夜明け
『あ〜〜〜〜〜〜〜〜、しぶとい!!』
無名はぐでんと顔を上向かせて叫んだ。
『本当に面倒だな……君たちさあ、もう少し慎みとか、引き際とかないのかな。分かるだろう、普通。こういうときにはさっさと死んでおいたほうが楽なんだよ。三体に分裂して毒を撒き散らしながら突進してくるとか、本末転倒だと思わない?』
呆れた視線で不定形の化け物を踏みつけにする彼は、黒い頬に散った、目が覚めるような青い液体を拭って、あからさまに顔をしかめる。
『気色が悪いな……これに懲りたら、僕が愛し子と交わした契約に横入りしないでくれるかな。矮小な人間の一族を下したくらいで調子に乗ってたら……次は殺すだけじゃ済まないよ』
すう、と冷たい瞳が異形を射抜く。そのまま、男は躊躇なく、犬神の首元を踏み抜いた。
傍で見ていた真事と修司が息を呑む。ぶつりとちぎれたそれが首であることは、流石に二人も察したらしい。
転々と転がる首から恨めしそうな声がする。流石は獣だ。全く学びそうにない。
無名はぱちりと指を鳴らす。犬神の首がちぎれた瞬間に首から落ちた、透明な青い欠片がふわりと浮き上がった。まるで主を見つけたように、綺麗に無名の手の中に収まる。
『拾ったものが綺麗で力のある何かだったから、とりあえず取っておいた……ってところかな。やっぱり頭は畜生だね。これ、食っておけばそれなりに力になったのに』
小馬鹿にして笑う。だがそのとき不意に、犬神の首と胴がどろりと溶けた。
一部始終を、息を詰めて見守っていた真事と修司がぎょっとする。紫色の煙を放ちながら、溶けた体は部屋の隅へと吸い込まれていった。
「終わった……のか?」
『一応ね。まあ逃げたけど。やっぱ殺しただけじゃダメか』
真事と修司が顔を見合わせる。無名は鼻を鳴らして補足した。
『あれは殺したくらいじゃ死なないよ。存在自体を消さなきゃね。まあ、あんなんでも、完全に消すと『飼い主』がうるさいから、今はいいよ。あれはまだしも『飼い主』のほうは手に余る』
言外に、あれよりも厄介な存在がある、と告げられた二人は一瞬押し黙った。だが、振り切るように真事が口を開く。
「終わったなら、真偽と浅海くんを助けろ。そういう約束だっただろう」
『ふふ、いいよ。今はちょっとだけ機嫌もいいからね、僕』
鼻歌でも歌いそうな雰囲気で言い放ち、彼は倒れている真偽と蒼輔のそばにしゃがみこんだ。
『うん、まあ大丈夫かな。そんなに入り込んでもいないし』
そう呟いて、彼は蒼輔の胸元に、五本の指先を当てた。
そして。
そのままずぶり、と彼の胸に片手を埋め込んだ。
「は!? 何やってんだあんた!」
修司が絶叫するのをよそに、彼はぐるぐると何かを探すように腕を動かし『あった』と呟く。ずるりと引き抜かれた手には、長い水晶のようなもの――犬神真偽の魂が握られていた。
「あれ、だいぶ綺麗に残ってる。異物が異物の中にあるんだから、ちょっとくらい削れてるんじゃないかと思ったけど……」
とんでもないことを言いながら、彼は興味深そうにしげしげと真偽の魂を見つめる。それを、真事は苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。
だがしばらくして満足したのか、無名は右手に真偽の魂を、左手に犬神が持っていた蒼輔の魂の欠片を掲げ持つ。
まるで断罪の刃のように。
『じゃあ、眠り姫と魔女には起きてもらわないと……ね!』
振り下ろされた水晶とガラス片が、それぞれ、真偽と蒼輔の胸にずぶりと刺さった。その場がかっと白く発光する。爆発したのかというほどの光に、無名以外の二人は咄嗟に目を閉じた。
数秒後、光の収まった部屋の中で、二人の男女が目を覚ます。
ゆっくりとまぶたが開かれ、先に気がついたのは蒼輔のほうだった。
何度か瞬き、頭を持ち上げる。その視線が、目の前に横たわる真偽の胸元に固定された。ずぶずぶと、水晶が沈みこんでいく。
おそらく反射だったのだろう、彼は彼女を引き寄せ、胸元の水晶を押し込むようにして魂を元に戻そうとする。彼自身の胸にも未だ、ガラス片が突き刺さったままだというのに。
