人間万事塞翁が馬(1)
浅海蒼輔は暗闇の中で目を覚ました。
ゆっくりと起き上がり、周りを見渡す。暗い。電気を消した部屋とか、真夜中の月明かりしかない森とか、そういうレベルではない。自分の指先すら見えない闇が、視界の全てを塗りつぶしている。
物音ひとつしない。空気が揺れる気配すらない。完全に、ここで蒼輔は一人だ。そう《《見える》》。
だが、蒼輔はなんとなく「いるな」と思った。
「真偽」
答えはない。
だが、いる。確実にいる。何故と言われても説明のしようがなかった。いると分かるのだ。
彼女はここにいる。
「真偽、いるんだろ」
もう一度、呼ぶ。
答えも返らなければ、姿もない。それでも、蒼輔は呼びかけた。
ここが自分の予想している場所なら、彼女もいて然るべきだからだ。
「真偽、お前は――」
少しだけ迷って、それでも、蒼輔は決定的な一言を放った。
「俺が死んだことを、隠そうとしてたのか?」
「……そうです」
ぼう、と炎が灯るように、その場に犬神真偽が立ち現れた。あまりの唐突さにぎょっとする。
彼女は先ほどまでのドレス姿ではなく、普段着を身につけていた。先輩! と弾ける声で笑って、ゼミに顔を出すときの、犬神真偽だった。
だが、今の彼女は、これから断罪を受けるような顔をしている。
「……なんつー顔だよ」
「先輩、思い出しちゃったんですね」
仄暗い瞳は絶望に染まっている。蒼輔は一瞬怯みそうになったが、どうにか頷いた。
「ああ……お前、真偽の魂、ってことで、いいんだよな?」
「そうですね……多分、そうだと思います」
「で、ここは多分、俺の中だな?」
「それも多分、合ってると思います」
彼女はこっくりと頷く。先ほど、あの褐色の神は、蒼輔の体に真偽の魂を入れた。自分たちがここで話せているのは、おそらくはそのせいだろう。
意識を失った体の中でかわされる、魂同士の会話だ。
真偽がゆらっと顔を上げた。幽鬼のごとく、頬が白い。
「先輩は、どこまで思い出しましたか?」
「それはまあ、色々。一応確かめるが……お前、一年前の十月のことは覚えてるよな?」
「私は全部覚えてますよ」
だろうな、と蒼輔は頷く。
「じゃあ、俺がなんで死んだのかも、お前は知ってるんだな」
「先輩は、覚えてないんですか?」
不思議そうに問いかけてくる。蒼輔は顎に手を当てた。
「いや、覚えてないわけじゃないが……あのときもまあ、必死だったからな……」
蒼輔は一年前のことを思い返した。
一年前の十月――神在月に起きたことを。
あの日はいつものように、真偽が蒼輔をフィールドワークに引っ張っていった。神在月たる十月、神様が集まるという、出雲大社にほど近い村で、よく分からない祭りに参加して、それで終わりのはずだった。
だが、深夜になって、泊まっている旅館から犬神真偽が消えたのだ。
彼女の猪突猛進さと知的好奇心は、あのときから健在だった。蒼輔は村の人間から聞いていた「禁足地」の存在を思い出して、絶対に彼女はそこにいるとあたりをつけて向かったのだ。
禁足地とはいえ、別段誰かの私有地というわけでもないらしい。ただ、手入れのされていない森が鬱蒼と広がり、熊が出てもおかしくない場所だったから、念のため立ち入りが禁止されている。その本質を隠すために禁足地という触れ込みがなされているのだと思っていた。
その程度の場所だと、思っていた。
けれども、森を進みながら、蒼輔は異様な気配を感じ取った。季節柄とは関係なく勝手に震える体と、進むたびに重くなる頭。背筋に刃物を当てられているかのように冷や汗がわき、次第に暑さも寒さも分からなくなる。
