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因りて異形の怪を討て  作者: 七星
然らば異邦の神を討て
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人間万事塞翁が馬(3)


「俺は一回死んだんだろ。死んだ人間は、生きてる人間の邪魔をするもんじゃない。浅海あさみ蒼輔そうすけは死んだ。それ以上でもそれ以下でもないんだよ」

「……」

「お前、隠し事苦手なのに、よくここまでやったよ。本当に……頑張ったんだな、真偽まき……」


 止まったはずの雨が、また手の上に降り始めた。彼女の血のにじむような努力を、誰も褒められやしなかったし、深海の底にいるような孤独を、誰も共有できなかった。

 だからせめて、自分だけは。

 浅海蒼輔だけは、犬神真偽をたたえてやらなければいけなかった。


「もういいよ。お前、こんなにぼろぼろになってまで俺のことを助けなくていい。俺が死んだのが自分のせいだなんて思ったからここまでしたんだろ。俺は全部許す。なあ、全部元通りになるだけだ。あるべき姿に戻るだけなんだよ。だから……」

「……違うっ!」


 不意に、音が目の前で爆発した。

 驚きに言葉を切った蒼輔の前で、握られた手が、彼女の額につけられる。

 ぬるま湯のような温かさだった。


「やだ……嫌だっ……!」


 蒼輔の手という受け皿がなくなって、彼女の涙がぼたぼたと地に落ちる。


「お、おい……」

「先輩がいなくなるの、いやだ……!」

「んなこと言ったって……」

「嫌だ……せんぱいが生きててくれなきゃ、い、意味ないっ……!」

「いや、意味ないってことないだろ」

「意味ない……! わたし、私は、私は……せんぱいじゃなきゃ、せんぱいが、生きててくれなきゃ……!」


 喉の奥でひずんだ音を立てながら、真偽がか細く呟いた。今にも死にそうな声だった。


「生きててくれなきゃ、息、できない……」


 蒼輔は言葉を失う。目の前で泣く女を、そこでようやくしっかりと見た。肩を震わせ、今にも嗚咽で窒息しそうな彼女を。

 ……本気で、言っているのか?


「なんで、そこまで……」

「せん、せんぱいだけだった……私を、後輩として、見てくれたの……私に、お金とか、せびらないし……私を、売ったり、しないし……」


 そんなのは当たり前のことだろ、と言いかけて、彼女の次の言葉に、とうとう言葉が出なくなる。


「私のために、おこってくれた……」

「……」

「お酒、飲み会で、みせいねんだったのに、わざと飲まされて……トイレ、つれこまれそうになったとき……飲ませてきた人に、ど、どなって、くれた……助けてくれた……わたし、あのときぜんぜん、きづかなくて……」


 そんな。

 そんな、ことで?


「わたしのことも、おこったのに、最後、タクシー代出して、おくってくれて……わたし、ぜんぶ、ちゃんとおぼえてるんです……」


 当たり前だろ、と思う。

 未成年の後輩が酒飲まされて、どう考えても犯罪に巻き込まれそうになってたら、助けるだろ、と思った。

 けど、声が出なかった。

 もしかして本当に、彼女はそんなことすらも、誰かからしてもらえたことがなかったんじゃないかと思った。


 家族以外の人間に、人として尊重されたことが、ほとんどないんじゃないかと思ったのだ。


「せんぱいが、いなくなるの、やだ……」

「真偽……」

「やだ……わたしが、わたしがぜんぶわるかったから……だから……せんぱいだけは……わたしが死んでも、せんぱいだけは、って……なのに……」

「……は?」


 瞬間的に、かけようとしていた言葉が全部吹っ飛んだ。


「待て、おい、真偽……」


 血の気が引いた。唐突に、脳裏にあの、褐色の神の声が響いた。


『神に願うなら対価が必要だ』

『命を救う願いなら、命を懸けてもらわなくちゃね』


 そうだ。犬神様とやらによって蒼輔が一度殺されたあと、真偽はあの神に願って、時間を巻き戻したのだ。その際に、自分の命を天秤の片方に乗せて。

 なら、同じことを、過去にしていないと何故言える?


 蒼輔は真偽の背をさすっていたほうの手で、ガッと彼女の肩を掴む。そのまま強引に顔を上げさせた。


「真偽、お前、俺を助けるために、神様とやらとどんな契約をした? 契約内容、覚えてる限り全部吐け」

「へ……なんで……」

「なんでもだよ! いいから! どんな契約をした!」


 彼女は不思議そうにしながら、涙でくぐもった声で、つらつらと契約内容を語り始めた。まるで契約書の中身をそのまま脳みそに貼り付けられたかのような、正確な言葉の羅列だった。