すっかり水晶が沈みこんだあと、彼は安堵の息を吐いて顔を上げる。だがそこには、無名が行儀の悪い姿勢でしゃがみこんでおり――瞬間、目の前の無名を蹴り飛ばす勢いで彼は跳ね起きた。
腕の中に、犬神真偽を抱えたまま。
「浅海くん!」
真事が思わずといった調子で叫ぶ。彼は呼吸を整え、彼女を制するように手を上げた。
「……起きてます、大丈夫。真偽、おい、真偽、起きろ」
ぺしぺし、と頬を叩かれ、真偽もうっすらと目を開けた。
「……蒼輔さん?」
「そうだ。起きて早々で悪いが、約束、覚えてるか?」
真事は一瞬、現実と夢の境が分からなくなったような顔で首を捻る。蒼輔は何も答えずじっと真偽を見ていた。
すると数拍ののちに思い出したのか、彼女はこくりと頷いた。
「覚えて、ます」
「よし、ならいい」
『おはよう、僕の愛し子』
上機嫌を煮詰めてジャムにしたかのような声が、二人の前で響いた。
彼らは同時に、挑むように顔を上げる。無名はより一層、陶酔するかのように微笑んだ。
『ああ、やっぱり――全てを思い出したんだね、浅海蒼輔』
「俺が一度死んで、お前がそれにつけこんで真偽と阿呆みたいな契約を交わしたことをか?」
『あはは、すごい言い草だ!』
けらけらと神は笑う。可笑しくてたまらないという顔だ。
『どうだい、愛し子。自分の魂が、彼の記憶を呼び覚ましたと知って、今、どんな気分なのかな?』
彼女は声こそ上げなかったが、無名の言葉の意味を捉えた刹那、すうっと顔を青くした。褐色の神は満足して笑う。
本当に愛しい娘だ。浅海蒼輔を救うため、何度も何度も、彼の胸に魂の欠片を突き立ててきた。その行為が、今回までの道に繋がっていたとは到底思わなかっただろう。
事故で記憶喪失に陥った人間が、事故の再現を見せられて記憶を取り戻すように――自分の魂が彼の胸に突き刺さったとき、彼の記憶が目覚めるかもしれないなんて、思いもしなかったのだろう。
「黙れよ、気色の悪い神が」
神に対するものとしてはあまりに不敬で不遜な言葉が聞こえて、無名は思わずきょとんとした。
蒼輔が、今から人を五人くらい殺しそうな形相で睨みつけている。真偽を守るかのごとく、腕の中に抱えて言った。
「そもそも、契約っていうのは双方に利益をもたらすものだろうが。契約交わさせておいて、わざと破らせるのはただの馬鹿だ」
『すごいね、君。今、何が君の命を繋いでいるのか分かってないのかい?』
「そうやって脅すことしかできないから馬鹿だって言ってんだよ」
彼は呆れた顔で、真偽を後ろにぐいと押しやり、守るように前のめりになる。
「時間を戻すにしても、真偽の魂を隠すにしても、リスクがあるってお前は分かってた。代わりに真偽が死ぬかもしれないとか、俺が記憶を思い出す可能性があるとか、そういうことをな。でも言わなかった。全てを知ったときの真偽の姿を見たいからだろ」
『あれ、よく分かるね。君、ただ寝てたみたいなものなのに』
「神のくせに、人間騙して楽しむなよ。ダサいぞ」
あはは! と無名は弾ける笑顔で言う。
『残念だけど、人間を騙すのは神の娯楽のひとつだよ』
「趣味が悪すぎる……」
まるで汚泥でも見るかのような視線だった。無名はますます楽しくなって、その場で腹を抱えて笑う。重力すら無視した体が宙に浮いて、ぐるりとその場で回転した。
『さて、そろそろいいかな、真偽?』
彼の後ろで、色素の薄い髪がびくりとはねる。全身に怯えと恐怖をまとわせて、それでもどこか、光を宿した瞳が無名を見た。
おや、と思い、彼はぱちぱちと瞬く。
真偽の顔色はひどいものだった。血の気が引ききった頬は蝋のように白く、それどころか唇まで青白く染まっていた。寒くもないのにかちかちと歯を鳴らしている。それでも、瞳の奥に、まだ煌めく光があった。
無名は首を捻る。契約は破られた。全ては無意味に帰した。これから浅海蒼輔は死に、真偽自身も無名のコレクションとして生涯を終える。だが、その悲壮感を差し引いてもまだ、彼女の目には意志が宿っていた。
自分の命を失うことはともかく、浅海蒼輔を失う恐怖の前に、なぜそんな目をしているのか?
