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因りて異形の怪を討て  作者: 七星
犬神家の一族
26/39

戻らずの禁



 真偽まきは呆然とした。蒼輔そうすけの目は開いている。開いているのに、一切の光がない。明らかに、生きたもののそれではない。

 理解を脳が拒んで、視線の先が横にずれる。事実を受け入れられないまま、情報量だけが増えていく。


 蒼輔のすぐそばに、何かがいた。


 何か、としか言いようがない。それにはおよそ実体というものがなかった。うごめく不定形の、泥の霧のような何かだ。黒いような、青いような、不可思議な色を纏っている。紫色の煙のような、おぞましい気体が体から染み出している。

 ひどい匂いがする。何かが腐ったような匂いが、あたり一帯にばらまかれている。


 ああ、とこぼれた声が、とっくに諦めの音をしていることに、真偽だって気づいていた。


 目の前にいるものが何か分からない。見たことのない生き物に名前はつけられない。

 だが、強いて言うならそれは獣だった。


 なぜなら、異形の何かは、蒼輔の首に食らいついていたからだ。


 鮮血が滴り落ちる。異形が口のようなものを動かすたびに、ぐぢぐぢと酷い音がした。人の肉を、牙で無理やり食いちぎる音だ。

 視線を動かす。口で食らいついているなら、その近くにあるのが頭だろうか、とぼんやり思った。それなら、体はその先にひっついている、よく分からない細長い部分だろうか? やっぱり、犬に見えなくもないけれど――でも、そもそもこれに、形なんてものはあるのだろうか? ああ、違う、そうではなくて。


 あれの心臓を見つけたら、刺せるだろうか?


 妙に頭が冴えていた。本気で狂っている人間は、自分か狂っていることに気づけないのだという。今の真偽がそうなりかけていることに、本人だけが気づいていない。


 獣のような、犬のような、そんな何かを目の前からどけたら、ひょっこり蒼輔が起き上がるのではと、彼女は本気で思っていた。


 引き裂かれたスカートの裾に手を入れる。ガーターベルトに備えつけた、化け物を殺すナイフに指を伸ばした。心臓を刺したら、霧のような生き物でも消えるだろうか?

 そうしたら、蒼輔は戻ってくるだろうか?


「離れな、真偽!」


 鋭い叫びと共に、風船の破裂音を何倍にもしたような音が、耳元で炸裂した。一瞬、耳の奥がきいん、と震える。

 同時に、不定形の異形の体表に何かが直撃して、弾けた。虹色に輝いたそれは閃光弾のようで、異形はたちまちギャアッと声を上げる。


 振り返ると、真事まことが険しい顔で拳銃――のような何かを構えていた。銃口からは煙が上がっていて、後ろで修司が顎を落としている。


「真事さん、なんですかその銃!」

「知らん! なんか化け物に効くらしい!」

「なんですその使い道が超限定されてる銃は!」

「知らないってば! 家にあったんだよ! 使い道なら今あっただろう!」

「そういう問題じゃ……つーか家にそんな代物が落ちててたまるか!」


 なんだかよく分からないので、二人の言い争いは一旦無視した。真偽は咄嗟に異形へ目をやる。

 相変わらずどこが足でどこが頭なのかも分からない。だが、弾が当たったらしい箇所からは、ぼたぼたと青い液体が滴り落ちていた。ぐるぐるという唸り声も聞こえる。それだけなら、やはり犬のような――


「え?」


 真偽は目を疑った。その犬の、おそらくは首だろうかというあたりに、きらりと光る何かがぶら下がっている。たとえるなら、首輪に付けたチャームのような要領で、ガラス片のようなものが揺れていた。


「せんぱいの、たましい……」


 あれだ、と直感する。ただの飾りではない。あれこそ、浅海蒼輔のたましいだ。間違いなかった。


 だって、この世で最も尊いものを、自分が見間違えるはずがないから。


「かえして!」


 反射的にナイフを引き抜き、伸ばした手を、後ろからガッと掴まれる。


『ダメだよ愛し子。意味がない。本体がとっくに手遅れだ』


 振り仰いだ先に、奇妙なほど表情のない無名むめいがいた。


「離して! 先輩がっ……あの変な生き物、殺さないと!」


 叫んだ瞬間、犬のような何かは不快そうに声を上げて、ひらりと身を翻した。そのまま軽やかに地を蹴ると、宙にふわりと浮き上がる。


 唖然とする周囲の人間たちには目もくれず、それは廊下の端の、かどの部分に向かって身を躍らせた。当然そこに扉などない。穴すら空いていない、ただの廊下の隅だ。だが、その直角のかどに、異形の体はずるりと吸いこまれた。


「……え?」


 しん、と廊下が静まり返る。信じられない光景に、真偽は全身から力を抜いた。

 今……逃げた、のか?

