第10話 冷徹な使者、静かなる盾
レゴとギラがもたらした「星霜の蜜」の芳醇な残り香が、まだテラスの空気に微かに混じっていた。
恐怖を越えて集まった絆、王都から届いた白小麦、そして戦士たちが狩り取った命の力。
カフェ・ヴァレンタインを包んでいた「孤立」という名の闇は、今やそれらの輝きによって、一時の安寧を取り戻したかのように見えた。
けれど、その安らぎを切り裂くように、森の奥から冷え切った空気が流れ込んできた。
「お嬢様。入り口に、使者が到着いたしましたわ……案内いたしますか?」
クラリスが、鋭い氷のような声を響かせた。
彼女の視線の先、夕闇が濃くなり始めた森の小道に、灰色のマントを纏った一人の男が立っていた。
馬も連れず、護衛もいない。
ただ一人でそこに佇む姿は、まるで影そのものが実体を持ったかのような不気味さを放っている。
ルイ様が椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「……お控えください、ルイ様。ここは私がお相手いたしましょう」
地響きのような、重厚で落ち着いた低音が響いた。
現れたのは、白髪を完璧に撫で付け、非の打ち所のない燕尾服を纏った老紳士。
バルトだ。
彼は眼鏡の縁を指先で静かに直し、群青色の瞳に冷徹な知性を宿して一歩前へ出た。
いつもはルイ様の背後に控え、目立たぬように場を整えていた彼が、今、このカフェを外敵から守る「最初の盾」としてその存在感を現したのだ。
「アリシア様、この場は私めにお任せを……宴の邪魔をするネズミは、私めが責任を持って『お掃除』いたしましょう」
バルトは私に向かって優雅に一礼すると、そのまま灰色の使者の前へと歩み寄った。
◇
灰色の使者は、無言で懐から一枚の書状を取り出そうとした。
だが、バルトはその手が動くよりも早く、手にした銀のトレイを無造作に突き出した。
「――そこまででございます……その指先にある紋章、それはジョエルの私印でございますね」
バルトの静かな指摘に、使者の肩が僅かに跳ねた。
フードの奥に隠された瞳が、驚愕に揺れる。
「……なぜ、それを」
「アストライアにおいて、その意匠を用いることを許されているお方は限られております……丁寧すぎるほどに冷酷なそのやり口、私が見間違うはずもございません」
バルトの声には、かつて王宮の深部でジョエルの「影」を間近に見てきた者だけが持つ、確かな重みがあった。
使者は舌打ちをし、力ずくで中へ入ろうと一歩踏み出した。
だが、バルトは微動だにせず、ただ眼鏡を光らせてその進路を塞いだ。
「恐れながら、当店は王都の支配下にございません……店主であるアリシア様の許可なく足を踏み入れることは、どのような理由があろうとも認められません」
「私は、ルイ陛下に伝言を預かってきたのだ! 貴様のような老いぼれに――」
「陛下、とお呼びになりましたか……ならば尚更でございます。王を敬う心があるならば、まずはその汚れたマントを脱ぎ、礼節を尽くすべきでしょう。今の貴方は、ただの迷い込んだ野犬に過ぎません」
バルトの放つ威圧感は、剣を抜いた戦士のそれよりも鋭く、重かった。
使者は、バルトの群青色の瞳の奥に、抗い難い「深淵」を見たのだろう。
彼は忌々しげに書状をトレイに叩きつけると、そのまま闇に溶けるように立ち去っていった。
◇
使者が去り、テラスに緊張感の混じった安堵が戻った。
けれど、バルトだけは表情を崩さなかった。
彼はトレイに乗った書状をルイ様に差し出し、それから私に向き直った。
「アリシア様……勝負がついたと思うのは、まだ早いかもしれません」
その一言で、浮き立ちかけていたカフェの空気が、再び引き締まった。
ルイ様は、バルトが差し出した書状を、指先で静かに開いた。
漆黒の蝋が砕ける微かな音。
そこに並んでいたのは、ジョエルらしい流麗で無駄のない筆跡だった。
『ご無沙汰しております、ルイ。
王都アストライアでは、季節の節目を祝う
新たな評議会が催されます。
貴方の席は、既に私の隣に用意させました』
一見すれば、叔父から甥への慈愛に満ちた招待状。
だが、その後に続く文言は、氷のように冷徹だ。
『欠席は自由です。
しかし、貴方が姿を現さぬという選択をするならば、
私は貴方の不在を、この国の王権に対する
完全な放棄と見なす。
その場合、秩序を乱す不作法な一味として、
その森を根こそぎ掃き清める必要があるでしょう。
