窮鼠猫を噛む(3)
『浅海蒼輔。お前の魂を再び、僕が守ってやろう。記憶を保持したまま、お前自身が壊れないよう支えてやる。その代わり、お前が魂を取り戻す旅で、真偽にしてやったような僕の手助けは一切与えない。全てを自分の力で取り戻せ。できなければ――真偽とお前の魂を、両方もらう』
「お前の、力なしで……俺が、俺を全て、取り戻せたら?」
『そんなことは無理だよ』
すっぱりと言い切る。無名の表情は抜け落ち、さえざえとした、冷徹な神としての表情がそこにはあった。分不相応な人間を虫けらのように見下ろす、絶対的な存在の瞳だ。
嘲笑じみた薄ら笑いが、その口元に浮かぶ。
『無理だ。できるわけがない。そんなことができたなら、お前たちを見逃してやってもいい』
「言ったな、神様」
先ほどよりも随分としっかりした声が響く。いつの間にか、彼の顔まで広がっていた黒い亀裂が収まっていき、呼吸が穏やかなものに変わっていた。
「そういうの、人間の間では、フラグって言うんだよ」
神の手を握り返して、浅海蒼輔が不遜に笑う。無名があからさまに嫌そうに顔をしかめた。
『嫌な顔だな……笑わないでくれる?』
「なんだそれ、無理に決まってるだろ……お前、神様って割にはだいぶ面倒な性格してるよな。ガキだって言われないか?」
『何をどうしたらそんなに不敬な物言いができるのかな。腕の一本くらい、契約締結の対価としてもらったっていいんだよ?』
不快感もあらわに、ぱちりと指を鳴らす。
すると空中に、一枚の羊皮紙が浮かび上がった。
それは、真偽と無名が契約を交わしたときのものだった。もう一度無名が指を鳴らすと、羊皮紙の中の文字が独りでに動き回って、新たな文字列を作っていく。
犬神真偽の名は浅海蒼輔に変わり、契約内容もわずかに変更が加えられる。
『はい、これにサインして。そうしたら契約完了だから』
「なんかすごい、あっさりしてるな……これ、俺の命を繋ぐための契約なんだよな?」
しきりに首をひねりつつ、蒼輔が契約書を受け取る。じっくりとその内容を読みこんで、眉をひそめた。
「なあ、これ期限設けてないか? なんかひっそりここに『三年後までに魂を取り戻せなかった場合』とか書いてあるだろ。短すぎる。お前の手助けがないんだから、せめて十年くれ」
『はあ〜? 君さあ、図々しいにもほどがないかい?』
「人間の十年なんてお前にとっては一瞬だろ。気前よく行けよ、神なんだから」
『嘘だろ、信じられない……』
頭を抱える無名をよそに、すっかり血の気が戻りつつある蒼輔は再び苦言を呈する。
「それにここ、もし契約不履行になったとして、俺の魂と真偽の魂を好きにするってあるが、俺のはともかく真偽のは丁重に扱うってことにしてくれ。ていうかせめて使い道を示してくれ。好きにするじゃ幅広すぎる」
『君、なんなの? 自分の立場わかってる?』
「分かっている。お前と契約したんだから、立場としてはお前と同等だ」
無名はあんぐりと顎を落とした。
『君、馬鹿?』
「何がだ。人間世界では、契約条件を擦り合わせるのなんか普通だろ。相手の言いなりだったらそりゃもう契約じゃない」
『真偽は素直だったのに……』
「契約書の内容を詰めないのは素直とかじゃなくてただの考えなしだ」
あまりにもナチュラルに自分へ飛び火して、真偽は咄嗟にのけぞった。
「か、考えなしはないじゃないですか……!」
「じゃあ馬鹿だ。自分の望みを叶えたいからって、適当に契約なんか結ぶな。契約書は隅々まで読め。お前の交わした契約、相当おかしかったぞ。俺の魂を取り戻すための対価に自分の魂を差し出したんだろ」