何か、とんでもないものがいるという予感だけが、そこにはあった。
そうして犬神真偽を見つけた場所は、蒼輔の感覚で言うなら「最悪」の場所だったのだ。
――いる。
――ここに、恐怖をわき起こす何かがいる。
結論から言うと、幽霊だの、妖怪だの、そういう「悪いもの」ではなかった。そうであればどれだけ良かったかと、今なら思う。
蒼輔はその場にたどり着いてまず、真偽をほとんど抱きしめるようにして、彼女の目を覆った。見てはならないものがそこにあると、もはや本能でわかっていたからだ。
けれど代わりに、蒼輔は見てしまった。
そこにいたのは異形だった。
真っ黒な大蛇のごとき体を持つもの、顔を炎でどろどろに溶かしたまま固めたような姿のもの、下半身が蛸のようにぐにゃぐにゃと曲がり、立てずにその場で座り込んでいるもの、顔が真っ赤に染まって鼻だけが異様に長い、天狗のような顔をしているもの、全身を虫に覆われ、もぞもぞと芋虫のように地を這っているもの。
正視に耐えない姿をしたものたちが、一斉にこちらを見た。
あ、まずい、と咄嗟に思った。
見てはいけないものを、今、自分は見たのだと。
刹那、それらが一斉に口を開いて、蒼輔に向かって絶叫した。
耳をつんざくような音だった。もう悲鳴と呼んでいいかも定かではなかった。男か女かも分からない、鉤爪のついた五指で黒板を引っ掻いたような音だ。咄嗟に耳を塞ぎたくなったが、真偽の目を押さえていたので、それすらままならなかった。
鼓膜が破れんばかりの音の嵐に気絶しそうになったとき、それは来た。
異形たちの悲鳴に呼応する形で、地が裂け、空が割れ、何かが目の前に降りてきたのだ。
いや、実際にそんな天変地異が起きたかは定かではない。蒼輔の幻覚だったのかもしれない。
だが確かに、異形たちは何かに助けを求め、呼び声に答えて「それ」は現れた。そして、蒼輔の目の前に降り立ち、言ったのだ。
『入らずの禁を破り、矮小な身で神の御姿を目にした、哀れで愚かな人の子』
頭の奥をゆっくり殴られているような、重く、深く、痛みを伴う声だった。
恐怖に震えながら、蒼輔はよりいっそう、強く犬神真偽の体を抱きこんだ。どうか、この娘には気づかれませんようにと。
『――なれば、罰を受けるより他はない』
瞬間、見えない手が自分のほうに伸ばされて、何か、大切なものが全て、粉々に砕かれたような感覚があって――そこから、蒼輔の記憶は途切れている。
おそらくそのとき、自分は死んだのだろう。
全ての話を聞いて、真偽は泣きそうなほど顔を歪めて俯いた。
「なんだ……覚えてるじゃないですか、先輩」
「思い出したに近いよ。あれがなんだったのか、俺にはよく分からないままだし」
「あれは神様ですよ」
ぽんと放り投げるように、彼女は言った。
「あの場にいたものの中で、人間だったのは私たちだけでした。先輩が見たっていう、化け物みたいな姿のものは全部、この国に存在する八百万の神様たちです。それを私の代わりに見てしまったから……先輩は死んでしまった」
「見ちゃいけないもの見たなって感覚はまあ、あったけど……神様と来たか」
蒼輔は苦笑して、しかしすぐに首をひねった。
「待てよ、あの……なんだ、真偽の隣にいた、肌が浅黒いやつ」
「ナナシさん――無名のことですか?」
「そうだ。あいつも神なんじゃなかったか。あいつの姿は見てもいいのか?」
「あれは、仮初の姿だってナナシさんは言ってました。神様は基本的に、自分たちが見せたい姿を纏って人間の前に現れるんです。でも、先輩が見たのは、本来の姿だったから」
「ああ……なるほど」
つまり、人間で言うと全裸を見られたようなものだったのだろうか?