賢明な返答を期待しています』
ルイ様を王都へ引きずり戻すか、さもなければこのカフェを火の海に変えるか。
選ばせているようで、その実、逃げ場を完全に塞ぐ二択。
「……やはり、罠にございますな、陛下」
バルトが横から書状を覗き込み、低く唸った。
眼鏡の奥の瞳が、怒りで僅かに歪む。
「ジョエルは、陛下がどちらを選んでも詰みになるよう盤面を整えておられる。王都へ行けば捕らわれ、ここに留まれば大切な居場所を失う……実におぞましい手口です」
テラスに重苦しい沈黙が落ちた。
ルイ様はしばらくの間、月光に照らされた書状を見つめていた。
その横顔は、かつて絶望に折れていた時のそれではない。
「……行こう、バルト」
「陛下!?」
「これ以上、アリシアや皆を巻き込むわけにはいかない。それに、私はもう逃げることに飽きた。叔父上は、私がここでどんな『味』を知ったのか、全く理解していないようだ」
ルイ様は静かに立ち上がり、私の方を見た。
その瞳に宿るのは、自身の存在を呪う陰りではなく、大切なものを守り抜こうとする王の光。
私は、その力強い声を聞きながら、自身の右手を強く握りしめた。
彼を独りで行かせるつもりなど、毛頭ない。
「……分かりましたわ。では、バルト。私は、どのような準備をすればよろしいかしら?」
私の問いに、バルトは静かに、けれど力強い笑みを浮かべた。
「外の警戒は、ゾア殿や騎士団に……ですが、中の秩序、そして『隙』を埋める仕事は、私めが務めましょう。アリシア様は、これまで通り、揺るぎないおもてなしの準備を。それ以外の雑事は、すべて私にお任せください」
◇
その夜。
仲間たちがそれぞれ自室へ引き上げた後。
バルトは一人、銀のトレイを脇に抱え、カフェの廊下を音もなく巡回していた。
彼はテラスの椅子の位置を、数センチだけずらした。
窓からの死角を潰し、いざという時の避難動線を確保するためだ。
厨房の勝手口の鍵を確かめ、僅かに緩んでいた窓枠のネジを、懐から取り出した小さな工具で締め直す。
その動作は、完璧な執事そのものでありながら、同時に、いつ何時どこから現れるか分からぬ「影」に備える、歴戦の護衛のそれだった。
「……シッ」
足元を小さな羽虫が横切った瞬間、バルトは僅かに身を竦め、眼鏡を歪ませた。
虫に対する生理的な嫌悪感だけは、この完璧な老紳士をもってしても克服できない弱点だった。
「……不便なものですね……しかし、この小さな平穏を守るためならば」
彼は溜息をつき、再び夜の森へと視線を向けた。
闇の奥、梢の間に、僅かに揺れる「観測」の気配。
ジョエルの手がかり。
「……お変わりありませんね、ジョエル……ですが、今のルイ様は、貴方の知っている『折れた太陽』ではございませんよ」
バルトの群青色の瞳が、月光を反射して鋭く光る。
◇
翌朝、私が一階に降りると、そこには既に完璧な正装に身を包んだバルトが、淹れたての紅茶と共に待機していた。
「おはようございます、アリシア様。本日のメニューは、何をお作りになりますか? どのような挑戦状が届こうとも、この厨房の『芯』は、私めが守り通してご覧に入れましょう」
その言葉の通り、テラスの配置も、店内の空気も、昨日とは何かが決定的に変わっていた。
守られている。
バルトという静かな盾が、このカフェの四隅に確固たる「秩序」を打ち込んでくれたのだ。
だが、窓の外に広がる森の闇は、昨日よりもさらに深く、重い粘り気を増しているように見えた。
それはまるで、王都アストライアへと続く一本道が、巨大な蛇の顎のように口を開け、私たちの訪れを静かに待ち構えているかのよう。
ジョエル。
貴方が用意した冷え切った晩餐会は、私の情熱を飲み込む檻になるのか、それとも。
「……さあ、始めましょうか。アストライアの喉元に突きつける、不作法なメニューの仕込みを」
朝日が昇る直前、一番深い闇の中で。
私は愛用のフライパンを、その手にしっかりと引き寄せた。
名工ドルガンの手によってさらに強固に、そして美しく生まれ変わった銀色の肌。
使い込まれた馴染みの良さはそのままに、今はどんな名剣よりも気高く、鏡のような輝きを放っている。
この相棒が私の手にある限り、貴方の用意した冷徹な盤面さえも、最高の温度で焼き尽くして差し上げますわ。
ここから先は、もう料理だけの話ではない。
私たちの生きる場所と、ルイ様の未来を賭けた、負けられないおもてなしが始まろうとしていた。




