窮鼠猫を噛む(1)
何がどうして契約が切れたのか?の答え合わせの回です
無名の呆然とした顔を見て、かみさまでも驚くことってあるんだ、と真偽はぼんやり思った。
無名に出会ってから今まで、真偽は彼を絶対の存在として扱ってきた。実際そうなのだから、別に間違ってはいない。
けれども、彼は完璧な存在ではないのだと、今日、ここで確信した。
ゆっくりと瞬きをする。先ほどまでの白昼夢を思い出す。気絶した真偽と蒼輔が、魂同士で邂逅を果たした夢のことを。
「真偽……いや、真偽さん。俺と結婚してくれませんか?」
「……はい?」
突拍子もない問いかけに目を丸くした真偽と違って、蒼輔はどこまでも真剣な顔をしていた。
「けっ、こん、って……」
「今すぐには無理だから、まあ、婚約って形にはなるけど。ああでも、目的のことを考えたら、籍だけでも先に入れとくべきか……?」
「まっ、待って、待ってください。なんで結婚……」
「え? お前の真名を変えるため」
あっけらかんと言って、彼は続けた。
「お前とあの神の契約は、魂同士で交わされたもの……つまり、なんていうか、心でそう思ったらそうなるというか、お前とあの神が『犬神真偽が契約を破った』って認識したら、どう足掻いてもペナルティが発生するんだろ」
彼の理解はどこまでも正確だった。真偽はぎこちなく頷く。
「しかも、私の名前をナナシさんは知っているから、そのぶん強い契約になってるんです。私の名前が縛られているから……」
名前が、縛られているから?
ふと違和感を覚えて、刹那、真偽は勢いよく顔を上げた。
「まさか……」
「そうだ。日本では、結婚した男女のどちらかが、片方の姓に合わせて改姓することを定められている。つまり……」
「真名が、変えられる……?」
呟いた瞬間、胸元で何かがぱちんと弾ける音が聞こえた気がした。同時に、静電気のような痛みが心臓に走る。
「っ……!」
「気づいたか、真偽」
「へ……?」
「普通なら多分、結婚したところで契約が破棄されることはない。そういう契約の切り方があるってことを、お前が認識していなければ、これは効果を発揮しないからだ」
ぱちぱち、と瞬く。彼の瞳が、朝日のように煌めくのを見た。
「お前は今、名を変えることで契約を切れる可能性があることを『知った』んだ。その概念がお前の中に生まれた。お前たちの契約だって概念のもとで編まれている。つまり?」
「今なら……結婚して、姓を変えることで、契約を破棄できる?」
「可能性はある」
力強く、彼は頷いた。
「昔からある呪術は大体そんなものだってされてるだろ。超常的な力なんてなくても、呪われたと思いこむだけで人は死ぬ。裏返せば、そういう概念があると思いこむだけで、現実を変える力が人間にはあるとされた。おそらく、お前たちの契約もその理論の延長にすぎないんだ」
真偽も思い出す。人の思い込みは馬鹿にできない。監獄にいる囚人に「焼けた鉄だ」と言ってただの棒を押し当てたら、皮膚に火傷を生じたという話すらある。
人は意識と体を繋げて生きている。吊り橋効果で人を愛してしまうように、ただの恐怖で死んでしまうように、自分の意識が体に支配されることも、体が心に支配されることもあるのだ。
「お前の名前を変える。あんな神と契約を交わした『犬神真偽』という人間はいなかった。そういうことにする」
「する、って……」
真偽は呆然と呟いた。あまりにも荒唐無稽で、ひどく稚拙な、針に糸を通すような計画だ。成功するかも分からない。
いや、そんなことは問題じゃないのだ。
本当に、本当に真偽が受け入れられないのは。
「先輩は、それでいいんですか……」
今にも潰えてしまいそうな声で、真偽は言った。
自分は一度、彼を殺したのに。
真偽の生きる意味なんて、真偽が生きる資格なんて、この世にありはしないのに。
「私と結婚しちゃうんですよ、先輩……それでいいんですか……?」
「いいよ」
即答だった。妙にくっきりとした発音が聞こえて、泣きそうになる。
「いいよ、結婚くらい」
もう一度、吐き捨てるように言って、彼は手首を強く掴んでくる。
「いいか、真偽、聞け」
どこか怒りに満ちた声だった。
「俺は今、本当に、死ぬほどお前に怒っている。お前が女だとか、後輩だとか、お前の親父さんに殴られるかもとか全部投げ捨てて、お前を一発殴りたいくらいには怒っている」
前言撤回、普通にめちゃくちゃ怒っていた。
真偽はぱちりと瞬く。素直に驚いていた。彼は今まで、真偽が何をしたって、怒鳴る以上のことはしてこなかったのに。
というか彼の記憶では、真偽のせいで殺人鬼と鬼ごっこした経験すらあることになっているのに、それよりも怒っているのだろうか?
