第12話 復興の槌音、壊れぬ絆
戦闘の熱が引いた後のカフェ・ヴァレンタインは、耳が痛くなるほどの静寂と、鼻を突く焦げた木材の匂いに包まれていた。
かつて私たちが丹精込めて整えた庭の柵は無残にへし折られ、青々としていた芝生には魔獣たちが暴れ回った爪痕が深く刻まれている。
テラス席のいくつかは、カトリーナの放った苛烈な焔と、敵が放った不気味な魔導が衝突した余波で、真っ黒な炭へと変わり果てていた。
けれど、その惨状の中で、建物の中心部だけは奇跡のように凛として立っていた。
調理場も、みんなで食卓を囲むリビングも、バルトやクラリス、そしてゾアが文字通り命を懸けて死守したおかげで、煤ひとつついていない。
アストライアの境界からアビーの背に乗って急行した私たちは、荒れ果てた庭の真ん中で立ち尽くした。
夕闇が迫る中、ルイ様は自身の母国が放った「暴力」の痕跡を、痛みを堪えるような眼差しで見つめている。
その横顔があまりに悲しげで、私はそっと彼のマントの端を握りしめた。
「……ルイ様。御帰還に際し、これ以上ない不作法な惨状でお迎えすること、どうかお許しください」
バルトが、煤と泥で汚れた燕尾服を臆することなく晒し、完璧な角度で頭を下げた。
眼鏡の奥にある群青色の瞳には、襲撃を退け、主の居場所を護り抜いた者だけが持つ、冷徹なまでの矜持が宿っている。
私は、震えそうになる呼吸を整えてルイ様の隣を離れ、まずは傷ついた仲間たちのもとへ駆け寄った。
「ゾア、怪我を見せて……クラリス、カトリーナ。みんな、本当に、本当によく無事で……」
「ガハハ! 主、心配いらぬ。我の鱗は鉄より硬いと言っただろう……ただ、少しばかり甘露が足りぬな。命のやり取りというものは、実に腹が減るものだ」
ゾアが豪快に笑い、巨大な斧を地面に突き立てた。
深緑の鱗の隙間からは赤い血が滲んでいたが、彼は痛がる素振りも見せず、ただ私の無事を心から喜んでいる。
その隣では、カトリーナが肩を揺らして激しい息をついていた。
プラチナブロンドの縦ロールは煤け、自慢の魔導衣も端が焦げている。
「おーっほっほっほ! 汚らしい獣共にこの私の庭を荒らされるなど、不愉快極まりないわ! ……でも安心なさい、アリシア。貴女の聖域――あのキッチンにだけは、指一本触れさせはしなかったわよ」
勝ち誇ったように胸を張る彼女の瞳には、強い自負があった。
カトリーナの圧倒的な火力と、バルトの緻密な指揮、そして騎士たちの献身がなければ、この場所は今頃灰になっていただろう。
私は彼女の震える指先をそっと包み、深く、深く感謝した。
ひと通りの手当を終えた後、私たちはリビングの円卓に集まった。
中央に置かれたのは、あの黒い招待状。
ルイ様が、その封筒を愛おしむように、あるいは呪うように指先でなぞりながら、静かに口を開いた。
「……間違いない。あの使者も、今回の同時多発的な襲撃も。すべてはジョエルが仕掛けた『観測』だったのだ」
その言葉の意味を、私たちは痛いほどに理解した。
「あのお方は、今回、最初から勝つ気などなかったのでしょう……ルイ様をアストライアへ誘い出し、カフェの戦力を分断する。その上で、残された者たちがどれほど粘り強く『家』を守るのか、その結束度を測りに来たのです」
バルトが、銀のトレイを脇に抱え、厳しい表情で分析を述べる。
「ジョエルは、盤面を壊す前に、その強度がどれほどのものかを知っておきたかった……実におぞましく、合理的。もし今日、このカフェが簡単に崩れ去っていれば、あのお方はそのまま全軍を投入し、容赦なくこの森ごと焼き払っていたでしょう」
「……けれど、彼は引いた。私たちが耐えたから」
私が紡いだ言葉に、ルイ様は苦しげに目を伏せた。
ジョエルが退却したのは、決して慈悲などではない。
まだ壊す時期ではないと、冷徹に判断しただけなのだ。
私たちの結束が、彼の予想を上回っていた。
だからこそ、彼は自らの本気を出す前に、一度手を引いたに過ぎない。
◇
翌朝、私たちは朝日と共に修繕作業を開始した。
マルクス率いる騎士団が倒れた柵を立て直し、ゾアが巨大な石を運んで庭の崩れた土台を固める。
ジュリアンも、アビーと共に崩れた屋根の破片を運ぶ手伝いをしていた。
アビーの瞳を見つめ、優しく首筋を撫でるだけで、巨体を持つワイバーンは彼の意図を完璧に汲み取り、繊細に動いている。
