窮鼠猫を噛む(2)
そんなことがあったものだから、真偽の心はすっかり凪いでしまっていた。いや、怖いは怖いのだが、その怖がっている自分すらも、どこか上から俯瞰しているような感覚なのだ。
『お前たち……』
呆然とした表情の無名が、次第にその顔に憤怒の表情を滲ませた。
『僕を騙したな、真偽』
「最初に騙したのは、無名のほうだよ」
反論されると思わなかったのか、彼はぱちくりと瞬いた。妙に子供じみた仕草だ。
実は、かみさまは皆子供なのではないかと、真偽は思った。
「死んだ先輩の前で助けてって言ったときも、先輩の体だけを治すこともできたよね? でも、私を犬神様に襲わせるために、時間を巻き戻したんだよね? そうして、私を守るためって言って、蒼輔さんが記憶を思い出すように仕向けたんだよね? 私の魂を刺さなければ、多分、ギリギリ、蒼輔さんは記憶を思い出さなかったはずだよ」
驚きのほうが勝ったのか、彼は何も言えないでいる。
真偽は冷静に畳み掛けた。
「私のことはいいよ。私、どうあっても死ぬつもりだったから。蒼輔さんが生きても死んでも、私の魂は無名にあげるつもりだった。そういう契約だったでしょ?」
『真偽、お前……』
「でも、無名は嘘をついたね。私との契約を守る気なんて最初からなかったんだ」
強く、強く無名を睨む。
「じゃあ私も守らない。私の命はあげない。契約は壊した。私はもう蒼輔さんのお嫁さんなんだって、私はそう『思った』。だからもう、私は犬神真偽じゃないよ。あなたと契約を交わした私は存在しない」
『馬鹿なことを……』
少しだけ顔を歪めて、焦りを誤魔化すように無名が言う。
『いいのかい、そんなことをして……君との契約がなかったことになったとしても、浅海蒼輔の崩壊は止まらない! 結局、僕が君と契約を交わす前に戻るだけだ。浅海蒼輔は死んでいる状態に戻る。それに君は耐えられるのかな? そもそも、これから死にゆく人間と結婚なんてできないよ。姓を変えることすら……』
「ああ、それはできる」
既に口元までひび割れが進んでいながら、蒼輔が平然と答えた。
「知ってるか、神様。人間は死ぬと、死亡届――いわゆる死亡診断書だの死亡検案書だのが出されてから、戸籍がなくなる。その状態だと確かに結婚はできなくなる……が、そんなもの、死亡届を出す前に婚姻届を出せばいいだけの話だ」
『は……?』
「ここは犬神総本家だぞ。人死にが出たなんて話になってみろ。絶対にスキャンダルになる。そんなこと、この家の人間が許すと思うか? 病院での死亡診断書すら、いつ出してもらえるか謎だろ」
に、と彼は笑った。
「その間に婚姻届を出せばいい。簡単な話だ」
『……』
「どうする、神様? 先に、真偽の魂を、取り出すか?」
彼の前で、苦虫を噛み潰したような顔で閉口している無名を見て、蒼輔はせせら笑う。
「できないはずだ、お前には。神っていうのは、少なくとも、なんでもできる……って、わけじゃない。お前は、時を、戻したり、人を、生き返らせたり、万能に見えるけど、そこには必ず、制約が存在する、はずなんだ。……ここからは、推測だが……お前の制約は『契約上でしか、力を発揮できない』って、ものなん、じゃないか?」
ぜいぜいと息を荒くしながら、浅海蒼輔は言った。
「契約が破棄、された今……お前は、真偽に、手を、出せない」
無言で、しかしすさまじい形相で蒼輔を睨みつける無名を見て、蒼輔はからりと笑った。
「まあ、でも、婚姻届を出す邪魔、くらいは、できるかもな。それは別に、人間だって、できるし……真偽の、魂は奪え、なくても……力を使って、ねじ伏せ、たりは、できる……」
「そんなことするなら、私は死にます」
真偽はひたり、と自分の首筋にナイフを当てる。無名からもらった、異形すらも傷つける刃だ。もう契約は切れたので効力を失っているかもしれないが、ナイフとして使うことはできる。
唖然とする無名を見て、確信する。彼が真偽を気に入っていたのは、きっと本当なのだ。
神の愛は人の手には余る――というのもまた、有名な話である。それがどれだけ歪でも、無名が真偽を愛していることは事実だった。でなければ、確実に真偽の魂を手に入れられるような契約を結ぶことなどなかったはずだ。
だから、真偽は自分の命を武器にする。
「私、先輩が死んだら、もう誰にも心を明け渡したりしないし……邪魔をするなら、ここで死ぬよ」
『真偽、やめるんだ』
「本気だよ、私。無名が無理やり私の魂を取り出そうとするなら、その場で死んでやるから」
ぐ、と食い込ませた首の皮が一枚、儚くも切れた。赤い血が一筋、首を伝う。
『やめろ、真偽!』
「嫌だよ。どうせ、先輩が死ぬなら、私なんてどうなったっていいんだし」
あっさりと命に見切りをつけられ、無名が焦ったように言う。
『君の魂に、僕がどれだけ前から目をつけていたと思ってる……! 君がまだ生まれる前から、今日までずっと、ずっと、大切に育ててきたのに……!』
「じゃあずっと、蒼輔さんの命を人質に取っていれば良かったのに。なんで放り投げちゃったの?」
澄みきった氷にも似た声で、彼女は神を断罪した。
「私、なんで無名がそんなに焦ってるのか分かるよ。多分、魂って、死んだら意味がなくなっちゃうんだよね。保存したがってたってことは、死んだら劣化するんじゃないかな? 違う?」