『ああ、そうか』
まだ、彼が失われていないからだと、無名は結論付けた。
ありもしない希望が、彼女の目には見えているのだと。
『そう。まだ足りないんだね。じゃあ仕方ない。君は諦めが悪いから……終わらせてあげようね』
言うが早いか、彼はぱちりと指を鳴らす。妙にくっきりと響いた音を聞いた瞬間、蒼輔は咄嗟に自分の胸を押さえた。
苦しげに上半身を折るようにして、悶え始める。
「っ、ぐっ、うぁ……!」
「蒼輔さん!」
引き攣れた声を上げる真偽の前で、蒼輔の胸から黒い光がこぼれた。
「あ、ああ……」
無名は目を閉じる。これからだ。よく育ててきた絶望の悲鳴が、これから聞ける。
そうして、希望も縋る先もなくなった魂は、ひどく美しく、濁りのない宝石になるのだ。
「先輩! ねえ、だめ、先輩っ!」
「だい、じょうぶだ、まだ……死んでない……!」
美味な絶望の声にまざって、あまりに無粋な、喘鳴じみた声が聞こえた。
無名は片目だけをうっすらと開ける。
浅海蒼輔が胸を押さえ、その体を後ろから真偽が支えている。
彼の体に視線をやれば、ちらりと覗いた首筋に、黒いヒビにも似た模様が肌を走っていた。おそらく、胸から首にかけての肌が全てひび割れているはずだ。無名がかけた暗示が解け、魂が本来の状態を思い出した結果である。
死んでいるはずの体が生きているという歪な齟齬に、魂魄が悲鳴を上げているのだ。
なんて無様だろう、と、無名は哀れな気持ちになった。
あの無礼な犬畜生とはまた別の、脆く儚い命への憐憫だった。無名が何もしなくても、繋いでやっていた糸を切るだけで、生きるための暗示を解くだけで、人間はこんなにも呆気なく死ぬのだ。
もったいないと無名は思う。だからこそ、真偽の魂は一番美しい瞬間に切り取って、永遠に保存して、愛でてやるつもりだ。
そのつもりだったのに。
「真偽、作れた、か!」
ひどい風邪を引いたときのような、ざらついた声を聞いた瞬間、真偽がはっと目を見開いた。
そうして、床に置いてあった何かを引っつかむと、蒼輔の手に握らせた。
おや? と思う。
それは一枚の紙だった。ルーズリーフのように見える。無名が彼女の後ろに目をやると、そこには備え付けのチェストがあった。さらに、チェストの上にばらりと開かれた、新書サイズほどのノートがある。そこから引きちぎったページに、何かを書きつけて渡したのだろう。
蒼輔が紙を受け取る。無名から見えているのは紙の裏面で、質の高い光沢紙は光を通さず、表面に何が書いてあるのかは窺えない。
――なんだ?
