プロローグ
名家の令嬢として生まれた私、アリシア・ヴァレンタインは、幼い頃から常に求められるすべてに応えながら育つ日々だった。
朝は決まった時間に目覚め、日の光が差し込む窓辺で、母に用意された礼装に身を包む。
銀色に輝く髪は母に整えられ、青い瞳はまだ子どもらしい輝きを残しているが、背筋を伸ばすと母の視線が背中を正す。
小さなつまずきや指先の乱れも、決して見逃されることはなかった。
「アリシア、足の角度がまた曲がっているわ」
母の声は冷たく、完璧を求める日々を容赦なく突きつける。
礼儀作法の練習では、カップやナイフの持ち方ひとつで叱責され、音楽室ではピアノの鍵盤を打つ指の角度まで指導される。
舞踏の練習場では、足の位置、手の動き、表情のひとつひとつまで厳しくチェックされる。私の意思など、そこにはほとんど居場所がなかった。
そんな息が詰まる日々の中、ほんのわずかな解放感をもたらしてくれるのは、メイドのクラリスと一緒にお菓子を作る時間だけだった。
クラリスは背が高く、柔らかい栗色の髪を一つにまとめ、表情をほとんど変えず、常に冷静に周囲を見据えていた。
「アリシアお嬢様、粉はもっとこう……ふんわりと混ぜてくださいね」
手にまとわりつく小麦粉、バターの甘い香り、オーブンから漂う焼きたての香り。
出来上がったクッキーをひとつ口に運ぶと、心がふわりとほどける。
「うん、今日のは上手にできましたわ!」
私もつい笑顔になる。その瞬間だけは、私が私でいられる。
世間の規則や父の命令も、母の厳格な指導も、すべて遠くへ飛んでいくようだ。
しかし、現実はすぐに私を取り戻す。
次の舞踏の練習、次の音楽の課題、次の作法の指導――逃げ場のない日々が、また静かに押し寄せる。
鏡に映る自分の姿は、優雅に整ったドレスと銀の髪、澄んだ瞳を持ちながらも、どこかぎこちない表情をしていた。
◇
その日の午後、母の用事に付き添いながら書斎に呼ばれた。
父の鋭い視線が、書斎の重厚な椅子に座る私を射抜く。
「アリシア、よく聞け」
父の声は低く、城の広間に響き渡る。胸がきゅっと締めつけられるような緊張感。
「お前は、エルデニア王国の第二王子、ライオネル殿下との婚約を受け入れるのだ」
……はい? 思わず目を見開く。
心の中で「いやいやいやいや」と何度もつぶやきながら、口元は硬直する。
「ちょ、ちょっと待ってください、お父様……! 私、王子様とまだお会いしたこともございませんのに……」
言いかけて、はっと思い直す。
令嬢としては、ここで口ごたえするのは無礼だ。
が、心のどこかで小さな反抗心がくすぐられるのも確かだった。
「わかりましたわ、お父様……」
思わずそう口にする。声は小さく、わずかに震えている。
表面上は従順を装ってみせるが、心の中では小さく舌打ちをしながら、いやいやながらも受け入れる自分に気づく。
――こんな結婚、絶対にごめんだわ。
◇
その後、数日が静かに過ぎた。
私はというと、自由を求める気持ちがぐんと膨らみ、世間体や家の期待なんてものは、一瞬でかき消された。
日が経つごとに、王子との結婚に対する拒否感が胸の奥で渦巻く――けれど、表面上は笑顔を作って過ごすしかない。
そんなある日の午後、父の指導に付き添わされ書斎で礼儀作法の確認を受けていた。
緊張で背筋を伸ばし、声のトーンや所作の一つひとつを父に注意されるたびに、心臓が小さく跳ねる。
「もっと優雅に、腕の角度も正確に――」
父の厳しい視線が容赦なく私を射抜く。
頬にかすかに汗が滲むのを感じながら、深呼吸をして気を落ち着けるしかなかった。
そのとき、書斎の重厚な扉が静かに開き、一人の執事が慌ただしく駆け込んできた。
父は眉をひそめ、私の手を取りながら稽古の手を止める。
「旦那様、失礼いたします――!」
慌てた声と共に執事が口早に告げる。
「ライオネル殿下が……婚約を解消されるそうです……!」
知らせの重さに、部屋の空気が凍る。
父の眉がぴくりと動き、椅子に座ったまま硬直する。
私は思わず息をのみ、目をぱちぱちと瞬かせた。
「な、何……だと……?」
父の声は低く、震えながらも威厳を失わない。
その目が私にちらりと向けられ、鋭さを増す。
私の心臓は小さく跳ね、胸の奥がざわついた。
「理由を聞けば――」
執事が言葉を続ける。
「昨日、ライオネル殿下が街でお会いになった女性をお気に召されたそうです。その方と結婚されるとのことです」
……えっ。どういうこと?
頭の中で言葉がもつれる。
喜ぶべきなのか、戸惑うべきなのか……でも、心の奥で小さくガッツポーズを決める私はもう誰にも止められなかった。
好きでもない王子との結婚が消えた――それだけで、世界がちょっと明るく見えたのだ。
しかし、外の顔は平静を装うしかない。眉ひとつ動かさず、声も抑えて「そう……ですか」とだけ返す。
「アリシア! 王子殿下を繋ぎ止められぬとは、我が家に泥を塗るも同然だ! もはやお前にかける情けはない、今すぐこの家から出て行け!」
「……っ。左様で、ございますか……」
私は深々と頭を下げた。
震える肩を抑えるのに必死だった。
(危ない……! 嬉しすぎて口角が上がっちゃう……! 笑っちゃダメよアリシア、ここは悲劇のヒロインを演じるのよ……!)
「わかりました。お父様、お母様……これまで、ありがとうございました」
私は、まるで絶望に打ちひしがれたかのような完璧な所作で、その場を後にした。
廊下に出た瞬間。
私はドレスの裾を掴んで、誰もいない裏庭まで全力で駆け抜けた。
「やったーーー! 自由ですわーーー!!」
こうして、私は婚約破棄という思わぬ幸運とともに、家を追放されることになった。
(自由になったら、何をしようかしら……そうだ!)
胸の奥で小さな期待がふくらむ。
久しぶりに、自分の意思で何かを決められる喜びに、心が軽く跳ねた。