「お前が、俺を助けるために、訳の分からんどこぞの神にコレクションにされるって? ふざけるなよ。本当はお前が死ぬはずだったとか、俺にとっては訳が分からねえよ。それが正しい? あるべき姿? そんなわけねえだろ。なあ、真偽……お前は、本当は、ただ死にたかったんじゃないのか?」
ほろりと、怒りと悲しみがない混ぜになったような言葉が、彼の口からこぼれ落ちた。
「俺を殺したと思って、その償いをしなくちゃならないと思って、咄嗟に死にたがっただけだってほうがよっぽど理解できる。なあ、目の前で人が死んで、それが自分のせいだと思ったことが、耐えられなかっただけだって言ってくれよ。本気で……本気で、神なんぞに、俺の代わりに、命を捧げるつもりだったなんて、そんなわけないだろ……」
心の臓を引き潰されてしまったような声だった。彼はまるで懇願するように、真偽を見ている。
対して真偽は、呆然と言葉を失っていた。
蒼輔の言葉が頭の中を駆け巡る。
そうなのか?
自分は、本当は、彼を救うつもりなんかなかったのか?
手を見下ろした。あの日、無名に伸ばした手を。
蒼輔の冷たい体を抱えていた、己の手を。
――自分はただ、浅海蒼輔を殺してしまったことに耐えられなくて、逃げるように、自分の命を懸けられる道を選んでしまっただけなのか?
「違う……」
俯いて、ふる、と首を振る。
「違う……違います……そんなんじゃない……!」
本当だった。あのときあの瞬間、真偽は何も考えていなかったのだ。彼を助けられるなら、なんでもしたかった。ただそれだけで、なんでもいいから死にたいなんて思っていなかった。思う暇がなかった。
真偽はただ、自分の命よりも、蒼輔の命のほうが大切だっただけなのだ。
それを全部否定されたような気分になって、真偽は半狂乱で首を振った。
「違う! 私、私は、本当に蒼輔さんを助けたかったんです! 罪悪感の落とし所として、自殺の理由として、蒼輔さんを使ったりしてない……!」
「じゃあなんで、自分の命なんか賭けた! よりにもよって神なんかに、自分を全部明け渡すようなことをした!」
「そうするしかなかったからです!」
「ふざけるなよ!」
「ふざけてません!」
ほとんど反射で叫んだ瞬間、蒼輔が泣きそうなほどに顔を歪めた。二回ほど、大きく息を吐いて、強く、強く真偽の腕を引く。咄嗟に顔を上げた真偽と、蒼輔の視線がかち合う。
もはや憎悪なんじゃないかと思うくらいの焔が、瞳の奥で燃えている。
「じゃあお前は、全部俺のためだったって言うのかよ!」
「そうですよ!」
「なら手を離すなよ!」
びたりと真偽は動きを止めた。蒼輔の語気に怯えたわけではなく、彼が、ひどく苦しそうな顔をしていたからだ。
まるで自分が死ぬかのような顔をしていたからだ。
「せんぱい……?」
彼はぐしゃりと顔を歪めて、祈るように呟いた。
「全部俺のためだったんなら、自分の体の一切合切、訳の分からない存在に捧げたりするな、馬鹿が……」
「……」
「本当に馬鹿だよ、お前は……」
詰られているのに、そこには確かに愛情が滲んでいた。掴まれた腕が熱い。
「せん、先輩……」
ぐるぐると、ぐるぐると、彼の言葉と行動が頭の中で回る。もう、冷静な判断を下せるような精神状態ではなかった。