「アビー、そっちの木材をお願い……うん、助かるよ、ありがとう」
魔物使いとしての技術を超えた、家族としての絆。
それもまた、このカフェが持つ「壊れぬ形」の証だった。
私は、キッチンで山のような野菜を刻んでいた。
壊されたのなら、前よりも美味しく、前よりも温かく作り直す。
それが店主としての私の答えであり、ジョエルへの最大の反抗だ。
作業の合間、バルトがキッチンの隅で銀食器を磨いているのが見えた。
彼はふと手を止め、窓の外でルイ様が騎士たちと修繕の指示を出している様子を見つめていた。
その眼差しには、単なる従者以上の、深い憂慮が滲んでいる。
「バルト、貴方は……ジョエルのことを、昔からよく知っているのね?」
私の問いに、バルトは眼鏡を一度外した。
レンズを布で丁寧に拭い、再び装着するその所作は、溢れ出しそうな感情を無理やり檻に閉じ込めるための儀式のようにも見えた。
「……長く、王宮の影におりましたから。あのお方は、かつてルイ様が絶望の淵におられた頃、その陰りを誰よりも愛しておられた……壊れかけのものを弄び、完全に砕け散る瞬間を最前列で眺める。それが、あのお方の真骨頂なのです」
バルトの瞳が、月光を宿したように鋭く光る。
「今回、カフェが壊れなかったことは、あのお方にとって『最高の刺激』になったことでしょう……次は、より狡猾に、より確実に、ルイ様とこの場所を分断しに来る。アリシア様……ここを守るためには、もう料理だけの話では済まないかもしれません」
「……ええ。分かっていますわ。不作法な客には、それ相応の覚悟でおもてなしいたしますわよ」
私はフライパンを握り直し、力強く答えた。
一方、この場に一人だけ、騒動が始まる数日前から姿を見せていない男がいた。
イグニスだ。
死の気配を纏う取り立て屋の彼は数日前、「庭の土の匂いがおかしい」と不吉な言葉を吐き捨て、森の奥へと消えていた。
イグニスは今、王都アストライアの周辺で、今回の襲撃の残り香を追っている。
彼は、バルトが「光」の側から秩序を守るなら、自身は「闇」の側から敵の急所を暴き出すことを選んだのだ。
彼が戻る時、それはジョエルの次の一手が、より具体的な絶望を伴って現れる時だろう。
◇
夕暮れ時。
修繕作業が一段落し、庭にはようやく平穏な空気が戻りつつあった。
私は、焦げ跡が綺麗に磨き上げられたテラスの隅に立っていた。
そこへ、泥に汚れた上着を脱いだルイ様が歩み寄ってくる。
乱れた夕焼け色の髪が、西日に照らされて黄金色に輝いている。
私たちは、しばらくの間、言葉を交わさずに並んで沈みゆく太陽を見つめた。
「……アリシア。君に、見せたかった風景がある。アストライアの王宮から見える夕陽も確かに美しい……けれど、ここから見える、この不作法に生い茂った森を染める夕陽の方が、今の私にはずっと温かく見えるんだ」
ルイ様の声が、心地よい余韻を伴って私の耳に届く。
私は彼の方を見ず、ただ、その隣にいることの重みを噛みしめた。
「……一緒に帰ってこられて、本当に良かったですわ。ルイ様」
「ああ。君が隣にいてくれたから、私はあの境界の門をくぐることができた……君が私の、帰る理由だ」
ルイ様の大きな手が、私の指先に触れるか触れないかの距離で止まる。
甘い言葉も、激しい抱擁も、今は必要なかった。
ただ、同じ戦場を越え、同じ家へと戻ってきたという事実。
それこそが、どんな高価な宝石よりも、私たちの絆を強く繋いでいる。
私は、そっと自分の手を、ルイ様の手の近くへ置いた。
触れ合わなくても、彼の体温が伝わってくる。
「……明日は、もっと忙しくなりますわ。修繕のお手伝いをしてくださった皆様に、最高のご馳走を作らなくてはなりませんもの」
「ふふ……君のフライパンが、また火を吹くのを、楽しみにしているよ」
ルイ様の穏やかな笑みが、私の胸を温める。
けれど、私たちは知っている。
この平穏は、ジョエルが次に仕掛ける「本気」までの、束の間の猶予に過ぎないことを。
守りきった場所。育まれた絆。
そして、まだ戻らぬ影の協力者。
(ジョエル。貴方がどのような盤面を描こうとも。私たちはこの不作法な居場所から、一歩も退くつもりはありませんわ!)
私は再び、完璧な店主の微笑みを浮かべ、キッチンの灯りを灯した。




