第11話 不作法な迎撃と二つの戦場
国境の森を包む朝霧は、これまでにないほど深く、重かった。
それは初夏の爽やかさを孕んだ自然の産物ではない。
ジョエルが放つ、粘りつくような魔道の残滓だ。
カフェ・ヴァレンタインのテラスに集まった私たちの間に、沈黙が横たわる。
卓上に置かれた漆黒の書状が、これから始まる残酷な遊戯の開始を告げている。
私たちは、この場所で二つの班に分かれる決断を下した。
一方は、ルイ様の母国アストライアへと向かう「討伐班」。
もう一方は、このカフェという帰るべき場所を死守する「防衛班」。
「ルイ様。私は貴方と共に行きますわ。店主が不在の晩餐会など、不作法が過ぎますもの」
私は、フライパンを旅鞄に詰め込みながら言った。
「アリシア……すまない。君をこれ以上、私の因縁に巻き込むわけにはいかないと言いたいところだが……君のいない王都は、私にはあまりに寒々しい」
ルイ様は微かに笑った。
その右手の紋章は、これから向かう戦場に呼応するように、黄金の微光を放っている。
アストライアへと向かうのは、ルイ様、私、テリオン。そして、空からの機動力と索敵を担うジュリアンとアビーだ。
そして、このカフェに残るのは、バルトを筆頭に、クラリス、ゾア、マルクス率いる騎士団、さらに、その強大な魔力で拠点を死守するカトリーナだ。
「陛下……この場の守りは私めが完璧に統制いたします。どうか、後ろを振り向かず、王としての正道を歩まれませ」
バルトが眼鏡の縁を直し、深く、重厚な一礼を捧げた。
その燕尾服の下には、無数のワイヤーと、研ぎ澄まされた細剣が隠されている。
これが、私たちの選んだ盤面だ。
けれど、ジョエルという男の指先は、既に私たちの想像以上に深く、この森の理を書き換えていた。
◇
私たちはアビーの背に乗り、大陸の魔導の心臓部へと足を踏み入れた。
目の前に広がるのは、王都アストライア。
切り立った崖の上に築かれたその都市は、まるで空へ向かって成長する巨大な水晶の群生体だった。
中心にそびえる『白亜の王宮』を核として、周囲には重力に逆らって滞空するいくつもの魔導尖塔が、静かに光の粒を零している。
あまりに幻想的で、冷徹なまでの美しさ。
だが、その聖域への入り口で、周囲の空気が一変した。
温度が急激に下がり、梢を揺らす風が凍えるような鳴き声を上げる。
「止まれ……不作法な殺気が、道を完全に塞いでいる」
テリオンが鋭く目を光らせ、背中の弓を手に取った。
霧の中から現れたのは、先日カフェに現れたあの灰色の使者だった。
だが、今の彼が纏っているのは、伝令としての虚飾ではない。
漆黒の魔導を帯びた細剣を手にし、その背後にはジョエルの私印を掲げた私兵たちが、音もなく整列している。
「ようこそ、太陽の末裔。そして、不遜な料理人……閣下は仰いました。『彼らが真に太陽を戴く資格があるか、その刃で確かめてこい』と」
「……みんな、下がって! アビー、あいつらを追い払って!」
アビーがそれに応えて咆哮した。
巨大な翼から生み出される突風が、不気味な霧を真っ二つに裂く。
戦闘の火蓋が切って落とされた。
テリオンの矢が影を縫い、私兵たちの喉元を正確に射抜いていく。
ルイ様もまた、剣を引き抜き、黄金の魔力で敵の連携を分断していく。
私は、旅鞄からあのフライパンを取り出した。
ドルガンが鍛え直した銀色の肌は、鏡のような輝きを放っている。
「……『お掃除』の時間ですわね!」
死角から飛び込んできた私兵に対し、私は一歩も退かずにフライパンを振り抜いた。
ガィィィィンッ!
