第7話 勇気の種、再会の祝杯
セレスティアが残した「永劫の夜」という不気味な予言は、白銀の髪の残像と共に、初夏の熱を孕んだ風に溶けて消えた。
けれど、静寂を取り戻したはずの庭には、依然として「何かに見張られている」ような、肌を刺す重苦しさが沈殿している。
「お嬢様。セレスティア様が仰っていた『手繰り寄せ』……もし本当に、王都のあのお方がこの森の理を書き換えているのだとしたら……これから来るお客様は、命がけということになりますわね」
クラリスが、空になったトマトの皿を片付けながら、冷静に、けれど確かな懸念を口にした。
私は彼女の言葉を肯定するように頷き、エプロンの紐をもう一度、きつく締め直した。
食材は尽きかけている。
道は魔獣に塞がれている。
店主として、これほど不作法な状況は他にない。
けれど、私は確信していた。
セレスティアという「森の代弁者」が最初の一人として現れたのなら、次に来るのは、心でこの場所を求めてくれる「人」であるはずだと。
その時。
遠く、森の入り口の方から、カタカタとリズミカルな荷車の音と、それを打ち消すような元気な声が響いてきた。
「あーるーけー、あーるーけー! お姉ちゃんの、おみせにいこうー!」
その歌声に、テラスにいた全員が弾かれたように顔を上げた。
新緑の茂みをかき分けて現れたのは、小さな荷車を引いた、見覚えのある二人連れだった。
「お姉ちゃーーーん!!」
弾けたような声と共に駆け寄ってきたのは、琥珀色のふわふわとした髪をなびかせた少女、ミシェルちゃんだ。
ローズピンクの瞳をキラキラと輝かせ、彼女は全力で私の胸に飛び込んできた。
「あら、ミシェルちゃん! よくぞ、よくぞお越しくださいましたわ!」
私は彼女を抱きしめ、その温もりに、胸の奥で凍りついていた何かが一気に解けていくのを感じた。
その後ろから、上品な足取りで近づいてきたのは、母親のエメラダだ。
栗色の髪を美しく結い上げた彼女は、旅装に少しばかり泥を跳ねさせながらも、安堵に満ちた微笑みを浮かべていた。
「お久しぶりですわ、アリシア様……少し、来るのが遅くなってしまいましたわね」
◇
テラスの席に案内されたエメラダは、深く溜息をつき、膝の上の埃をそっと払った。
その隣で、ミシェルちゃんは身を乗り出して庭の菜園を眺めている。
「……正直に申しますと、怖くなかったわけではありませんの……数日前から、森が突然狂暴になったという噂が麓まで流れてきて……商人の皆様も森へは近寄るな、と仰っていました」
エメラダの言葉に、ルイ様が静かに眉を寄せ、自身の右手を隠すように握りしめた。
「それでも、来てくださったのですか」
「ええ……だって、あの子が、春に植えたトマトが赤くなったら絶対に食べに行くんだって、毎日玄関で靴を履いて待っているんですもの……それに」
エメラダは一度言葉を切り、テラスを警護していたバルトやマルクスたち騎士団の方へ視線を向けた。
「……騎士団の皆様が、道の要所に立って『ここから先は我らが守る、安心して進みなさい』と仰ってくださったわ。あの方々の背中を見て、私は決心したのです。不作法な獣などに、私たちの楽しみを奪わせてはならない、と」
恐怖による選別。
ジョエルが仕掛けたその「遊戯」は、騎士団の矜持と、一人の少女の「食べたい」という純粋な願いによって、いとも容易く突破されたのだ。
「お姉ちゃん、トマト! トマトあかくなった!? ミシェル、いちばんにたべるって、やくそくしたの!」
ミシェルちゃんが元気いっぱいに声を上げる。
私は思わず、苦笑いを浮かべた。
「ふふ、ミシェルちゃん。実は……ほんの数分前に、セレスティアというお客様がいらして、一番最初のトマトを召し上がってしまったのですわ」
「えーーーっ! ずるい! ほかのお姉ちゃんがたべちゃったの!?」
頬を膨らませて悔しがるミシェルちゃんの姿に、テラスにいた全員から、久しぶりに明るい笑い声が漏れた。
「ごめんなさいね、ミシェルちゃん。でも、貴女たちのために、もっと特別なものを用意いたしますわ……エメラダ、それは?」
私は、彼女たちが引いてきた荷車の中に、緑色の鮮やかな影を見つけた。