「そりゃまあ、悲鳴も上げるし、俺のことも恨むか」
「その認識でいいんですか?」
真偽が呆れたように笑った。泣き笑いのようだった。
「……あれは、本当の、神在月の祭事でした。年に一度、日本中の神様が集う場所に、私は入りこんでしまったんです」
なるほど、と蒼輔は頷いた。様々なことが一気に起こりすぎて、なんだかもう突っ込む気力もない。
「そういや、なんであんなところに行ったんだ、お前。禁足地って村の人に言われたときに、絶対に行くなって言っただろ」
犬神真偽はトラブルメーカーではあるが、基本的に約束を破らない。やるなと言われたことは、よほどの事情がなければやらないのだ。
逆に、よほどの事情があればやる。たとえば、蒼輔が地下の座敷牢に閉じ込められているだとか。
けれど、それ以外で彼女は約束を破らないはずなのだ。
真偽はふっと虚空を見て、空虚に笑った。
「あれは……私が馬鹿でした。神様に祈りさえしなければ大丈夫だと思ってたけど、そんなこと、全然なかったんです」
「……何の話だ?」
「真事姉さんも言ってたじゃないですか。私、神様に好かれるんです。だからたまに、呼ばれてしまうことがあるんですよ。うーん、なんていうのかな、フェロモンに引き寄せられる虫みたいな感じ……? この場合は私が虫ですけど」
申し訳ないが、全然分からない。
困惑している蒼輔を見て、真偽は苦笑した。
「訳分からないですよね。私も意味が分からないです。でも、神様に好かれる人間っているんです。この場合の好かれるっていうのは、なんていうか……ごちそう? みたいなものらしくて。神様は自分の好みのものを引き寄せちゃうから、私のことも、無意識に呼んでたんじゃないかな……」
儚い笑みを浮かべて、彼女は言う。
「私、あのとき蒼輔さんに声をかけられるまでの記憶がないんですよ。おやすみなさいって眠って、気づいたら、すぐそばで蒼輔さんの声がして……意識がはっきりしたときにはもう、蒼輔さん、死んじゃってて」
蒼輔は息を呑んだ。そんな訳の分からない状況に彼女を残していたのか。
「でも、私が仕出かしたことについてはすぐに分かりました。あそこまで記憶飛んだのは初めてですけど、これまでも、神様に好かれたせいで危ない目に遭ったことは何度かあったので。だから、すぐ気づきました。私を守るために、見ちゃいけないものを蒼輔さんが見たんだってことも……私の代わりに、罰を受けたことも」
「……それは……」
「蒼輔さんが最後に聞いた声は、日本の神様たちを守っている、守り人さんの声って言ったらいいのかな……朧神っていうらしいですよ。ナナシさんから聞きました。神様たちの姿を見てしまった人間は、あの朧神様に魂を砕かれて、殺されてしまうんですって」
蒼輔は思わず言葉を詰めた。単純な死よりも恐ろしい出来事に、ぞっと背筋が冷える。あのとき、自分は文字通り壊されていたのだ。
「じゃあ、やっぱり俺は……死んだんだよな? いや、死んだって呼んでいいのか分からないが……とりあえず死んだとして……お前が何したか分からないが、生き返って……いや、生き返ったわけじゃないのか?」
首を捻る。蒼輔もまだ全容は把握できていない。おそらく、そもそも蒼輔が見ていないところでも何かが起こっているのだ。
彼が思い出したのは、自分が死んだことと、その後に彼女が「何か」と契約を交わして、自分を生き返らせたこと。だが、おそらくそれは不完全な蘇りだったのだろう。完全な命を与えるために、彼女はまだ何かをしている。
「その辺りはよく分からないが……いや待て、ていうか真偽、俺の記憶を書き換えたりもしてるよな? フィールドワークの記憶、大体全部違うんだが……殺人鬼も人魚も食人野郎もいなかったのか……」
逆にどこまでが事実なのかとひたすらに記憶をさらって――不意に、思い至った。
そういえば、あの夢は?
ここから、過去の蒼輔と真偽に何があったのか、解明パートに入ります。彼らの過去が知りたい!と思ってくださった人は、ぜひブクマや星などをつけつつお待ちいただければ嬉しいです!
ちなみに真偽が神様たちの姿を見ていた場合ですが、彼女は異様に神様に好かれるため、一発で殺されることはなかったと思います。多分両目を潰されて記憶を消されて、今後の輪廻ができないように魂が縛られるくらいになっていたかなと思いますね。