硬質な音と共に、私兵の剣が根元から砕け散る。
そのままの勢いで、私は彼らの陣形の中へと不作法に踏み込んだ。
けれど、使者は不敵な笑みを崩さなかった。
彼はルイ様の猛攻を細剣で受け流しながら、冷酷な声音で囁いた。
「……奮闘されますな。ですが、よろしいのですか? ……今頃、あの不作法な森は、さぞかし賑やかでしょうに」
「……! まさか!」
ルイ様が息を呑み、右手の紋章が激しく脈動した。
その時、私の胸の奥に、言葉にならない「嫌な予感」が奔った。
ジョエルの狙いは、私たちをアストライアに呼び寄せ、戦力を削ることではない。
ルイ様から「帰るべき場所」を奪うこと――カフェ・ヴァレンタインの物理的な破壊だ。
「ジュリアン、アビー! 急いでカフェに戻りますわよ!」
◇
その頃。カフェ・ヴァレンタインの周囲は、凄まじい魔獣の群れと、ジョエルが放った別動隊に包囲されていた。
「バルト殿! 北側から魔獣の第三波が来ます!」
マルクスの叫びが響く中、バルトは眉一つ動かさず、銀のトレイを突き出した。
トレイの表面で反射した光が、飛来する火球を霧散させる。
「不作法な客人が多すぎますね……クラリス、中の防備は?」
「万全です。お嬢様のキッチンに、煤一つ付けさせるつもりはありません」
クラリスが冷静に答え、手に持った短剣で影から迫る暗殺者を一蹴した。
「おーっほっほっほ! 汚らしい獣に、不遜な私兵共。この私を誰だと思っていなくて? 宮廷魔導師カトリーナの焔で、塵に帰して差し上げますわ!」
カトリーナが杖を掲げると、空が真っ赤に染まった。
降り注ぐ火の雨が、森を侵食しようとする魔獣たちを焼き払っていく。
「ガァァァァッ! 雑魚共が! 我の主に、甘露を捧げるこの平和を邪魔させるか!」
ゾアの巨大な斧が旋風を巻き起こし、魔獣たちとなぎ倒していく。
ジョエルの計算違い。
それは、このカフェがもはや「アリシア個人の店」ではなく、異なる種族と立場を超えた、一つの強固な「共同体」へと進化していたことだった。
押し寄せる圧倒的な暴力に対し、バルトの細剣が、ゾアの剛力が、そして騎士たちの盾が、完璧な秩序をもって立ちはだかっていた。
バルトは、不意に足元を横切った羽虫に対し、僅かに眼鏡を歪ませた。
「……まったく。虫も、不作法な兵士も。私めの『掃除』の邪魔をするものは、一匹たりとも容赦はいたしませんよ」
彼の燕尾服から放たれた極細のワイヤーが、霧の中に潜んでいた伏兵たちを一瞬で絡め取った。
◇
アストライアの境界で、私たちは使者を叩き伏せた。
けれど、彼が漏らした言葉に突き動かされ、私たちはなりふり構わず、アビーの背に乗って森へと急行した。
空から見えた森の一部からは、黒い煙が上がっていた。
私の心臓が、不吉なリズムで跳ねる。
けれど。
「……遅かったな、主よ」
到着した私を迎えたのは、返り血を浴びながらも、不敵に笑うゾアだった。
彼は、先ほどまで戦っていたことなど忘れたかのように、大切そうに一欠片の「ガレット」を口に運んでいた。
カフェの扉は、一枚も破られていなかった。
庭の柵は壊され、テラスの一部には焦げ跡が残っている。
けれど、建物の芯は、そしてそこに集う人々の魂は、無傷のままだった。
森の奥へと退いていく敵の影。
そこにジョエル本人の姿はない。
撤退する彼らの背中から、冷徹な「観測」の視線が消えていくのを、私は肌で感じた。
「……壊れなかったから、引いたのですわね」
私は、ボロボロになったテラスに降り立ち、安堵で震える脚を強く地面に踏みしめた。
ジョエルという男は、「壊せると確信した瞬間」にしか、全力を出さない。
この場所が、主である私たちの不在に耐えきり、一歩も退かなかったこと。
それが、冷酷な支配者にとって、今の「盤面」での敗北を意味した。
「ルイ様、お帰りなさいませ」
バルトが、眼鏡を歪ませながらも完璧な礼を捧げた。
その足元には、彼が苦手な虫一匹さえも通さぬような、研ぎ澄まされた静寂が戻っていた。
「ああ、ただいま……皆、よく守ってくれた」
ルイ様が、誇らしげに仲間たちを見渡した。
守るべき「家族」を持つ一人の男としての強い光が宿っていた。
「バルトさん……! それにゾアさん、カトリーナさんも、みなさんご無事でよかった!」
ジュリアンがアビーの背から飛び降り、安堵の涙を浮かべてみんなに駆け寄った。
アビーは、そんな彼の足元で優しく鼻を鳴らしていた。
家は少し傷ついた。庭も荒らされた。
けれど、私たちの「絆」という名の芯は、ジョエルの暴力をもってしても、一分一秒たりとも揺るぐことはなかった。




