第6話 白銀の警鐘、歪んだ森の涙
魔獣たちを退けた後の森は、不気味なほどに凪いでいた。
初夏の強い陽光が梢を透かし、本来なら黄金の雨のように地面を照らすはずの光。
だが、今の私には、その光さえもジョエルが手繰る「見えない糸」を際立たせるための、冷たい照明のように感じられた。
「……お嬢様。残っているのは、こちらの『星降りトマト』が数個と、奥に眠っていた僅かな穀物のみですわ」
クラリスが、泥のついたエプロンを払いながら報告する。
彼女の白緑の瞳には、いつになく鋭い警戒の色が宿っていた。
「構いませんわ、クラリス。あるものだけで、最高のおもてなしをいたしますの……それより、騎士団の皆様に怪我をした方はいらっしゃらなくて?」
「はっ。アビーが守ってくれましたゆえ、大事には至っておりません。ですが、森の気配そのものが、以前とは……」
彼が言葉を切ったその時。
歪んだ静寂を切り裂くように、風に乗って不思議な調べが聞こえてきた。
鈴を転がすような、けれど、どこか胸を締め付けるほどに寂しげな歌声。
私は手にしていたジョウロを置き、吸い寄せられるように庭の柵へと歩み寄った。
朝靄の向こう側。
そこには、月光を編み込んだような白銀の髪を揺らし、深い翠色の瞳でこのカフェを見つめる女性が立っていた。
「……セレスティア!」
かつて、この庭の苗木を通じて心を通わせたエルフの再訪。
けれど、以前のように「命の息吹に驚く」彼女の姿はそこになかった。
セレスティアは、苦悶に満ちた表情で、震える森の木々にそっと手を触れていた。
「アリシア……森が泣いているわ……いえ、泣くことさえ許されず、無理やり心を塗り潰されている……人間の不作法な指先が、この森の誇りを泥で汚そうとしているの」
彼女の透き通るような白い肌が、怒りと悲しみで微かに震えていた。
「森の歪みに気づいて、居ても立ってもいられず来たけれど……このカフェの周囲だけが、まだ正気を保っている。貴女が灯した火が、かろうじて闇を押し返しているわね」
◇
私は、彼女をテラス席へと案内した。
食材はもう、ほとんどない。
けれど、森の異変を誰よりも深く傷つきながら届けてくれた彼女を、そのまま帰すわけにはいかなかった。
私は、残された最後の『星降りトマト』を、自身の体温さえも伝わらぬよう冷徹に、けれど慈しむようにスライスした。
ハーブも、オイルも、もう僅かだ。
私は、土の記憶を呼び覚ますような岩塩だけを添えて、彼女の前に差し出した。
「どうぞ……今の不作法な森の中で、唯一、正気を保っている命ですわ」
セレスティアは、細い指先でフォークを手に取り、一口運んだ。
トマトの皮が弾け、その果汁が彼女の喉を通った瞬間、彼女は静かに瞳を閉じた。
「……なんてこと……周りの木々は悲鳴を上げているのに、この子からは、確かな愛着の味がする。雑味のない、森の涙そのものだわ……アリシア、貴女はまだ、絶望に筆を置いてはいないのね」
「ええ。お客様がいらっしゃる限り、私は店主ですもの」
私の言葉に、彼女は微かに微笑んだ。
だが、その微笑みはすぐに消え、彼女の翠の瞳は店の奥――そこから歩み寄ってきたルイ様を射抜いた。
セレスティアは静かに、けれど有無を言わせぬ所作で深々と一礼した。
「……やはり、貴方がここに。高貴なる『太陽の末裔』。貴方がその光を宿している限り、あのお方は決して手を緩めないでしょうね」
ルイ様は困ったように眉を下げ、いつもの穏やかな声を響かせた。
「……おや。私の髪を見て、また古い伝承を思い出させてしまったかな……私はただの、この店の料理に魅了された客だよ」
「……誤魔化しは不要です……私には聞こえる。貴方の紋章が、あのお方の『手繰り寄せ』に抗って、軋んだ音を上げているのが」
セレスティアはルイ様の右手をじっと見据えた。
そこにある紋章は、今や黄金の輝きを失い、ジョエルの冷徹な魔力を吸い込んで黒ずんでいる。
「あのお方は、貴方を求めているのではない……貴方の宿す『太陽』を奪い、世界を永劫の夜に塗り潰そうとしている……森を狂わせ、動物たちを刺客に変えたのは、そのための前触れ。夜明けを殺すための、遊戯なのよ」
永劫の夜。
その言葉に、テラスを吹き抜ける初夏の風が一気に冷え込んだ気がした。
ジョエル。
あのお方は、王位という小さな椅子に興味があるのではない。
世界そのものの灯火を奪い、自分だけの理で世界を支配しようとしているのだ。
「……だから、太陽を絶やさないように……アリシア、このカフェが灯火である限り、森の正気は繋ぎ止められるわ。ここが落ちれば、すべてが夜に飲まれる」
セレスティアは立ち上がり、白銀の髪を揺らして私を見つめた。
彼女は、ルイ様の事情をすべて知った上で、ここに「正気の楔」を打ちに来たのだ。
「……ごちそうさま……貴女の料理に、森は救われたわ。でも気をつけて……恐怖による選別は、始まったばかりよ」
彼女は一陣の風とともに、森の奥へと消えていった。
◇
彼女が去った後のテラスで、ルイ様は自らの右手をぎゅっと握りしめていた。
「……アリシア。彼女の言う通りだ。私の存在が、この森を夜に変えようとしている」
「ルイ様……不作法なことを仰らないでくださいな」
私は、空になったトマトの皿を手に、ルイ様の目を真っ直ぐに見返した。
マリンブルーの瞳に宿るのは、恐怖ではない。
「食材がないのなら、工夫すればよろしい。お客様が来られないのなら、このカフェを灯台にすればいい。セレスティアが来てくださった。それは、この道を拓いてでも来る『不作法なお客様』が、これから増えるという予兆ですわ」
私は再びエプロンの紐を強く締め直し、完璧な店主の微笑みを浮かべた。
ジョエル。
貴方がどれほど恐怖を振りまき、太陽を奪おうとしても。
私のキッチンが、この世界で一番熱い火を灯し続けて差し上げますわ!
「……ルイ様。明日は、もっと忙しくなりますわよ。おもてなしの準備をいたしましょう」
夜明け前の、一番深い闇。
けれど、カフェ・ヴァレンタインの灯火は、今、かつてないほど気高く燃え上がっていた。




