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因りて異形の怪を討て  作者: 七星
然らば異邦の神を討て
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行きはよいよい


 何も無いはずの部屋の隅……そのかどから、ひどい腐臭と共に紫色の霧がにじみ始めた。全員がぎょっと後ずさる。


「っ、犬神様です!」

「は!? あれが!? どう考えても毒ガスだけど!?」


 修司が至極真っ当な声を上げた。だが、紫色の霧はじわじわと部屋の中に侵食して、徐々に朧気ながらも形をまとい始める。足らしきものが出現した辺りで、蒼輔が無名を振り仰いだ。


「っおいお前、神なんだろ! あれどうしたらいい!」


 無名がきょとんと首を傾げた。


『え、もしかして僕に聞いてる?』

「お前以外に対抗できる奴いないだろうが!」

『ふうん。まあ、危機管理能力はあるみたいだね。愛し子のことになるとバグるのかな』


 けらけらと笑う彼に、何か、嫌な予感がした。


「待って、ナナシさん、何を……」

『何って、神は人の願いを叶えるものだろう?』


 にやりと笑って、彼は人差し指を立てた。


『一つだけ方法がある。実は時間を戻す直前、あいつの『目』と『鼻』をある程度、潰しておいた。今あいつは、かろうじて愛し子の魂の気配を追ってきているにすぎない』


 真偽は目を見張った。いつのまにそんなことを。


『だから、今この瞬間に真偽の魂を隠せたら、あいつは慌てるだろうね。ふふ、見物みものだな。愛し子の魂を見逃して、右往左往するあの畜生を握りつぶすのは、どれだけ甘美で楽しいか』

「つまり、こいつの魂とやらを隠したら、後はお前が何とかしてくれるのか?」

『隠せたらね』


 待って、という声は、掠れて音にすらならなかった。


「何をすればいい」

『君、めちゃくちゃ質問するね。僕が全部答えると思ってる?』

「思う。だってお前、真偽のことをみすみす殺すのも惜しいと思ってるだろ」


 蒼輔はきっぱりと断言した。


「あと普通に、お前しか知らない答えをウンウン唸ってひねり出すまでの時間が無駄だ。それまでに真偽が死んだら全部終わりなんだよ。悪いが、俺はすさまじく諦めが早い」

『あははっ! 諦めが悪いの間違いじゃないかな』


 からからと笑って、いいよ、とかみさまは言う。


『教えてあげよう。あのね、魂は取り出せるんだよ。僕ならね』

「取り出して……どうするんだよ。どこに隠すんだ」

『その畜生はね、歪んだものの中には入れないんだ。ただされた時間の中でしか生きられないし、ただされた、歪みのない空間からしか出てこられない。だからこそ、時間に歪みを与える存在を許さない。だけどこの世には、歪み、曲がりくねったものだけで構成された物質が存在する』

「それは……」


 分かるだろう? と青年は笑った。


「人の、体か。体のラインには直線がない」

『ご明察。じゃあどうする?』

「分かった、俺の体に入れろ。神なんだろ、お前」

「先輩!」

「入れられるなら、取り出せる手段もあるんだよな?」

『もちろんあるけれど……』

「ならやれ」

「先輩!」


 真偽は必死に彼の腕を握りしめた。


「だめです先輩、一人の体に二つの魂なんて、ありえないことです! し、死んじゃったら、どうするんですか!」

「おい神様、俺は死ぬのか?」

『まあすぐには死なないんじゃないかな。ずっと入ってると危ないけどね』

「ならすぐ戻ってきてくれ。共倒れしたいわけじゃない。せめて俺が死んでも、こいつの魂は取り出して……」

「先輩……!」


 真偽は必死にかぶりを振った。だめだ。本当にだめだ。彼を死なせないためにここまでやってきたのに!


