第9話 指先についたベリーの赤と、ときめきが止まらない裏庭
「アリシア、君が赤くなると、ついからかいたくなってしまうな」
ルイ様はそう言って、さらに一歩、私のパーソナルスペースへと踏み込んできた。
先ほど指先が触れた唇の端が、まだ熱い。逃げようにも、背後にはキッチンの作業台があり、私は文字通り袋のネズミならぬ「袋の令嬢」状態だ。
「……ル、ルイ様。からかうなんて、悪趣味ですわ」
精一杯の虚勢を張って彼を見上げるが、至近距離で見るエメラルドの瞳は、吸い込まれそうなほど深い。
彼は私の耳元に顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で、楽しそうに喉を鳴らした。
「すまない。だが、これほど表情をくるくると変える君を見ていると、私の知らない君を、もっと引き出したくなってしまうんだ」
(……だ、誰か! 誰かこの人を止めて! 心臓が! 私のヴァレンタイン家仕込みの心臓が保ちませんわ!!)
私は、爆発しそうな羞旨心と高揚感で頭が真っ白になり、裏返りそうな声をなんとか押し殺して「……検品……裏庭の野菜の、検品をしてきますわっ!」とだけ叫んだ。
そして、ルイ様の脇を弾かれたようにすり抜けて誰もいない裏庭へと転がるように脱出する。
背後でルイ様の鈴を鳴らすような笑い声と、作業台の向こうで淡々と茶葉を計量していたクラリスの「おや、お嬢様の沸点に達しましたね。お茶を淹れるには丁度よろしい温度ですわ」という冷ややかな声が聞こえた気がしたが、今の私にはどうでもよかった。
◇
裏庭の生垣の影。
そこは、手付かずの自然と私が手入れをしたハーブガーデンが交差する、私の「解放区」だ。
誰の目も届かない、森の静寂だけが味方であることを確認した瞬間――私は淑女の仮面をかなぐり捨てた。
「きゃーっ! あの至近距離! あのお声! あり得ませんわ、あんなの心臓への暴行罪ですわ!!」
私はドレスの裾を思い切り掴んで、淑女の所作など微塵も感じさせない勢いで、何度も、何度も、その場で小さく、けれど激しく跳ねた。
だが、その至福の狂喜乱舞は、不意に届いた「声」によって凍りついた。
「……アリシア。そんなに喜んでもらえるとは、光栄だ」
「ひっ!!?」
心臓が口から飛び出すかと思った。
恐る恐る振り返ると、そこにはキッチンの裏口の柱に優雅に寄りかかり、腕を組んでこちらを眺めるルイ様の姿があった。
その表情には、見たこともないような悪戯っぽさと、深い慈しみが混ざり合っている。
「っ……あ……え、ええと……あ、あの、これは、その……! 今のは、その、儀式ですわ! 我が家に伝わる、大地の精霊に感謝を捧げる、その……!」
人生最大の失態。
完璧な所作で場を去ったはずが、その直後に野生動物のように跳ね回っているところを、よりによって彼に見られてしまった。
羞恥心で顔から火が出るどころか、全身が発火しそうになる。
「……驚いたな。君は本当に、私の想像を軽々と超えていく」
ルイ様はゆっくりと私に歩み寄り、立ち尽くす私の隣に並んだ。
「その……今の、ご覧になったのですか?」
「ああ。とても、可愛らしかったよ。君の喜びが体中から溢れているようで、私まで幸せな気分になった。私に見られるのは、嫌だったかい?」
真っ直ぐに私を見つめるその瞳には、侮蔑も困惑も、あるいは令嬢としての欠格を責めるような色は微塵もなかった。
ただ、ありのままの私を――隠しきれない本性を、宝物でも見るかのように丸ごと受け入れてくれている。
「……いいえ。恥ずかしいですけれど、ルイ様になら……もう、いいですわ。嘘をつくのは、おしまいにします」
私は小さく息を吐き、少しだけ照れながら、けれど清々しい気持ちで彼に微笑み返した。
彼は満足そうに頷くと、私の視線の先にある茂みに目を留めた。
「ところで、これは何だい? 鮮やかな色をしているけれど」
「それは、ワイルドベリーですわ。ちょうど食べ頃なんです。他にも、お店で使うためのハーブをいくつか育てているの。ルイ様、よろしければ一緒に収穫を手伝っていただけませんか?」
「喜んで。君と一緒なら、どんな作業も楽しそうだ」
私たちは並んで腰を下ろし、茂みの中に隠れた小さな赤い実を摘み取り始めた。
ルイ様の大きな手が、繊細なベリーを傷つけないよう丁寧に扱う。
時折、同じ実を狙って指先が触れ合うたびに、先ほどの小躍りとは違う、もっと静かで深い温かさが胸を満たしていく。
「見てください、ルイ様。こちらはミントですわ。摘みたての香りは格別でしょう?」
「本当だ……鼻を抜けるような、清涼な香りだね。アリシア、君の指先……ベリーの果汁で赤くなっているよ」
「まあ、本当。ルイ様も、鼻の先に葉っぱがついていてよ?」
お互いの姿を見て、私たちは顔を見合わせて笑った。
元公爵令嬢でも、高貴な殿方でもなく、ただの「アリシア」と「ルイ」として過ごす、穏やかで満たされた時間。
(ああ……これですわ。これこそが、私の求めていた『自由』ですわ……!)
泥にまみれ、笑い合い、収穫したてのベリーをその場で一粒口に放り込む。
ベリーの弾けるような甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、鼻から抜けるミントの香りが心を洗う。
もしお父様やお母様が、私が貴族の嗜みである刺繍やピアノを放り出して、殿方と泥にまみれてハーブを摘んでいる今の光景を見たならば。
間違いなく「令嬢が、農家の娘のように土にまみれるなど……!」と叫びながら、その場で卒倒することだろう。




