前哨戦
絶叫と共に意識を失った蒼輔を見下ろして、褐色の神は豪快に笑った。
『あはは! 多分思い出してるね、これは!』
その場に浮き上がり、まるで子供のように腹を抱えて笑う。重力を無視した体が、ぐるりと宙を回転した。
今回はだいぶかかったな、と呟く。
『いやあ、これだから人の子で遊ぶのは楽しいよ。あの爺の言ってたことも一理ある……あ、いや、壊すまではしないからそこは普通に失礼な爺だったな。愛し子の魂なんかいくらあったっていいんだから、普通に瓶詰めにして愛でるだけなのに』
彼は犬神真偽の魂の形を思い出した。どこまでも透き通っていて、その場にあるようで、ないようで、しかしどうしようもなく美しいかたちをしている、無垢な魂。
あれをコレクションに加えたら、どれだけの間、愛でていられるだろう?
それを思うと、背中から脳天にかけて、ぞくぞくとした感覚が弾ける。
『まあ、だから、お前はちょっと邪魔だよね』
ぐるぐると唸り声をあげる、不定形の霧に向かって言う。目鼻を潰された程度でどこまで弱くなったか知らないが、これだけ時間があってもようやく、体の八割が形成されるくらいに留まっていた。
真偽の魂を見失った化け物は、懸命に鼻をひくつかせて周りを見回している。勝手に好きになっておいて、好意を受け取らないと知れば怒り狂う。人知の及ばぬ生き物はひとしく身勝手なものだ。そういうふうに生まれついている。
哀れだなあ、と無名は思う。
幽世で飼われていたときのほうがまだ強かったように思うが、この種族はいつからこれほど愚かになったのだろう? 或いはこの個体が特別弱いのかもしれない。
『まあ、血は濃ければ濃いほど直されるわけだから、入り込みやすいのもわかるけど』
犬神様などと呼ばれているが、こいつの本質は蠱毒ではないし、そもそも現世に生きる存在でもない。ただ、幽世から淡々と、現世に移動することを狙っている存在なのだ。
大方、近親相姦をさせられていた犬たちの体に、無理やり自分を組み込んだのだろう。時間遡行をする者などそうはいないから今まで大人しかっただけで、本性は獣なのだ。
『でも正直、僕の獲物に手を出すとは思ってなかったよ』
無名の声が、突如として氷点下にまで落ちた。ゆら、と揺れるオニキスの瞳に、仄暗い怒りと侮蔑が灯る。
『お前、本当に頭がイカれたのかな? それとも、犬神様だなんだと称えられて、自分の価値を勘違いした? 人間ごときに持ち上げられて、他の神への敬いを忘れるなんて、やっぱり畜生だよね』
犬神は唸り声を上げ続ける。これほどまで自らを損なっても、敬うべき相手の判断もつかないらしい。
『なんだ、お前、獣以下だな』
刹那のことだった。
ぱぁん! と何かが弾けるような音がして、不定形の犬の体表がえぐれた。
無名がきょとんと目を丸める。異形が聞くに絶えない悲鳴を上げてのたうちまわった。その体からはぼたぼたと青い液体がこぼれている。
今のは――
「何が何だか分からないが……この二人の命を握っているというなら、早くしてくれ」
いつの間にか蒼輔と真偽を守るように、彼らの前で銃を構える女がいた。
ぬばたまの髪を高く結わえた、青い瞳の女。ドレス姿で片膝を立て、銃口を異形の犬へと向けている。
「真偽が死んでも、浅海くんが死んでも許さない。その場合はそこの犬神も、お前も殺すよ」
『へえ、やってみる?』
「真偽と浅海くんの命次第だ。それとも、神とやらは自分の交わした契約ひとつ、守れないのか?」
あからさまな挑発だったが、逆に面白いなと無名は思った。真っ向から神威を当てられながら、言葉だけでも対抗できる人間はそういない。
真偽の魂を手に入れたら、次はこの女と契約を交わすのも悪くない。
「何をやってんですか、この馬鹿!」
だがそのとき、彼女の頭を引っぱたく男がいた。
雑賀修司である。
「この二人も死んで、あんたまで死んだら許さないですからね……!」
「あ、修司、ちょうど良かった。真偽と浅海くんの盾になってくれるかな。そこの神とやらが役に立たなかった場合、真偽たちを守ってほしい」
「マジかよ、普通に俺の命も残機に入れてんのかこの人」
若干引いた表情ながらも、彼は真偽と蒼輔のそばにしゃがみこむ。面倒見の良い男である。
「つーかその銃なんですか。いつものマグナムじゃないんですか? いや、いつもマグナム持ってるのも意味分かんないですけど。普通に銃刀法違反だし」
「アメリカじゃ普通だよ」
「ここ日本なんだよなあ〜!」
何の話だ? と無名は思わず胸中で突っ込んだ。いつも銃を持っているのだろうか、この女は。
「で、神様は何をしてるんだい? 遊んでるのか、それとも、あんたの言う『犬畜生』相手に、手も足も出ないのかな?」
『本当に命知らずだなあ』
神を怒らせたら、とか、考えたことないのだろうか?
だが、その青の瞳は、確かな殺意を持って犬神と無名を見つめていた。彼女にとって自分たちに区別などないのだろう。どちらも等しく、真偽と蒼輔を害する獣なのだ。
その気概だけは、無名も面白く感じていた。
『まあ、それくらい威勢があったほうがいいか』
そのほうが、脆くなったときに楽しめる。
無名はうっそりと笑って、犬神のほうに向き直った。腐臭を伴う紫色の煙と、垂れ落ちる青い液体。そろそろ体の全てがその場に現れようとしているが、負傷した傷が癒えていないのか、時折ふらりと揺れている。
――その程度の自己修復すら満足にできない獣に、自分はしてやられたのか。
自嘲と侮蔑の混ざったため息がこぼれ落ちる。横から獲物をかっさらった、礼儀も知らない哀れな化け物。
――そろそろ罰を与えるときだ。
『じゃあ、お前を殺そうか』
さらりと告げて、悪魔のように神は笑った。




