第8話 届けられた真心と、絆のガレット
国境の森を包む初夏の風は、今や不気味な魔術の糸を孕んで、肌に冷たく絡みつくようになっていた。
ジョエルが仕掛けた、静かで冷徹な選別。
恐怖によって道を塞ぎ、兵糧攻めで心を削り、私たちが自ら膝を屈するのを待つ――その盤面に対し、セレスティアやエメラダたちが「絆」という名の綻びを作ってくれた。
けれど、カフェの貯蔵庫が依然として危機的状況にあることに変わりはない。
「お嬢様。騎士団のマルクス卿より報告がありました。森の検問所に、王都グラン・ロアからの旅人が現れたそうです。馬車は魔獣の群れに襲われ大破しましたが、中身を背負って、徒歩でこちらへ向かっていると」
クラリスが、いつになく強張った声でそう告げた。
私は手にしていた木べらを置き、正面玄関へと急いだ。
そこで私が見たのは、かつての公爵邸で何度も目にした、あの頼りなげで不器用な少女の姿だった。
「……はぁ、はぁ……ここ、だよね……クラリス、いるかな……」
蜂蜜色のふわふわとした髪は、森の枝に引っかかったのか乱れ、頬には泥がついていた。
小さな背中には、その細い体躯には不釣り合いなほど巨大な背負い籠。
エレナ。
かつてお母様の命を受け、スパイとしてこの店に送り込まれたクラリスの不器用な元同僚。
「エレナ……!? 貴女、その格好は……!」
クラリスが、弾かれたように駆け寄る。
エレナはクラリスの姿を見るなり、ふにゃりとその場に膝を突いた。
背負っていた籠が、ドサリと重い音を立てて地面に落ちる。
「……えへへ。クラリス、やっと着いた。道、怖かったよ。狼がすごくて……でも、騎士団の人が『お嬢様が待ってるから、絶対に行け』って」
エレナは震える手で、籠の覆いを取り払った。
籠の中から現れたのは、今の私たちが喉から手が出るほど欲していた、けれど決して手に入らないはずの「王都の宝」だった。
エレナが震える手で包みを解くたび、厨房の入り口に王都グラン・ロアの贅を尽くした香りが溢れ出す。
まず現れたのは、王都の貴族だけが口にすることを許される、雪のように白い小麦の上等粉だった。
粒子の一粒一粒が陽光を反射してきらめき、今のこの荒れた森では奇跡のように清らかに見える。
続いて、銀紙に包まれた熟成発酵バターが顔を出した。
それは濃厚で芳醇な香りを放ち、まるで凝縮された黄金の輝きを放っているかのよう。
さらに、琥珀色の肌をした長期熟成の硬質チーズが重厚な存在感を示し、最後には、宝石よりも貴重とされる精製された砂糖の純白の結晶が、エレナの手のひらで静かに光った。
「エレナ、これ……王都でも最高級の食材ばかりですわね。どうして貴女がこれほどのものを?」
私が思わず声を上げると、エレナは小さく、けれど真っ直ぐにクラリスを見上げた。
「……クラリス。私、あの日、貴女を騙して、お嬢様のスープを毒味に使ったこと……ずっと、ずっと、胸が痛かったの。どうしても、謝りたくて……」
エレナの声が震える。
「だから、お屋敷を抜け出してきたの。馬車は途中で壊されちゃったけど、これだけは、どうしても届けたくて……クラリス、ごめんなさい。私、もう不作法なスパイは、やめたから」
震える声で告げられた、不器用な謝罪。
ジョエル。
貴方は恐怖で王都を支配し、私たちを孤立させたつもりでしょう。
けれど、貴方が支配したはずのその足元から、一人の非力なメイドが、貴方の最も嫌う「真心」を背負って、死地を突破してきたのですわ。
クラリスは、しばらく無言でエレナを見つめていた。
かつての冷徹なナイフのような瞳が、ゆっくりと、春の陽だまりのような潤みを帯びていく。
彼女はそっとエレナの泥だらけの手を取り、自分自身の胸に引き寄せた。
「……エレナ。貴女は本当に、不作法なほどに不器用な人ですわ。重かったでしょう……さあ、中へ。お嬢様のキッチンは、貴女が運んできたこの光を待っていましたのよ」
◇
私は、エレナが命がけで運んできた食材を抱え、厨房へと飛び込んだ。
最高級の白小麦、濃厚なバター、芳醇なチーズ。
これらは本来、王都の貴族たちが贅沢を貪るためのもの。
けれど今この瞬間、それはジョエルの絶望を打ち破るための最強の武器へと姿を変えた。
「カトリーナ! 再び出番ですわよ! 王都の傲慢な食材たちを、私たちの絆で屈服させて差し上げますわ!」
「おーっほっほっほ! 王都の上等粉ですって!? よろしいでしょう、私の焔で、これ以上なく不遜に焼き上げて差し上げますわ!」
カトリーナが華奢な指を鳴らすと、コンロの上に青白く、けれど力強い魔導の炎が踊った。
私は白小麦を丁寧に練り、エレナが持ってきたバターを贅沢に折り込んだ。
そこへ、エメラダたちが届けてくれた瑞々しい夏野菜と、王都の最高級チーズをたっぷりと乗せる。
名付けて――『王都の光と森の絆、あるいは不作法な和解のガレット』!!
カトリーナの火力が、バターの香りを爆発させる。
生地はサクサクと黄金色に焼き上がり、チーズは野菜の旨みを抱き込んで、とろりと官能的に溶け出した。
「お待たせいたしましたわ、エレナ! 貴女が運んできた『謝罪』、最高の味にしてお返しいたしますわ!」
テラスに運ばれたガレットの香りに、エレナは瞳を丸くした。
「……わあ……これ、お屋敷で食べてたものより、ずっと……ずっと温かくて、いい匂いがする……」
彼女が一口運ぶ。
サクッ、という完璧な音。
そしてその直後に、王都の洗練された贅沢さと、この森で育まれた野菜の力強さが、彼女の口の中で一つに溶け合った。
「……おいしい。クラリス、お嬢様……私、生きてて良かった……」
エレナの目から、大粒の涙が零れ落ち、ガレットの上に落ちた。
それは毒味でも演技でもない、ただの少女の、心からの安堵の雫だった。
その光景を、ルイ様はエメラルドの瞳を熱くして見つめていた。
彼の右手の紋章は、エレナが食材を広げた瞬間から、不気味な黒ずみを脱ぎ捨て、本来の黄金の輝きを放ち始めていた。
「……ジョエル叔父上、貴方の『遮断』は、今、完全に瓦解した」
ルイ様は静かに立ち上がり、森の奥へと視線を向けた。
「王都から、一人のメイドが意思を持ってここへ来た。それは、貴方の恐怖政治が、人間の本質を支配できていない証拠だ……アリシア。このガレット、私にも一枚焼いてくれるかな? なんだか、力が湧いてきたんだ」
「ええ、もちろんですわ! ルイ様、不作法なおかわり、大歓迎ですわよ!」
私はフライパンを握り直し、最高の笑顔で答えた。
恐怖の選別。
ジョエルが仕掛けたその遊戯は、今、完全に裏目に出た。
遠ざければ遠ざけるほど、このカフェに届く一つ一つの絆が、何物にも代えがたい宝石のように輝きを増していく。
夜明けは、まだ来ない。
けれど、カフェ・ヴァレンタインには、王都の光と、森の恵みと、緊張感の中でも消えない人々の真心が満ち溢れている。
(次の一手は何かしら? どんな不作法な罠を仕掛けようとも、私はこの温かなキッチンから、一歩も退くつもりはありませんわ!)




