懇談会Ⅱ
「おい、真偽……真偽!」
肩が揺さぶられる感覚に、犬神真偽はハッと目を覚ました。
目の前に、浅海蒼輔がいた。真偽と片腕を組んだまま、もう片方の手で肩に触れている。
「……先輩?」
「何寝てんだお前。依代の君とやらが次期当主を選ぶらしいぞ。見なくていいのか」
「え……」
辺りを見回すと、そこは懇談会の会場だった。全員が固唾を飲んで、ある一点を見つめている。
「大丈夫かい、真偽。寝不足?」
すぐそばで声がした。見ると、真事が心配そうに顔をのぞきこんでいる。その後ろには修司もいた。彼らも、懇談会のときの服装のままだ。
真偽は混乱したまま、曖昧に頷く。これは……なんだ?
「それでは、依代の君に、次期当主を選定していただきます」
厳かな声に顔を上げる。壇上では梓が微笑んでいた。ちらりと見た手には傷一つない。
そこでようやく、真偽は何が起こっているのかをじわじわと理解し始めた。
――時間が、巻き戻っている。
はっ、と小さく息を吐く。蒼輔が戻ってきたことへの安堵と、褐色のかみさまへの畏怖が同時に湧き上がった。あのかみさまは、一体何をどこまで捻じ曲げることができるのだろう?
だが、ちゃかちゃかと足を動かしてやってきた「依代の君」を見て、無名への感情は一瞬で立ち消える。今は、彼に恐れている場合ではない。
――浅海蒼輔を、死の運命から守らなければ。
真偽の頭は既に冷静さを取り戻していた。「時間を巻き戻す」という方法で浅海蒼輔が生き返ったなら、まだ問題は解決していない。
このままではまた、彼はあの異形に食われてしまうからだ。
真偽は素早く記憶をさらう。彼を食い殺した異形は、おそらく「犬神様」だろう。
無名は、蒼輔のたましいの欠片が犬神の本家にあると言った。人間のたましいを利用するのは基本的に「人ではないもの」だけだ。つまり、犬神様が、あるいは犬神様の世話係である当主が、所有していると考えるのが妥当だ。
それは逆説的に、蒼輔のたましいを持っていた異形が、犬神様であることを示していた。なるほど、姿絵がないのも頷ける。あれをどう絵にしたらいいのか、真偽には検討もつかない。
だが問題はそこではなく、何故、犬神様が蒼輔を狙ったのか、だ。
それが分からなければ、彼はまた死ぬだろう。
無名もそれを理解しているはずだ。せっかく時間を巻き戻して生き返らせたのに、むざむざ蒼輔を見殺しにはしないだろう。何か策を考えてくれているかもしれない。
だが、楽観視をしたくはなかった。
真偽はもう二度と、彼の命が失われるところを見たくない。
どうにかあの未来を回避できないか……と考えながら依代の君を見る。そういえば、あの犬はこれから真偽を当主に選ぶのだ。あの瞬間をまた繰り返すのかと思うと、本当に気が重い。
だがそのときだった。
依代の君はぐるりと会場を見回すと、ちゃかちゃかと足を動かし――犬神梓の前に跪いた。
「……え?」
割れんばかりの拍手が巻き起こる。蒼輔はあまり興味がないのか無言でその光景を見つめ、真事も「茶番だな」という顔で受け入れていた。
混乱しているのは真偽だけだった。
過去が、変わっている。
「……どうして……」
自分が何かをしたのか? 否、時間が巻き戻ってからまだ数分だ。何もしていないし何も言っていない。過去を変えられるほど大きなことをしたはずがない。
だが、依代の君は、真偽ではなく梓に跪いた。
それは、つまり?