「先輩、やめてください、話を聞いて……」

「ならお前、俺に隠してることを言えるか?」


 真偽の息が瞬間的に止まる。


 隠している、こと。


 それは、真偽が彼についている唯一の嘘のことに違いなかった。彼に起きている異変。彼の異常な状態のこと。それを伝えたら、蒼輔は死地に行かないでくれるのか。

 けれど、土台無理な話だった。彼の体に起こっていることを伝えたが最後、無名との契約は切れ、どのみち蒼輔は死んでしまう。死と死を天秤にかけられて、真偽の思考は完全にフリーズした。

 何を選んだとて、この青年は死ぬのだと、悪魔に嘲笑われている気分だった。


 たちまち真っ青になった真偽の顔をのぞきこんで、蒼輔は少しだけ顔をしかめた。


「いや、間違えた。この言い方はずるいな。真偽が俺に隠してることを言えたとして、俺はお前を助ける」

「っ、私……私は……」


 はらはらと零れた涙に溺れながら、真偽は絞り出すように言った。


「先輩に、死んでほしくないだけなんです……」

「それは俺だって同じだよ。お前の親父さんに申し訳が立たないだろ」


 そういう問題じゃない。でも、彼にとってはそういう問題なのかもしれなかった。

 彼にとっての犬神真偽は、どうしようもなく、助けなければならない後輩なのだ。その優しさに甘えた結果、彼を失ったというのに。

 それでもまた、繰り返すしかないのか。


『なら、浅海蒼輔。君と一時的な契約を結ぼう。君の魂と犬神真偽の魂、僕に預けられるかい』


 無名は柔らかく目を細めて、そのしなやかな手を蒼輔に伸ばした。やめて、という真偽の声は弱々しくて、なんの力も持たない。

 蒼輔は人を殺しそうな目をして、叩き落とすような勢いでその手を取った。


「こいつが死んだら、お前を殺すからな」

『アハハ! 威勢がいいね! その頃には君も死んじゃってるだろうけど……呪いになって帰ってきそうだ。そういうところは、愛し子と少し似ているね』


 彼のオニキスの瞳が、真偽の瞳に合わせられる。きん、と澄み切った音がして、吸い込まれるような黒に魅入られた。

 それは、あまりにも唐突だった。

 真偽の頭がぐらりと揺れる。

 脳みそが揺さぶられて、強烈な吐き気と頭痛に襲われる。頭を丸ごと撹拌かくはんされているような感覚だった。その場に立っていられない。


「っ、あ、何……」


 恐怖で蒼輔にしがみつく。指が白くなるほど彼の腕を握った。

 努めて深く呼吸をすると、今度はまた別の違和感を覚えた。

 ずず、ずず、と、何かが胸の中心に集まっていく。

 何。

 何、が。


「な……」


 思わず胸元を見れば、そこからありえないものが突き出ていた。

 見た目は水晶そのものだ。長い六角柱を、先端部分だけ尖る形に削り取ったような、シンプルな形をしている。それにはなんの色もなく、ただ向こう側の景色が見えるほどに透き通っていた。

 それが自分の魂そのものであると、真偽は直感的に理解してしまう。


 あまりに暴力的な魂の抽出に目眩がする。いや、目眩は実際にしていた。胸から魂が引き出されるたびに、視界が、世界が揺れて、歪んで、ねじれていく。

 痛みはない。だからこそ怖い。

 自分が自分でなくなっていく恐怖と、寒さが、全身をじわじわと駆け巡った。


 自然と蒼輔の腕にくずおれるような形になる。咄嗟に支えてくれた腕を掴んで、口を開こうとした。


「そ……すけ、さ……」


 眠い。吐く息が、白い。


「真偽、大丈夫だ。大丈夫だから……」


 違う、と言いたかった。大丈夫じゃないのは、あなたのほうなのだ。

 だが、その言葉は音にはならなかった。

 真偽はそのまま、眠るように意識を失ってしまった。




◇◇◇




 かくん、と真偽の頭が落ちたのを見て、慌てて蒼輔が支えた。頭だけでなく、彼女の体は全体的にだらりと弛緩している。

 気絶しているのとも違う、生気のない表情が目の前にあった。


「っ……」


 ずるりとその場に座り込んだ蒼輔の前で、褐色の青年が笑う。その手には、凄まじい大きさの水晶のようなものがあった。


「なんなんだ、それ」

『何言ってるんだい、これが愛し子の魂だよ』


 蒼輔は彼の手にある水晶の塊を凝視した。これが? 人の魂?

 あまりにはっきりと形を持っていて困惑する。透き通っていて、先端の尖りすら美しい形に削られている、どう見ても純粋な水晶だった。何色にも染まらない、純度の高い水で作られた最高級の氷のようだ。

 魂って、もっとぼんやりとしていて、目に見えないものではないのか?