「だ、だってそれは……魂の対価なんだから、魂じゃないと……」
「その理論自体はまあ分かる。けど、お前が俺の魂を取り戻せても取り戻せなくても、この神様に魂を捧げる予定だったんだろ。そりゃもう対価じゃない、担保だ」
ようやく彼の言っている「相当おかしい」の意味が分かってきて、真偽はこてんと首を傾げた。
「あれ?」
「お前なあ……夢の中で言っただろ。この神様は元々、真偽の魂を手に入れることしか考えてなかったんだよ。そもそもおかしいだろ。神様に俺を助けてもらうって契約のはずなのに、なんで俺を助けるための魂集めを真偽がやってるんだ。なんで集めきれなくてもお前の魂を差し出すことになってるんだ」
真偽は言い返せずに目をしぱぱぱぱ! と高速で瞬かせた。
「た……確かに!」
「真偽、負けないでくれ』
「元凶が被害者に助けを求めるな」
契約書に目を落としながら淡々と蒼輔が言う。真偽はそのときようやく「この人、勝手に私が無名と契約したこと、ものすごく怒ってるんじゃないかな?」と気づいた。
その後も、彼は冷酷に契約の粗を突っついては条件を整理していった。えげつない手際の良さである。
『なんなの、君……普通さあ、自分の命が繋がるかどうかの瀬戸際で契約内容を詰めることある? 僕が全部嫌になって、君の魂、ひねり潰してたらどうするつもり?』
「その場合は真偽が死ぬだろ」
あっさりと言い「そうだよな?」と真偽に確認を取ってくる。夕飯はデリバリーでいいよな? とでも聞くかのように軽やかだ。
「あ、はい、その場合は死にます」
こちらも「チキンがいいですね」とでも言うかのように返した。互いに互いの死を一度覚悟したが故の、異常者同士の会話である。
無名はたちまち閉口し、付き合いきれないとばかりに肩を落とす。
『もういいよ……なんか、真剣に言ってるほうが馬鹿を見るでしょ、これ』
最終的に無名はいくつかの条件を変更し、蒼輔との契約を整理した。
一つ、浅海蒼輔は無名の手助けなしに、残った自分の魂の欠片を三つ全て取り戻すこと。
一つ、全ての魂の欠片を取り戻せたら、無名は浅海蒼輔を五体満足で解放すること。
一つ、期限内に魂を取り戻せなかった場合、あるいは浅海蒼輔自身が、己の生命維持が困難なほど肉体に損傷を負った場合――つまり肉体的に死んだ場合――契約不履行となる。
一つ、契約不履行となった場合、浅海蒼輔および浅海真偽の魂は、全て無名のものとなる。なお、二つの魂は無名の元で厳重に保管され、かつ二人の意識は永久に消えるものとし、肉体的な死と同じ状態になる。
一つ、魂を取り戻す期限は本日から数えて五年以内とする。
上記全てを踏まえた上で、無名は浅海蒼輔の手助けをせず、かつ故意に邪魔立てもしないものとする。
蒼輔はそれらの文章を一度読み上げると、満足気に頷く。無名がいつの間にか差し出したペンを手に取り、躊躇いもなく羊皮紙にサインをほどこした。
「まあ、こんなもんだろう。ほどよく対等で、ちょうどいい契約になったんじゃないか?」
『君、本当に、契約者じゃなかったら五回くらい殺してるからね』
「なるほど、契約者で良かったよ」
飄々と答えた彼の手から羊皮紙を受け取り、無名はそれをぽいと放り投げる。くるくると独りでに丸められた羊皮紙は、やがて宙の隙間に吸い込まれるかのように消えた。
それを見届け、蒼輔は自身の手をぐっぱぐっぱと握る。
「……うん、元通りだな」
『当たり前だろう。誰が命を繋いでやってると思っているんだい』
鼻を鳴らした無名と、満足そうに自身の体を動かす蒼輔を交互に見つめて、真偽はぽつんと問いかけた。
「……先輩、生きてる?」