 ぺたん、とその場に座りこんで、真偽は呆然と辺りを見回した。異形が襲ってくる気配はない。


『……チッ。所詮は獣か』


 無名が侮蔑のこもった声で呟く。その声にはっと正気を取り戻した。


「……せんぱい」


 真偽はゆるゆると顔を上げ、這うようにして浅海蒼輔のもとへ向かった。力なく横たわる体の、その首からは、未だにどくどくと鮮やかな赤が流れている。


「せんぱい、ねえ、せんぱい」


 肩を揺すっても、血が手を濡らすだけで、彼はぴくりとも動かない。明るい髪は赤に染まって、対称的に、血色の良かった頬は既に色を失っている。

 中途半端に開いた瞳から、命が流れ出ている。


「やだ、ちがう、そんな……」


 心がちりぢりになっていく。違う、おかしい、こんなはずじゃなかった。

 だって、ここで彼が死んだら、全部、全部、失われてしまう。自分が今までやってきたことの意味も、彼自身のこれからの生も。


 彼が、当たり前に受け取るはずだった、この先の未来全てが。


「いやだぁっ!」


 悲痛な声を上げる真偽を、真事と修司が痛ましい顔で見つめている。だが、甲高い悲鳴を上げる彼女に、無名が静かに近寄った。


『愛し子』


 低く、深い、絶対零度の声が空気を震わせる。

 真事が咄嗟に臨戦態勢を取った。そういえば、この男は誰だ? と彼女は思ったが、無名は気にも留めずに真偽の肩を掴む。


『愛し子、聞け』


 顔を上げた彼女に、彼は淡々と告げる。


『俺たちの契約は破られた。浅海蒼輔は死んだ。契約に必要な駒がなければ、どう足掻いたって契約は続けられない』

「そっ、れは……」


 真偽の顔がざっと青ざめる。

 契約の破棄。それは、たとえここで浅海蒼輔が何かの奇跡で生き返ったとて、どうにもならないことを示していた。約束自体がなかったことになるのだ。彼の命を救うすべは、もう、どこにもない。なくなってしまった。

 真偽の視界がゆっくりと暗くなっていく。

 ナイフを持つ手が、ぴくりと震えた。


 彼がこの世にいないなら、戻ってこないなら、もうなんの意味もない。

 なんの、意味も――


『だが、これは違う(・・・・・)


 彼はぎっとまなじりを吊り上げ、床を蹴って宙に浮き上がった。右手をかざすと、古びた羊皮紙で作られた契約書が出現する。


『俺たちの契約はこうだ。俺は『浅海蒼輔の魂の欠片を集める』という犬神真偽の願いに協力すること。目的を果たすまで、浅海蒼輔の魂の器たる、肉体の生存を維持すること。犬神真偽は全ての魂の欠片を集め終え、望みを果たした後、真偽自身の魂を俺に捧げること。だが、もしも魂の欠損が浅海蒼輔に知られた場合、契約不履行(ふりこう)となり、犬神真偽の魂は即座に回収、どんな扱いをするかは俺に一任される――これらは互いの魂に基づいた契約であり、この契約書を破棄したとて、なかったことにはならない』


 真偽は頷いた。もちろん覚えている。あの日に交わした約束の全てを。

 命を懸けた契約のことを。

 彼のために魂を捧げることすら、あの日の真偽は厭わなかった。彼が生きているなら、自分の魂の有無なんて瑣末事さまつごとだ。だから契約したのに、これでは、もう。


『だが、これは俺も予想していなかった』


 ぐしゃり、と契約書を握りつぶして、彼は瞳に怒りを燃やした。


『誰が、横から契約を破棄するなどと思う? しかも、俺と同等の力すら持たない、人に飼われるいやしい畜生ちくしょうごときがだ』


 真偽は呆気に取られた。口調も態度も普段と異なる彼の姿を、ぽかんとしながら見つめる。

 気が動転しすぎて気づいていなかったが、このかみさまは、もしかして、怒っているのか?