「ええ。商人の納品が止まっていると耳にしましたの……だから、私たちの農園で今朝採れたばかりのハーブと、少しばかりの夏野菜を持ってまいりました。これを使って、あの子にトマトのお返しをしてやってくださる?」
荷車の覆いを取り払うと、そこには瑞々しい香りを放つバジル、タイム、そして丸々と太ったズッキーニやナスがぎっしりと並んでいた。
物流の遮断という「詰み」の盤面。
それを崩したのは、王宮の知略ではなく、名もなき生産者による「お裾分け」という名の、あまりにも不作法で温かな支援だった。
◇
私は、彼女たちが届けてくれた食材を抱え、厨房へと走った。
食材がないという絶望は、今、この瞬間に消え去った。
「カトリーナ! 出番ですわよ。お客様に最高の熱を差し上げなくてはなりませんわ!」
私の呼び声に、厨房の隅で不機嫌そうに爪を磨いていたカトリーナが、プラチナブロンドの縦ロールを揺らして立ち上がった。
「おーっほっほっほ! この私を、ただの種火係だと思っていなくて? 宮廷魔導師である私の魔力を、このような不作法な逆境で使わせるとは……よろしいでしょう、その不敵な注文、最高の焔でお応えして差し上げますわ!」
カトリーナが華奢な手をかざすと、コンロの上に、青白く澄み渡った魔導の炎が勢いよく立ち上がった。
薪もガスも必要としない、彼女の意思そのもののような、純粋な熱。
「火加減は? アリシア!」
「最大でお願いいたしますわ! 野菜の水分を閉じ込め、一気に命を焼き付けますの!」
私は、エメラダたちが届けてくれたバジルをたっぷりと刻み、カトリーナが熾した炎の上にフライパンを乗せた。
ニンニクの香りがオイルに移り、そこへ夏野菜を一気に投入する。
サクッ、という瑞々しい音と共に、野菜の甘みが脂に溶け出していく。
名付けて――『恐怖を越えた先、初夏のラタトゥイユ・ブルスケッタ』。
最後に、僅かに残っていたパンをカリカリに焼き上げ、その上にたっぷりと彩り豊かな野菜を乗せる。
セレスティアにはトマト単体の「土の記憶」を捧げたが、ミシェルたちには、人の温もりが加わった「絆の味」を差し出さなくてはならない。
「お待たせいたしましたわ。命がけでお越しいただいたお客様への、私なりの精算ですわ!」
テラスに運ばれた皿には、赤、緑、黄色。初夏の輝きがそのまま結晶化したような料理が並んでいた。
「わあああ! きれい! お花畑のパンだ!」
ミシェルちゃんが目を輝かせてかぶりつく。
サクッ、という完璧な音。
そしてその直後に、トマトの濃厚な甘みとハーブの爽やかな香りが彼女の口いっぱいに弾けた。
「……おいしいっ! お姉ちゃんの味だ! ミシェル、これをたべるためにきたの!」
エメラダもまた、一口運ぶごとに、瞳に溜まっていた不安の涙を、至福の微笑みで拭っていった。
「信じられませんわ。私たちの育てた野菜が、アリシア様の手にかかると、こんなにも力強く、心を励ます味になるなんて。来て良かったです。本当に、来て良かった」
その光景を、ルイ様は少し離れた場所から、眩しそうに見つめていた。
彼の右手の紋章は、まだ微かに暗い色を帯びてはいたが、その震えは止まっていた。
「ジョエル叔父上……貴方は、恐怖で世界を支配できると思っている。だが、一皿の料理、一人の少女の笑顔に、貴方の魔術は届かない」
ルイ様は、テラスの柵に手をかけ、夕焼けに染まり始めた森を睨み据えた。
そこには、騎士たちが守る「航路」を通り、さらに別の馬車が近づいてくるのが見えた。
一度、「あそこは安全だ」という噂が立てば。
一度、「あそこの料理は絶望を救う」という信頼が結ばれれば。
ジョエルの仕掛けた隔離など、不作法に踏み荒らされるだけの、脆い砂の城でしかない。
「お嬢様。次のお客様が、入り口まで到着されたようですわ。不作法にも、皆様お腹を空かせていらっしゃるとか」
クラリスが、誇らしげに報告する。
私は、額の汗を拭い、最高の笑顔を浮かべた。
「お待たせいたしませんわ! この森が永劫の夜に飲まれる前に、すべてのお客様を、最高のおもてなしで『朝』までお連れして差し上げますわ!」
厨房に響く、カトリーナの炎が爆ぜる音と、フライパンの快音。
それは、ジョエルの冷徹な遊戯に対する、私たちの勝利のファンファーレだった。




