ち上がり、入り口へと向かった。
けれど、そこに立っていた人物を見た瞬間、肌を刺すような冷たい気配に足が止まった。
黒いロングコートを纏い、顔の半分を深い帽子で隠した男。
アッシュグレーの長い髪を一つに編み、肩の後ろで揺らしているその姿は、森の静寂を塗り潰すような、圧倒的に「死」に近い拒絶の空気を纏っていた。
「……ふむ。風下から漂ってきた香りに釣られて来てみたが。どうやら、この森で一番『生きた』匂いがするのはここらしい」
男の声は、研ぎ澄まされたナイフのように低く、鋭い。
彼は店内の様子を、獲物を品定めするような冷徹な瞳で一瞥した。
(……この人、ただ者じゃないわ。空気が、まるでお父上の説教中より凍りついているもの!)
私はゴクリと唾を飲み込み、けれど店主としてのプライドを胸に一歩踏み出した。
「いらっしゃいませ……ええ、世界で一番美味しいベーコンなら、ここにありますわ」
「ほう……いい度胸だ。俺の舌は、仕事と同じで妥協を許さないぞ」
男は音もなくカウンター席に腰を下ろすと、懐から一振りのダガーを取り出した。
そして、まるですぐにでも仕事にかかれるよう調整を欠かさない職人のように、手元の革砥でその刃を滑らせ始めた。
静かな店内に、シュッ、シュッ、と不吉な金属音が規則正しく響く。
「腹が減っている。最高の一皿を出せ。満足できなければ、この店の看板ごと、闇に葬ってやる」
……何者かは存じ上げないけれど、この男がただの空腹でやってきた旅人ではないことだけは確かだった。
クラリスが私の背後で、一切動じずに「お嬢様、早くオーダーを。客人の放つ殺気で、せっかくのベーコンが凍りついてしまいます」と耳打ちしてくる。
(……殺気! やっぱりそうなの!?)
私は、冷え切った空気に身を震わせながらも、店主としての意地を振り絞った。
「 ……お客様、当店自慢のベーコンと彩り野菜のサンドイッチをお作りします……ただし、代金はきっちりいただきますからね!」
私は、震える手でフライパンを握りしめた。
◇
「……なんだ、これは」
男は、差し出されたサンドイッチを、まるで爆発物でも鑑定するかのような目で見つめた。
そして、分厚いベーコンを一切れ、躊躇なく口へと放り込む。
静寂が店内を支配した。
私は緊張のあまり息を止める。
……が、次の瞬間。
「…………ッ! 美味い、美味すぎる! なんだこの脂の甘みは! このレタスの歯ごたえは! ククッ、ハハハハハ!」
先ほどまでの凍りつくような殺気はどこへやら、彼は椅子をガタガタと鳴らして笑い出した。
その顔は、まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように輝いている。
「俺の名はイグニス……小娘、いや店主。いい仕事をするな。俺の乾いた魂が、このベーコンの脂で潤っていくようだぞ」
彼は一気にサンドイッチを平らげると、満足げに立ち上がった。
「また来る。この味を知ってしまった以上、他の餌では満足できそうにないからな……あばよ」
去り際、彼は大きな手をごわごわと差し出してきた。
私は驚きつつも「……あ、ありがとうございます。お待ちしておりますわ」と、その手を握り返した。
あんなに物騒な雰囲気を纏っていたのに、その掌は意外なほど厚く、熱を持っていた。
カランカラン、と軽快なベルの音と共に彼が去っていく。
私は「……ふぅ」と安堵の息を漏らしたが、隣から漂ってくる、先ほどのイグニスとはまた別の「冷たい気配」に気づいて顔を上げた。
そこには、見たこともないほど不機嫌そうに眉を寄せたルイ様が立っていた。
「……ルイ様?」
「アリシア……あんな素性の知れない男と、あんなに長く手を握る必要はあったのかい?」
「えっ?」
「……私との握手より、長かった気がするんだが」
ルイ様はそっぽを向きながら、まるで子供のように拗ねた口調で呟いた。
あの余裕たっぷりだった殿方が、まさか、たった一回の握手に嫉妬している……?
私は驚きのあまり固まったが、次の瞬間、胸の奥からこみ上げてくる甘酸っぱい高揚感に、今度は裏庭へ行かずともその場で小躍りしそうになった。
「ルイ様、もしかして……ふふっ、可愛らしいところがあるんですのね」
「……可愛いと言われるのは心外だな。私はただ、君の『隣に座る権利』を邪魔されたくないだけだ」
ルイ様は少し顔を赤らめながら、私の手を奪うようにして包み込んだ。
もしお父様やお母様が、私が物騒な男と意気投合して握手し、さらに高貴な殿方を嫉妬させて「可愛い」などと不敬な言葉を投げかけている今の光景を見たならば。
間違いなく「ヴァレンタイン家の令嬢は、男を狂わせる魔女にでもなったのか!」と叫びながら、その場で卒倒することだろう。