何の変哲もない紙だ。別に、無名を害するような効果は何もない。魔術的な要素もないし、なにか特別な方法で作られたわけでもない。ただの紙だった。
なのに、胸騒ぎがする。
今すぐあの紙を引き裂いてしまわないといけないような、漠然とした勘だった。
「おまえの、おまえたちの契約について、真偽から、聞いた。おまえのかわした、けい、契約の効果が、あらわれる条件は……概念みたいなもので……魂と、魂で、契約をしているのだと。つまり、真偽が、『契約を破った』と思ってしまったら、なにがなんだろうと、俺は、死ぬ。そうだろ」
訝しみながらも、無名は頷いた。
『そうだよ。人間にも分かりやすいよう、契約書なんてものを作ったけどね。あんなものは本来いらないんだ。何せ……』
「名前で縛っているから」
妙に明瞭な声だった。思わず無名は眉を寄せる。
『……ああ、そうだ。僕は『犬神真偽』という名を掴んで、それに縛りをかけた。特に、犬神の一族はほら、『あんなもの』に仕えているからね。僕の縛りに対しても馴染みやすかったんだ。上手く縛れたよ』
「そうか。それは、良かった」
ざわり、と、胸騒ぎが大きくなる。無名は思わず胸元を掴んだ。自分の魂と呼べるものが存在する場所を。
そして、その胸騒ぎが、本能からの警告だったことを知る。
「あやかしに、真名を握られたら終わり――気づけば連れていかれている。そんな話は、世界中で有名だ。だが、それは、人も同じだ。化け物の本来の名前を、看破して……退けた逸話なんか、腐るほどあるし、相手の真名を掴めれば、悪魔だって、使役できる」
『まさか、僕の真名を掴もうとしている?』
あまりの馬鹿馬鹿しさに、無名はうっそりと笑った。
『残念だけど、無理だよ。あのね、僕は人に真名が伝わらないように『無名』なんて名前を名乗ってるわけじゃないんだ。これが僕の本質なんだよ――僕に本物の名前なんてものはない。あらゆる時代、あらゆる場所で、僕にはあらゆる名前がつけられた。僕にはね、本物の名前なんてものは存在しないんだ。だから無名。掴める名前が存在しないから、僕は無敵なんだよ』
「お前の真名になんか興味ねえよ」
脂汗を浮かべながら、蒼輔はせせら笑った。
「そもそも、神に人間が対抗できるわけがない。お前の真名を看破するのなんか、無謀すぎて、意味がない。でも、他に方法がないわけじゃない」
今にも死にそうな顔をした男が、光を諦めない目で言った。
「お前の真名をどうにもできなくても――こっちの真名は、どうにかできるだろ」
無名は息を呑む。人間では到底たどり着けない域まで達した叡智を回し、急速に答えを叩き出した。
あの紙が何かを知ってしまったら、きっと全てが終わりだ。
無名は咄嗟に手を伸ばした。彼の持つ紙を引き裂くために。
ほとんど何も考えていなかった。これまでの経験から発された警告が、あの紙を破棄しろと告げている。それだけの話だった。
刹那。
ぱぁん! と一際強く響いた破裂音と共に、無名の手が逆方向に弾かれた。
「へえ、やっぱ神にも効くんだね、これ」
「アンタ本当に、ひょいっと死にに行くのやめてくれませんかね!? あとそれは本当になんのオーパーツなんですか!」
真事の構えた銃から硝煙が立ち上り、無名は舌を打った。目障りにもほどがある。あの娘、先に消しておくべきだったか。
それにしても不可思議な銃だった。そもそも、大抵の武器は無名の体に傷一つつけられないはずなのだ。だがあの弾丸は、少なくとも無名の皮膚をかすかに抉り、勢いを失わせるくらいの威力がある。
弾丸のせいで無名の意識が削がれた、その一瞬のことだった。
「――婚約証書」
その言葉を聞いた瞬間、ばちり、と、火花のような何かが目の前を走った。
「本日、十月二十四日、浅海蒼輔及び犬神真偽は、互いに婚姻の結びを交わすことを約束した。婚約の証明と成すため、ここに本証書を作成する。また、この婚姻をもって、妻となる者・真偽の姓を浅海姓に改め、今後、彼女の名を浅海真偽と称する――」
言いながら、彼は不意に自分の親指を噛み切ると、その紙に血判を押しつけた。咄嗟に真偽のほうを見やれば、彼女の白魚のような指先からも、何故か鮮血が滴っている。
まさか
――まさか。
二対の瞳に焔が灯る。無謀にも神に挑む、人間の目だ。
「夫となる者、浅海蒼輔。妻となる者、犬神真偽」
ばちん! と、音が響いた。
真偽と無名の間に交わされた、真名と魂による契約が、破棄された瞬間だった。