浅海蒼輔の動きがぴたりと止まった。彼は首をひねるようにして後ろの真偽を見ると、体をぐるりと反転させ、彼女と向かい合う形で座りこんだ。
「ほら」
差し出された手を、真偽はおそるおそる掴んだ。
温かさを感じる間もなく、ぐいと手を強く引かれた。倒れる、と思った彼女の手が、何か硬いものに当たって止まる。
それは蒼輔の胸元だった。硬い胸板に支えられ、真偽の体は倒れることなく止まる。
彼は言った。
「分かるか?」
何が、と聞こうとして、真偽は動きを止める。どく、と、手のひらから伝わる振動に息が詰まった。
「お前も生きてるし、俺も生きてる」
呆然として、真偽はぽつんと問いかけた。
「勝っ……た?」
「そう。勝った。終わってはいないけどな」
そうだ。これで万事解決ではない。彼の魂はまだ歪なままで、相変わらず此岸と彼岸の境で揺れている。
それでも、今このとき、彼が無事であることは事実だった。
「ほら、立て。真偽」
手を引かれ、よろよろと立ち上がる。一度手を離され、どうだ? と蒼輔が手を広げた。その胸から黒い光がこぼれることはなく、代わりに、彼の瞳には意志の炎が灯っている。
立って、歩いて、動いて、喋っている。彼は記憶を取り戻したのに、魂は砕けず、仮初の命を得て生き延びていた。
蒼輔と真偽は、賭けに勝ったのだ。
「……っ!」
「うぉわっ!?」
真偽は咄嗟に、その胸に追突する形で抱きついた。一瞬、バランスを崩しかけた蒼輔はしかし、流石の体幹で彼女を支える。
おい、と文句を言いかけた口が、お、の形のまま固まった。
「う、ゔぅ、ゔゔ〜〜〜〜〜……」
「え? ちょ……」
真偽は泣いていた。ぼろぼろと零れた涙をそのままに、温かな体にしがみつく。
強めに肩を揺すられても、彼女は決して彼を離さなかった。シャツがしっとりと濡れていき、獣じみた泣き声が部屋に響く。
「おい、真偽、お前泣いて……」
「ゔっ、ぅゔ、ゔ〜〜〜……」
「ちょ、待、い……いや、力強……おい……」
数秒の格闘の後、蒼輔は青ざめた顔で黙りこんだ。急に泣かれたことへの異常な焦りがぐるぐると脳内を駆け巡っているのが、誰の目にも明らかだ。分かりやすい。
大混乱のすえ、最終的に絞り出すように告げる。
「このシャツ、借り物なんだが……」
違う、そうじゃない、とその場の全員が思った。
「ゔゔ〜〜〜〜〜!!」
「ああもう、分かった分かった。俺が悪かったから……!」
ジャケットは濡らさないでくれ……という弱々しい声に、真偽はわずかに頷く。頷きはしたが、真偽は普通にスーツ一式を自分の権限で買い取るつもりだったので、気にせずシャツを濡らし続けた。
今だけは、脳内の父親も怒りはせず、じっと真偽を見守っていた。
だからそのまま泣き続ける。
凍えるような吹雪の中を、たった一人で歩く旅だった。誰にも渡せない重荷を背負いながら、かじかむ手足を叱咤して、暗く、長い、極夜の地獄を歩く日々だった。
旅はまだ終わっていない。相変わらずここは寒いし、足元からは怨嗟の声が聞こえる。罪は消えないし、ゴールは見えないし、いつか道半ばで、誰かに断罪される日が来るのかもしれない。
けれど、一人ではなくなった。
凍える真偽の手を握って、荷物を半分背負って、隣を歩いてくれる人がいる。俯いて、炎の涙を落とす真偽の手を、問答無用で引いてくれる人がいる。全ては真偽のせいなのに、真偽を罵る権利があるというのに、何故か、導くように手を引いて、彼は生きろと真偽に言う。
だから、真偽は、まだ歩ける。
蒼輔が手を握っていてくれるから、まだ、この地獄を、贖罪の旅路を、続けていられるのだ。