彼は何も言わない。この場合の無言が肯定であることは、誰の目にも明らかだった。
「やっぱりそうなんだ。じゃあやっぱり、邪魔されちゃう前に死ぬのがいいよね。だってどうせ、蒼輔さんは死ぬんでしょう?」
仄暗い瞳の奥で、怨嗟の業火が燃えている。彼女の論理はよくよく考えるとおかしいのだが、それを判断できるような状態に、無名はなかった。
彼は真偽を愛しているが、それは決して対等な存在への愛ではなかった。愛玩物としての愛情だ。だからこそ、愛玩物に牙をむかれて、自分のステージである「契約」という武器も壊されて、ついでに可愛がっていた愛玩物が今から死のうとしているということに、ひどく混乱しているのだろう。
真偽には彼の気持ちが手に取るように分かった。冷静になってみれば簡単だった。彼は最初から最後まで、真偽の魂を保存することしか考えていなかったのだ。
彼は真偽の魂だけが大事だった。真偽の心は大切じゃなかった。
それだけの話なのだ。
『やめろ、真偽……お願いだから……』
「嫌だよ。言ったよね、私、先輩が生きてくれるなら、先輩を助けてくれるなら、なんでもするって」
嘘ではない。真偽にとって大切なのは、今も昔も、浅海蒼輔が五体満足でいることだ。
だから。
「だから、先輩が助からないなら、全部、意味がないんだよ」
愕然とした無名が、動きを止める。瞬間、がらがらの声で蒼輔が笑った。
「は、はは、はははは! お前、そんな啖呵、も、切れる、のかよ……」
「本気ですからね、私」
「分かって、るよ……神の前で、お前が、嘘、つけるわけ、ないし……だから、俺も、交渉でき、る」
蒼輔はゆらりと手を伸ばした。もう、その指先までもが、黒いヒビで覆われている。
「なあ、神様……そもそも、間違ってん、だよ、相手が……」
『……?』
「俺の命、助ける、のに……なんで、真偽と、契約する必要、が?」
今にもばらばらになりそうな体で、懸命に指を伸ばして、彼は無名に手のひらを向けた。まるで、ダンスを誘うように。
「俺と、契約すれば、済むだろ……」
天啓が差し出されたことに、無名だけがまだ気づいていない。
「なあ、こいつ、本気だぞ……俺が、死んだ、ら、自分も、死ぬ、らしい……俺は、まだ、死にたく、は、ないけど、な……」
がざがざとひび割れた声を響かせて、蒼輔は唇を歪めた。
「さあ、どう、する?」
『お前……』
無名の顔色が少し、別の種類のものに変わった。驚きの中にほんの少し混じった、恐れのような何か。
弱く儚い虫が、叩き潰せると思っていた命が、急に自分のほうへ飛んできたような顔をしている。
は、と無名は乾いた笑いを零した。唇の端が引きつっている。
『僕を……脅す気かい?』
「はは、人聞き、悪い……利害の、一致だ、ろ」
邪悪な微笑みと共に、蒼輔が目を細める。死にたくないなどと言いながら、死ぬ気なんてさらさらない顔をしている。死が背後から這い寄ってくるのを感じているだろうに、全く気にしていない。
でも、真偽にはその真意が分かっていた。彼が、何を無名に持ちかけているのかも。
恐ろしかった。魂の根本に染み付いた恐怖が、喉を通って頭の後ろに回り、目の奥から強く脳髄を叩いている。呼吸が浅くなりそうになるのをなんとか堪えた。
こんな気持ちなんだ、と真偽は思う。
自分の命を天秤にかけている人を見るのは、これほどに怖いことなのだと。
『真偽の魂を人質にして、僕と契約を交わす気かい、浅海蒼輔』
「そうだ、よ。悪い話、じゃない、だろ……真偽と結ん、でた、契約を……俺、との、契約に、スライド、させれば、いいだけ、だ」
あまりにも傲慢で、身の程知らずの契約を、蒼輔は無名に持ちかけた。無名は目を閉じて眉間を揉む。疲れきった声が落ちた。
『……人間っていうのは、どうしてこうも、つくづく命知らずなんだ?』
はは! と、蒼輔が笑う。真偽も呆れてかすかに笑った。そういう人間を好んでいるのは自分自身だろうに、一体何を言っているのか。
面白いからと手を伸ばすのなら、好奇心に殺される覚悟くらい、持ってもらわなくては困る。
「じゃあ、やめる、か?」
ちらりと彼が横目で真偽を見る。彼女は無言で、さらに首元へナイフを食い込ませた。
「っ……!」
今まで異形を刺してきた経験がこんなところで活きるとは思わなかったが、自分はもう、どこまで刃を差し入れれば、生き物が死ぬかをある程度知っている。
慎重に、慎重に。死なないように。自分の命を人質にできるように。
彼らにとってこれは、一世一代の大勝負だった。ともすれば二人ともあっさりと死ぬ、あまりにも分の悪い賭けだ。互いに別々の綱を渡りながら、二人で片手を繋いでいる。
それでも諦めなかった。傍から見たら分の悪い賭けでも、彼らにとっては最善だった。
相手のためなら自分を殺せる二人は、今まで真正面からの「賭け」をしたことがなかった。チップを捨てる気で賭けることを、本当の賭けとは言わない。けれど今、ようやく二人は、相手のために自分の命をベットして、勝利を狙うことを選んだのだ。
『……ああ、くそ!』
無名が「どうしてこうなった」とでも言いたげに顔を歪めて手を伸ばす。今にも落ちそうになっていた、ひび割れた蒼輔の手をすくい上げた。
それは、二人が賭けに勝った瞬間だった。