硬直した真偽の目の前で、梓が手を振りながら演説を始めようとする。
だがそのとき、依代の君がすっくと立ち上がり、ちゃかちゃかと再び歩き始めた。
周りの人間が顔を見合わせる。当主選定はもう終わったのに、一体何を? という疑問が、会場中を満たした。
「おいおい、あいつ、こっち来るぞ……」
記憶と寸分違わぬセリフが耳朶を打つ。嫌な予感が胸の中に広がった。なんだろう? 何かが、おかしい。
だが依代の君を止められるような人間はここにはいなく、彼はちゃかちゃかと足を動かして真偽たちの前までやってきた。
そして、低く、低く、うなり始める。重心を後ろ足のほうに傾け、ぐぐ、と少し体勢を低くした。
「おい、こいつ……」
修司が呟いたのと、呆然とする真偽に向かって依代の君が飛びかかったのは同時だった。
「っ、真偽!」
蒼輔が叫び、咄嗟に真偽の体を自分のほうに引き寄せる。彼女の左耳すれすれのところで、がちん! と牙が噛み合う音がした。
蒼輔の胸に倒れ込み、咄嗟に左耳を押さえる。
依代の君はなおも唸り続けていた。今にもまた飛びかかってきそうだ。
「おい、やめろ!」
再び噛み付いてくる直前、蒼輔は顔をしかめながら依代の君の横腹を蹴りつけた。ギャン! という声と共に犬がその場に転がり、周囲から悲鳴が上がる。
「なんなんだ、躾がされてるんじゃなかったのか……!?」
真偽は頭が真っ白になりながらも「逃げなくては」と考えていた。依代の君はどう考えても自分を狙っている。なら、自分がここから離れなければ、この事態は収まらない。
蒼輔は依代の君を蹴ってしまった。犬神の家の者だって罰を受けるような行いだ。全部、真偽のための行為だとしても。
ぐっと唇を噛んで駆け出そうとした真偽の手首を、真事が強く掴んだ。
「真偽、あんた……もしかして、戻った?」
へ、と口を開ける。一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「禁を、破った?」
「禁、を……」
回らない頭で考える。
禁とは、つまり『戻るな』という言いつけのことだ。確かに、それを破れば犬神様の怒りに触れるだろう。依代の君が、急に真偽に襲いかかってきた理由も分かる。
だが真偽にとっては、今この瞬間に会場へやってきたようなものなのだ。禁を破る暇なんて……
だがそこで、はたと彼女は動きを止めた。
褐色のかみさまのうっそりとした微笑みが、彼女の脳裏でフラッシュバックする。
『対価は気にしなくていい』
『実行と同時に、払ってもらうからね』
どく、どく、と、体内を血が巡る音が、妙に大きく聞こえた。
まさか……まさか、まさか。
犬神様は「戻る」行為を強く禁じた。だが、それが具体的にどういう行為なのか、誰も知らない。何せ、初代の当主は何も言葉を残さず死んだ。それに、今まで誰も罰を受けたことがなかったのだ。
でもそれが、犬神家の全員が禁を破らない敬虔な信徒だからではなくて――単純に、そう簡単に破れる禁では、なかったのだとしたら?
つまり――戻ってはいけない、というのは「時間を巻き戻してはいけない」ということではないのか?
荒唐無稽な仮説だった。答え合わせだって誰もしてくれない。でも、だからこそ、今までの経験と勘が、必死で警鐘を鳴らしているのが分かる。
「破ったんだね?」
真事が強く、しかし限りなくひそめた声で問いかける。真偽はわずかに、浅く頷いた。
「破った……かも、しれない」
「分かった。逃げるよ」
え、と言うか言わないかのところで、真事が蒼輔の背をばしんと叩いた。
「走って! 部屋まで行くよ!」
「っは……!?」
「いいから! ほら修司も!」
「はあ? ちょっ……なんなんすか!」
修司が真事に手を引かれて会場を駆け出す。戸惑う蒼輔の腕を、今度は真偽が引っ張った。
「ごめんなさい、先輩っ、後でちゃんと説明します!」
後ろで唸り声が聞こえる。犬神様が怒っている。
「だから今は走って!」
「っくそ、なんだってんだよ……!」
彼も共に走り出し、すぐに真偽を追い越して手を引いてくれる。人の間を素早く縫うように駆け抜け、そのまま会場を後にした。