だから多分、気の迷いだった。
「先輩って、私のこと、好きなんですか……?」
口に出して一拍、ざっと顔から血の気が引いた。
今、とんでもないことを聞いてしまった、気がする。
顔を伏せろと脳が命令するのに、それすらも上手くいかない。頭のてっぺんからつま先までがちがちに固まってしまう。脳の中でどくん、どくん、と心臓の音が聞こえた。
拒絶されたらどうしよう、と思う。
そんなわけないだろ、とか、後輩のよしみで助けてやっているだけだとか、そんなことを言われてしまったらどうしよう、と思う。どうしてこんなに不安になっているのかも分からない。彼にとって自分はただの後輩で、それだけで良かったはずなのに。
どうして、こんなにも怖いのだろう?
永遠にも思える数秒ののち、果たして彼は言った。
「……分からない。お前のこと好きなのか、俺は?」
予想外の答えに、真偽の脳みそから様々な考えが吹き飛んだ。
「は……え……いや、それは、私にも……」
「分からないよな。そりゃそうだ。俺だってそんなの、考えたこともなかったわけだし……でも俺、お前と結婚できるよ」
今度こそ、頭の中が真っ白になる。
「真偽と結婚できる。だから結婚しませんかって言ったし、嘘じゃない」
「そ……」
「まあ、お前は順当に行けばもっと良い男と結婚できたはずだし、嫌かもしれないけど……俺と結婚なんて一時的なものでもいい。他に好きな男が見つかったら、そいつと結婚すればいいよ」
とんでもないことを言われて、真偽は思わず口走っていた。
「い、嫌です」
ん? と彼の目が訝しげな色に染まる。それでも、これだけは嘘をついてはいけないと思った。誤魔化してはいけないと思った。そうでないと、大切なものを、本当に取りこぼしてしまう気がしたのだ。
「私、私も、先輩がいいです……」
ぼろぼろと涙がこぼれる。掴まれた手を、今度は自分から強く握った。
離れないように、離さないように。
「結婚するなら、先輩がいいです……」
これが恋なのか、ただの情なのか、後輩として先輩を慕っているだけなのか、もはや真偽にも分からない。それでも、彼を失いたくないことだけは本当だった。
生きて、隣で笑っていてほしい。
この感情を、なんと呼んだらいいのだろう?
「そうか……ならとりあえずは、婚約ってことでいい、よな?」
こくこくと声もなく頷いた真偽を見て、彼は空を仰いだ。
「じゃあまず、お前の親父さんに挨拶しに行かなきゃな……」
ひどく苦い声音で言われて、思わず真偽は笑ってしまった。それよりも大変なことがこれからあるだろうに、彼にとっては、真偽の父親に挨拶をしに行くことのほうが難易度が高いらしい。
お父さん、蒼輔さんのことすごく気に入ってるから大丈夫ですよ、と言いたくて、でも言葉にならないまま、真偽はただ泣いた。
握った手の熱さだけを感じて、ただ泣いていた。
この話、書きながらあまりに自然に蒼輔と真偽が口論始めてしまったので、私が一番焦っていました。なんとかなってよかった……
ここから大一番が始まりますので、続きを楽しみにしてくださっている方は、ぜひブクマや星などで評価いただければ幸いです。真偽と蒼輔の覚悟を見せますので、よろしくお願いします。




