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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第4章

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第6話 白銀の警鐘、歪んだ森の涙

 魔獣たちを退けた後の森は、不気味なほどに凪いでいた。


 初夏の強い陽光が梢を透かし、本来なら黄金の雨のように地面を照らすはずの光。

 だが、今の私には、その光さえもジョエルが手繰る「見えない糸」を際立たせるための、冷たい照明のように感じられた。


「……お嬢様。残っているのは、こちらの『星降りトマト』が数個と、奥に眠っていた僅かな穀物のみですわ」


 クラリスが、泥のついたエプロンを払いながら報告する。

 彼女の白緑の瞳には、いつになく鋭い警戒の色が宿っていた。


「構いませんわ、クラリス。あるものだけで、最高のおもてなしをいたしますの……それより、騎士団の皆様に怪我をした方はいらっしゃらなくて?」


「はっ。アビーが守ってくれましたゆえ、大事には至っておりません。ですが、森の気配そのものが、以前とは……」


 彼が言葉を切ったその時。

 歪んだ静寂を切り裂くように、風に乗って不思議な調べが聞こえてきた。

 鈴を転がすような、けれど、どこか胸を締め付けるほどに寂しげな歌声。

 

 私は手にしていたジョウロを置き、吸い寄せられるように庭の柵へと歩み寄った。

 朝靄の向こう側。

 そこには、月光を編み込んだような白銀の髪を揺らし、深い翠色の瞳でこのカフェを見つめる女性が立っていた。


「……セレスティア!」


 かつて、この庭の苗木を通じて心を通わせたエルフの再訪。

 けれど、以前のように「命の息吹に驚く」彼女の姿はそこになかった。

 セレスティアは、苦悶に満ちた表情で、震える森の木々にそっと手を触れていた。


「アリシア……森が泣いているわ……いえ、泣くことさえ許されず、無理やり心を塗り潰されている……人間の不作法な指先が、この森の誇りを泥で汚そうとしているの」


 彼女の透き通るような白い肌が、怒りと悲しみで微かに震えていた。

 

「森の歪みに気づいて、居ても立ってもいられず来たけれど……このカフェの周囲だけが、まだ正気を保っている。貴女が灯した火が、かろうじて闇を押し返しているわね」


 ◇


 私は、彼女をテラス席へと案内した。

 食材はもう、ほとんどない。

 けれど、森の異変を誰よりも深く傷つきながら届けてくれた彼女を、そのまま帰すわけにはいかなかった。

 私は、残された最後の『星降りトマト』を、自身の体温さえも伝わらぬよう冷徹に、けれど慈しむようにスライスした。

 ハーブも、オイルも、もう僅かだ。

 私は、土の記憶を呼び覚ますような岩塩だけを添えて、彼女の前に差し出した。


「どうぞ……今の不作法な森の中で、唯一、正気を保っている命ですわ」


 セレスティアは、細い指先でフォークを手に取り、一口運んだ。

 トマトの皮が弾け、その果汁が彼女の喉を通った瞬間、彼女は静かに瞳を閉じた。


「……なんてこと……周りの木々は悲鳴を上げているのに、この子からは、確かな愛着の味がする。雑味のない、森の涙そのものだわ……アリシア、貴女はまだ、絶望に筆を置いてはいないのね」


「ええ。お客様がいらっしゃる限り、私は店主ですもの」


 私の言葉に、彼女は微かに微笑んだ。

 だが、その微笑みはすぐに消え、彼女の翠の瞳は店の奥――そこから歩み寄ってきたルイ様を射抜いた。

 セレスティアは静かに、けれど有無を言わせぬ所作で深々と一礼した。

 

「……やはり、貴方がここに。高貴なる『太陽の末裔』。貴方がその光を宿している限り、あのお方は決して手を緩めないでしょうね」


 ルイ様は困ったように眉を下げ、いつもの穏やかな声を響かせた。


「……おや。私の髪を見て、また古い伝承を思い出させてしまったかな……私はただの、この店の料理に魅了された客だよ」


「……誤魔化しは不要です……私には聞こえる。貴方の紋章が、あのお方の『手繰り寄せ』に抗って、軋んだ音を上げているのが」


 セレスティアはルイ様の右手をじっと見据えた。

 そこにある紋章は、今や黄金の輝きを失い、ジョエルの冷徹な魔力を吸い込んで黒ずんでいる。


「あのお方は、貴方を求めているのではない……貴方の宿す『太陽』を奪い、世界を永劫の夜に塗り潰そうとしている……森を狂わせ、動物たちを刺客に変えたのは、そのための前触れ。夜明けを殺すための、遊戯なのよ」


 永劫の夜。

 その言葉に、テラスを吹き抜ける初夏の風が一気に冷え込んだ気がした。


 ジョエル。

 あのお方は、王位という小さな椅子に興味があるのではない。

 世界そのものの灯火を奪い、自分だけのことわりで世界を支配しようとしているのだ。


「……だから、太陽を絶やさないように……アリシア、このカフェが灯火である限り、森の正気は繋ぎ止められるわ。ここが落ちれば、すべてが夜に飲まれる」


 セレスティアは立ち上がり、白銀の髪を揺らして私を見つめた。

 彼女は、ルイ様の事情をすべて知った上で、ここに「正気のくさび」を打ちに来たのだ。


「……ごちそうさま……貴女の料理に、森は救われたわ。でも気をつけて……恐怖による選別は、始まったばかりよ」


 彼女は一陣の風とともに、森の奥へと消えていった。


 ◇


 彼女が去った後のテラスで、ルイ様は自らの右手をぎゅっと握りしめていた。


「……アリシア。彼女の言う通りだ。私の存在が、この森を夜に変えようとしている」


「ルイ様……不作法なことを仰らないでくださいな」


 私は、空になったトマトの皿を手に、ルイ様の目を真っ直ぐに見返した。

 マリンブルーの瞳に宿るのは、恐怖ではない。

 

「食材がないのなら、工夫すればよろしい。お客様が来られないのなら、このカフェを灯台にすればいい。セレスティアが来てくださった。それは、この道を拓いてでも来る『不作法なお客様』が、これから増えるという予兆ですわ」


 私は再びエプロンの紐を強く締め直し、完璧な店主の微笑みを浮かべた。

 ジョエル。

 貴方がどれほど恐怖を振りまき、太陽を奪おうとしても。

 私のキッチンが、この世界で一番熱い火を灯し続けて差し上げますわ!


「……ルイ様。明日は、もっと忙しくなりますわよ。おもてなしの準備をいたしましょう」


 夜明け前の、一番深い闇。

 けれど、カフェ・ヴァレンタインの灯火は、今、かつてないほど気高く燃え上がっていた。

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