 彼は、異形が消えた廊下の隅を見つめて、怨嗟にまみれた声を出した。


おれのものに手を出して、ただで済むと思うなよ。かつて幽世かくりよの住人に飼われ、人間にすら首輪をつけられた畜生が』


 そして、唖然とする真偽に向かって手を伸ばす。


『真偽、腹立たしいが、これは俺の落ち度だ。あのような下賎げせんな種族に邪魔をされるとは思っていなかった……故に、願うことを許す』

「ね、がう……?」

『このまま契約を破棄するなら、お前の魂は見逃してやろう。何せ契約完了でも不履行でもない。お前の魂をもらう道理がどこにもない。契約は破棄として、俺はあの卑しい畜生を八つ裂きにしに行く。それで終わりだ。だが……分かるな?』


 真偽の瞳に、ゆっくりと光が戻る。何かが叫ぶ声が、身の内に響いた。

 彼の言葉に頷けば、自分の命は助かるだろう。だが、それだけだ。浅海蒼輔は戻らない。

 けれど、犬神真偽の手の中には、もうひとつの切り札がある。


 褐色のかみさまはうっそりと笑った。怒りが滲むそれは、今まで見てきた笑顔よりも、ほんの少し人間じみていた。


『お前が願うなら、俺はもう一度、神として力を振るってやってもいい』


 どうする? と問いかけられて、真偽は無言で立ち上がった。

 どうする? どうするだって?

 そんなもの、とうの昔から、答えは決まっているじゃないか。


「真偽、やめるんだ」


 真事が静かに、だがやや震える声で告げた。銃を握る腕も小刻みに揺れている。神威かむいにあてられた体が、勝手に畏怖いふを感じているのだ。


「それは神だよ。しかも、神の中でも割とろくでもないものだ。私たち人間では、とても対価を払いきれない。そんなものに二度も願ったら――真偽が、どんな扱いを受けるか、」

「分かってるよ、真事姉さん」


 真偽は力なく笑った。


「でもね、先輩が死んだの、私のせいなんだ」

「そんなこと……」

「嘘じゃないよ。あのね、姉さんは知らないだろうけどね、今回が初めてじゃないの」


 はら、と、彼女の瞳から涙が零れた。泣きながら、絶望の滲む顔で笑う。


「先輩、一回死んでるの。私のせいで」

「……は」

「だから、全部、私が悪いんだ」


 卑しいな、と真偽は自分を罵った。蒼輔に二度目の死を与えてしまって、もう犬神真偽の罪は数え切れなくなった。十度地獄に落ちたって、きっとこのけがれは落とせない。

 なんなら、もう、浅海蒼輔を楽にしてやったほうがいいのかもしれない。二度も真偽のせいで死んだ人間を生き返らせることは、もうほとんど拷問みたいなものじゃないか? と思う。

 それでも、真偽はひどい人間だから、彼の命を諦められないのだ。


「待って、真偽。何か事情が――」

「ごめんね、真事姉さん。私のこと、許さないでね」

「真偽っ!」


 真事が叫んで駆け寄るより、真偽が無名に手を伸ばすほうが早かった。


「浅海先輩を助けて、無名むめい

『抽象的だな。そんなふうに願っていいのかい、愛し子』

「いいよ。先輩が五体満足で帰ってくるなら、先輩から私の記憶が消えたって、先輩が私を憎んでる世界に飛ばされたっていい。先輩の心と体さえ、戻ってくるなら。魂が、欠けたままだったとしても、元の先輩のままなら――私はもう、それだけでいいんだよ」


 かみさまはわらった。愛しい人形の愚かさを愛でるように。


『いいだろう。それなら、僕が思う『元通り』に、彼を戻してあげようか』


 褐色の神は真偽の手を取った。


『ああ、対価は気にしなくていい――実行と同時に、払ってもらうからね』


 奇妙な言葉を、理解する間もなかった。

 世界がぐるりと反転する。

 叫ぶ真事の声も、血にまみれた蒼輔の体も、犬神真偽の五感から掻き消えた。


 何がどうなるのか、彼女には何もわからなくて、ただひたすらに、浅海蒼輔の生存だけを願う。

 そのまま、意識が闇に溶けた。

情報量!という感じの話になってしまいました。ここから急展開です。

もはやホラーの体裁を成していないドファンタジー展開が続きますが、最終的にはハッピーエンドの予定なので安心してください(?)


蒼輔と真偽がどうなってしまうのか気になるという方は、ぜひブクマや星、いいねや感想等で教えていただけますと嬉しいです!

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