『信じられない? 見たこともないのに?』


 飄々と呟く彼の声に、現実に引き戻された。まるで心を読まれているような感覚に、喉を鳴らす。

 信じられないかどうかと問われれば、信じられない。だがそれを言うなら、今この瞬間に姿を現している「犬神様」とやらだってそうだし、なんなら目の前の青年の存在もそうだ。浅海蒼輔は基本的に常識の埒外にあるものは信じられないが、真偽が彼を「神様」と呼んでいたから、何かはあるのだろうと思っていた。


 それに、真偽の胸から、水晶が出てきたことは事実だ。


「信じるとか信じないとかじゃない。やってくれ。そんでもって、早くその化け物をなんとかしてくれ」


 紫色の霧は既に形を持ち始めている。どこが頭でどこが足かも分からないので、今どこまで体を作れているのかが予測できない。まだ三割くらいかもしれないし、もう九割くらいかもしれない。

 早くしないと、犬神真偽は死ぬ。

 それだけが、蒼輔を突き動かす力だった。


『ふっ、ふふ、あはは! 人間って本当に面白いよね。これだから神様業はやめられないよ』

「ごちゃごちゃ言ってないで早くしてくれ!」

『はいはい。それじゃあ――記憶、戻らないといいね?』


 意味深な言葉に首を傾げる暇もなかった。

 男は水晶を持った手を緩慢に掲げ、なんの躊躇もなく蒼輔の胸に水晶を突き立てたのだ。


 瞬間、すさまじい力の奔流が体を駆けた。まるで雷に撃たれたような衝撃に、がくんとその場に倒れそうになる。


「っ……!」


 だが、寸前で腕の中に真偽がいることを思い出した。彼女の頭を抱える形で自分のほうに引き寄せ、共に床へと倒れこむ。

 ずるずると、蛇が獲物を飲み込むように、水晶が胸の中に吸い込まれていく。それと同時に、ばちっ、ばち、と目の前で火花が散った。


「っ、ぐ……」

『ああ、やっぱりそんなにたないか。まあ、君たち、性別すら違うからね』

「ゔぅ、ぐぅ……っ……」

『でも多分、痛みは大きな問題じゃないんじゃないかな、君は』


 その通りだった。痛みは既に収まりつつある。だから問題はそこではない。

 問題は、別のところにある。


 ――これは何だ?

 ――今、自分が見ているものは、何だ?


 困惑と共に、高速でまばたきを繰り返す。だが、視界に変化はなかった。

 目の前で光が爆ぜるたび、知らない景色が次々に瞼の裏へと浮かんでくる。


 森だ。森の中を蒼輔は駆けている。木々をかきわけ、石につまづき、暗闇を手探りで進みながら、必死に走っている。視界がたびたび周りを見渡すのは、何かを探しているのだろうか。

 知らない。自分は、こんなことをした記憶はない。

 それなのに、強烈な既視感がある。


 ずず、ずず、と、水晶が胸の中に埋まる。この感覚にも、ひどく覚えがあった。

 ――何か。

 ――何かを、忘れている。

 パンドラの箱が、ゆっくりと開く音がした。


『犬神!』


 映像の中で自分が叫ぶ。森の中で誰かを――犬神真偽を、探している。


 瞬間、唐突に視界が開けて、その先に犬神真偽が立っていた。


 ――あ。


『犬神、目ぇ閉じろ!』


 体当たりするように彼女の頭を抱えこみ、彼女の視界を塞ぐ。咄嗟の判断だったなと蒼輔は思った。

 あのときの自分には、そういう行動しかできなかったのだ。本能で、見てはいけないものがあると悟ったから――せめて、彼女が見ないように、その視界を覆うしかなかった。


 自分はただの人間だから、人智を超えた存在に太刀打ちはできない。それでも何度だって、蒼輔は同じことをするだろう。


 だから――だからあのとき、自分は死んだのだ。


「あ……あ、ああああああああ!」


 身を裂かれるような痛みと熱さに叫ぶ。水晶はとうに体に沈みこみ、腕の中には土気色の顔をした真偽の肉体だけが残った。


 そう、そこにあるのは肉体だけ。

 それは自分も同じだ。


 浅海蒼輔は全てを思い出した。

 一年前の十月。神様の集う神在月の祭事にて、自分は禁足地に入りこみ、見てはならないものを見てしまった。

 それが禁忌だったことを、蒼輔の魂は覚えている。

 だから、自分が死んだのだということも。

 その事実をはっきりと思い出した瞬間、浅海蒼輔は、落ちるように意識を失った。


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