第14話 偽りの路、王の制止
イグニスが持ち帰った「三日」という猶予。
それは、カフェ・ヴァレンタインの静かな朝を、決戦への焦燥へと塗り替えるには十分すぎる時間だった。
私たちは最低限の荷物と、それぞれの武器を馬車に積み込み、慌ただしく森を抜けた。
目指すは、切り立った崖の上にそびえる魔導の心臓部、王都アストライア。
上空ではジュリアンを乗せたアビーが先導し、私たちは地上を駆ける馬車で、かつてない速度で街道を進んだ。
道中、御者台の隣に座るテリオンが鋭く周囲の気配を探り、車内ではカトリーナが窓から索敵の魔導を放ち続ける。
けれど、奇妙なほどに道は開けていた。
ジョエルが放ったはずの魔獣も、私兵の姿も、国境を越えてからは一向に姿を現さない。
やがて、眼前にあの白亜の王宮と、空に浮かぶ魔導尖塔が見えてきた。
夕刻の光を浴びて輝くその都市は、神々しいまでに美しい。
けれど。
「……御者、馬を止めろ。これ以上は、死の口内へ飛び込むことになる」
馬車の屋根に乗っていたイグニスが、覆いから身を乗り出して鋭く指示を飛ばした。
馬がいななき、車輪が土煙を上げて停止する。
イグニスは編み込まれたアッシュグレーの長髪を風に流し、鋭い眼光で、静まり返った城門を見据えている。
「どういうことですの、イグニス……道は空いていますわ。今なら、あの聖域まで一気に駆け抜けられるはずです」
私が馬車の窓から問うと、車内で向かいに座っていたバルトが、静かに眼鏡を外した。
彼はレンズを拭くことさえせず、群青色の瞳を細めて王都を覆う「空気」を読んでいる。
「……アリシア様……イグニス殿の言う通りです……見てください。門番もいなければ、逃げ出す市民の姿もない。あまりに、清潔すぎます」
バルトの声には、かつて王宮の裏側で幾多の謀略を見てきた者だけが持つ、重い警戒が宿っていた。
「……これは、戦場ではありません。獲物が自ら飛び込んでくるのを待つ、巨大な処刑場です」
「処刑場……叔父上は、私たちが来るのを、無抵抗を装って歓迎しているというのか」
ルイ様が馬車の扉を開け、地に降り立った。
黄金の輝きを増した右手が、強く握りしめられている。
目の前の王都からは、人の営みの匂いが一切しなかった。
代わりに漂ってくるのは、吐き気がするほどに純粋で、濃密な魔力の残り香。
ジョエルは、あえて道を空けたのだ。
私たちが怒りに燃え、焦燥に駆られて聖域へと突き進むことを、あのお方は冷徹に計算している。
「罠……だろうな。今行けば、お前はただ『供物台』にアリシアを乗せに行くことになるだけだぜ」
イグニスが屋根から飛び降り、音もなくルイ様の前に立ちふさがった。
「……ジョエルの狙いは、お前自身じゃない……お前が絶望し、太陽の紋章が最も歪んだ力を放つ瞬間を作り出すことだ。そのための引き金が、アリシアなんだよ。準備もなしにこの門をくぐれば、二度と戻ってこれねえぞ」
イグニスの言葉は、冷たい刃となって私たちの熱を削ぎ落とした。
行けば、奪われる。
このまま無策で踏み込むことは、勇気ではなく、ジョエルの描いたシナリオをなぞるだけの不作法な愚行に過ぎない。
「……引き返しましょう。ルイ様」
馬車から降りた私が静かに告げると、ルイ様は弾かれたように私を振り返った。
その瞳には、一刻も早く事態を収束させたいという焦りと、私を守りたいという強い義務感が混ざり合っている。
「何を言うんだ、アリシア! ……あと三日しかないんだ……ここで退けば、叔父上の儀式は完成してしまう!」
「……今の私が行けば、私は貴方の足手まといになります……それだけではありません。貴方の心を壊すための『人質』として、最高に利用されやすい形で差し出されることになりますわ」
私は、ルイ様の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「それでも……今の私を、連れていきますか?」
ルイ様が息を呑んだ。
エメラルドの瞳が激しく揺れ、握りしめた拳が微かに震える。
王として、アストライアを救わなければならないという正義感。
けれど、目の前の女性を死地へ追いやるかもしれないという、一人の男としての恐怖。
「……陛下。アリシア様の仰る通りです」
バルトが馬車から降り、ルイ様の肩にそっと手を置いた。
「あのお方が『待ち構えている』のなら、私たちはその予想を上回る『武器』を持って現れねばなりません……今の陛下には、守るべきものが多すぎ、それを支えるための確信がまだ足りない」
長い沈黙が流れた。
夕日に染まるアストライアの尖塔が、まるで嘲笑うかのように長く伸びた影を私たちの足元へ伸ばしてくる。
ルイ様は、ゆっくりと空を仰ぎ、深く、長く息を吐き出した。
「……分かった……一旦戻ろう、カフェへ」
「ルイ様……」
「アリシア……私は、君を失ってまで手に入れる王座など、欠片も欲しくない。君と一緒に、あの不作法に生い茂った森へ帰るために……私は、今この門をくぐることを拒否する」
ルイ様が、一人の男として下した決断。
それは、ジョエルの描いた「焦燥による誘い出し」という盤面を、根本からひっくり返す一手だった。
私たちは、王都の門を背に、馬車の向きを変えた。
敗北ではない。
より確実に、より濃厚な反撃を食らわせるための、戦略的な撤退。
「おーっほっほっほ! 良いですわね、不作法に引き返すなんて! あのジョエルの驚く顔が目に浮かびますわ!」
カトリーナが杖を回し、意気揚々と馬車のステップを上がった。
イグニスもまた、ふんと鼻を鳴らし、再び屋根へと飛び乗る。
「……賢明な判断だ……だが、戻るからには、次はあいつの度肝を抜くようなもんを用意しろよ……俺は、もう一度あの裏路地を走るのは御免だ」
「……ええ。分かっていますわ」
私は、旅鞄の中で鈍い光を放つあの銀色のフライパンを、そっとなぞった。
三日の猶予。
私たちは、ジョエルの儀式を力で止めるのではなく、あの方が想像もつかないような「熱量」で、王都の冷え切った空気を塗り替える。
店を壊され、仲間を傷つけられ、私の命を餌にされた。
これほどの不作法、一皿の料理で許してあげるつもりはありませんわ。
「『あの食材』……を用意する必要がありますわね」
(ジョエル。貴方は私が来るのを待っているのでしょう? ええ、行きますわ……ただし、貴方の想像を絶するような、不作法で最高に温かな「反撃のフルコース」を携えてね!)