 そして最後まで聞いたとき、蒼輔は耐えられずに叫んだ。


「俺が生き返っても死んでも、真偽は死ぬじゃねえか!」

「別に死ぬわけじゃ……ナナシさんも悪いようにはしないって、言ってました。ちゃんと私の魂を綺麗に取り出して、大事にするって……」

「それは死ぬってことだろ! 悪いようにはしないも何もあるか……!」


 今までの柔らかさをかなぐり捨てて叫ぶ。蒼輔の頭の中が瞬間的に沸騰ふっとうした。

 信じられない。真偽は、最終的にどう転んでも自分が死ぬつもりで、今まで動いていたというのか。しかもその契約は、契約書を破棄すればうやむやになるような、抜け穴のあるものではない。魂同士を繋いで結んで、消してほどけないように交わした、神と人との約束なのだという。

 ――ふざけるなよ、全部話が変わるだろうが。

 怒り心頭の蒼輔を前にして、しかし真偽は、呆けた声で呟いた。


「私のことなんか、どうだっていいのに……」

「は? どうだっていいわけあるか!」

「いいんです。私、あのとき本当は死んでいたようなものなんですから。先輩を助けられるなら、別に、捨てたっていい命なんです」


 蒼輔は反射的に怒鳴りつけそうになったが、その前に真偽が言った。


「先輩だって言ったじゃないですか。あるべき姿に戻るだけだって。そうですよ。本当は、私が死ぬはずだったんだから……あるべき姿に戻るとしたら、私が死んでなくちゃおかしいんです」


 蒼輔は愕然とした。異常な思考回路であることに、犬神真偽だけが気づいていない。


「今がおかしいんです。先輩が死んでることがおかしいんだ。私が、私が死んでなくちゃならなかった。先輩を盾にしちゃいけなかったのに……!」


 ああこれ、俺のせいだな、と、蒼輔はすとんと思った。

 目の前で、浅海蒼輔が、自分のせいで死んだ。少なくとも、真偽の視界に映った真実はそれなのだ。

 だから彼女は、自分が代わりに死ねば良かったと思っている。


 そして奇しくも、彼女の言葉にも一部だけ、正しい箇所があった。

 あのとき、犬神真偽だけが神様の姿を見ていたら、ここで死んでいるのは真偽のほうだったかもしれないのだ。その事実が、彼女の歪な思想を支えている。


「私の軽率な行動で、代わりに別の人が死ぬこともあるんだって、私はそういう立場の人間なんだから、考えなしに行動するなって、ずっと、ずっと言われてたのに……」


 そして、元の姿に戻るべきだなんて、安易に真偽を説得しようとしたことも、蒼輔は悔いた。

 彼女の心の傷にきちんと目を向けてやらねばならなかった。認めてやらねばならなかった。


「私が全部悪いんだ。罰を受けるべきは私なのに……私を殺してくれれば良かったのに……先輩じゃなくて、私が……私を……」


 自分がどれだけ、彼女にとって大きな存在になっていたのかを、自覚しなければならなかった。


「……分かった。前言撤回だ、真偽」


 おごそかに、浅海蒼輔は告げる。

 福音ふくいんなど求めたところで意味はない。このままだと、彼女も自分も死ぬ。自分が死んでも相手が生きていればいいだなんて、生ぬるいことを考えて、眠りにつくわけにはいかなくなった。


 迷い子のようにゆるりと顔を上げた真偽に向かって、蒼輔は言った。


「お前も、俺も、五体満足で生き残るぞ。俺は俺の命を諦めないから、お前もお前の命を諦めるな。二人できちんと生き残るんだ」


 思いもよらない言葉だったのか、彼女はぽかんと口を開けた。


「ほ、んとうに……?」

「本当だよ」

「先輩、私がちゃんと生きる気になったら、やっぱり俺が死んだら上手く収まるとか言って、死なないですか……?」

「お前の中の俺、すごい卑怯な奴だな……いや、まあ、時と場合によってはそういうこともしたかもしれないけど……ここで嘘ついたら、流石に最低な奴だろ。お前に後追いされても困るし」


 彼女は大きな瞳を瞬かせた。何度か疑り深そうにじっと見てくるのを、蒼輔は甘んじて受け止める。ここで目を逸らしたら、真偽は二度と、蒼輔の言葉を信用しなくなるだろう。

 どれほど時間が経ったのか、そろそろ目を合わせているのも疲れてきたなと感じたころ。彼女はようやく、こっくりと頷いた。


「じゃあ、生き、ます。私も……」

「言ったな。なら、手を離すなよ」


 ぐっと小さな手を握りながら言う。弱々しくはあったが、真偽もくっと握り返してきた。


「でも……どうするんですか? 割と、もう、八方塞がりな気がしますけど……」

「それなんだが」


 蒼輔はしばし顎に手を当てて、やはりこれしかないなと思った。あとは、彼女から同意が取れるかどうかが問題だ。


「真偽……いや、違うな。真偽さん」


 できる限り居住いずまいを正す。急に敬語になった蒼輔を見て、真偽はきょとんとした。しかし素直に返事をする。


「はい」

「俺と結婚してくれませんか?」

「……はい?」


 素っ頓狂な声が上がったが、蒼輔は至極真剣だった。

 なぜならこれが、自分たちの間に横たわる、確実な生命線だったからだ。

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