戻らずの禁
真偽は呆然とした。蒼輔の目は開いている。開いているのに、一切の光がない。明らかに、生きたもののそれではない。
理解を脳が拒んで、視線の先が横にずれる。事実を受け入れられないまま、情報量だけが増えていく。
蒼輔のすぐそばに、何かがいた。
何か、としか言いようがない。それにはおよそ実体というものがなかった。蠢く不定形の、泥の霧のような何かだ。黒いような、青いような、不可思議な色を纏っている。紫色の煙のような、おぞましい気体が体から染み出している。
ひどい匂いがする。何かが腐ったような匂いが、あたり一帯にばらまかれている。
ああ、とこぼれた声が、とっくに諦めの音をしていることに、真偽だって気づいていた。
目の前にいるものが何か分からない。見たことのない生き物に名前はつけられない。
だが、強いて言うならそれは獣だった。
なぜなら、異形の何かは、蒼輔の首に食らいついていたからだ。
鮮血が滴り落ちる。異形が口のようなものを動かすたびに、ぐぢぐぢと酷い音がした。人の肉を、牙で無理やり食いちぎる音だ。
視線を動かす。口で食らいついているなら、その近くにあるのが頭だろうか、とぼんやり思った。それなら、体はその先にひっついている、よく分からない細長い部分だろうか? やっぱり、犬に見えなくもないけれど――でも、そもそもこれに、形なんてものはあるのだろうか? ああ、違う、そうではなくて。
あれの心臓を見つけたら、刺せるだろうか?
妙に頭が冴えていた。本気で狂っている人間は、自分か狂っていることに気づけないのだという。今の真偽がそうなりかけていることに、本人だけが気づいていない。
獣のような、犬のような、そんな何かを目の前からどけたら、ひょっこり蒼輔が起き上がるのではと、彼女は本気で思っていた。
引き裂かれたスカートの裾に手を入れる。ガーターベルトに備えつけた、化け物を殺すナイフに指を伸ばした。心臓を刺したら、霧のような生き物でも消えるだろうか?
そうしたら、蒼輔は戻ってくるだろうか?
「離れな、真偽!」
鋭い叫びと共に、風船の破裂音を何倍にもしたような音が、耳元で炸裂した。一瞬、耳の奥がきいん、と震える。
同時に、不定形の異形の体表に何かが直撃して、弾けた。虹色に輝いたそれは閃光弾のようで、異形はたちまちギャアッと声を上げる。
振り返ると、真事が険しい顔で拳銃――のような何かを構えていた。銃口からは煙が上がっていて、後ろで修司が顎を落としている。
「真事さん、なんですかその銃!」
「知らん! なんか化け物に効くらしい!」
「なんですその使い道が超限定されてる銃は!」
「知らないってば! 家にあったんだよ! 使い道なら今あっただろう!」
「そういう問題じゃ……つーか家にそんな代物が落ちててたまるか!」
なんだかよく分からないので、二人の言い争いは一旦無視した。真偽は咄嗟に異形へ目をやる。
相変わらずどこが足でどこが頭なのかも分からない。だが、弾が当たったらしい箇所からは、ぼたぼたと青い液体が滴り落ちていた。ぐるぐるという唸り声も聞こえる。それだけなら、やはり犬のような――
「え?」
真偽は目を疑った。その犬の、おそらくは首だろうかというあたりに、きらりと光る何かがぶら下がっている。たとえるなら、首輪に付けたチャームのような要領で、ガラス片のようなものが揺れていた。
「せんぱいの、たましい……」
あれだ、と直感する。ただの飾りではない。あれこそ、浅海蒼輔のたましいだ。間違いなかった。
だって、この世で最も尊いものを、自分が見間違えるはずがないから。
「かえして!」
反射的にナイフを引き抜き、伸ばした手を、後ろからガッと掴まれる。
『ダメだよ愛し子。意味がない。本体がとっくに手遅れだ』
振り仰いだ先に、奇妙なほど表情のない無名がいた。
「離して! 先輩がっ……あの変な生き物、殺さないと!」
叫んだ瞬間、犬のような何かは不快そうに声を上げて、ひらりと身を翻した。そのまま軽やかに地を蹴ると、宙にふわりと浮き上がる。
唖然とする周囲の人間たちには目もくれず、それは廊下の端の、角の部分に向かって身を躍らせた。当然そこに扉などない。穴すら空いていない、ただの廊下の隅だ。だが、その直角の角に、異形の体はずるりと吸いこまれた。
「……え?」
しん、と廊下が静まり返る。信じられない光景に、真偽は全身から力を抜いた。
今……逃げた、のか?
ぺたん、とその場に座りこんで、真偽は呆然と辺りを見回した。異形が襲ってくる気配はない。
『……チッ。所詮は獣か』
無名が侮蔑のこもった声で呟く。その声にはっと正気を取り戻した。
「……せんぱい」
真偽はゆるゆると顔を上げ、這うようにして浅海蒼輔のもとへ向かった。力なく横たわる体の、その首からは、未だにどくどくと鮮やかな赤が流れている。
「せんぱい、ねえ、せんぱい」
肩を揺すっても、血が手を濡らすだけで、彼はぴくりとも動かない。明るい髪は赤に染まって、対称的に、血色の良かった頬は既に色を失っている。
中途半端に開いた瞳から、命が流れ出ている。
「やだ、ちがう、そんな……」
心がちりぢりになっていく。違う、おかしい、こんなはずじゃなかった。
だって、ここで彼が死んだら、全部、全部、失われてしまう。自分が今までやってきたことの意味も、彼自身のこれからの生も。
彼が、当たり前に受け取るはずだった、この先の未来全てが。
「いやだぁっ!」
悲痛な声を上げる真偽を、真事と修司が痛ましい顔で見つめている。だが、甲高い悲鳴を上げる彼女に、無名が静かに近寄った。
『愛し子』
低く、深い、絶対零度の声が空気を震わせる。
真事が咄嗟に臨戦態勢を取った。そういえば、この男は誰だ? と彼女は思ったが、無名は気にも留めずに真偽の肩を掴む。
『愛し子、聞け』
顔を上げた彼女に、彼は淡々と告げる。
『俺たちの契約は破られた。浅海蒼輔は死んだ。契約に必要な駒がなければ、どう足掻いたって契約は続けられない』
「そっ、れは……」
真偽の顔がざっと青ざめる。
契約の破棄。それは、たとえここで浅海蒼輔が何かの奇跡で生き返ったとて、どうにもならないことを示していた。約束自体がなかったことになるのだ。彼の命を救う術は、もう、どこにもない。なくなってしまった。
真偽の視界がゆっくりと暗くなっていく。
ナイフを持つ手が、ぴくりと震えた。
彼がこの世にいないなら、戻ってこないなら、もうなんの意味もない。
なんの、意味も――
『だが、これは違う』
彼はぎっとまなじりを吊り上げ、床を蹴って宙に浮き上がった。右手をかざすと、古びた羊皮紙で作られた契約書が出現する。
『俺たちの契約はこうだ。俺は『浅海蒼輔の魂の欠片を集める』という犬神真偽の願いに協力すること。目的を果たすまで、浅海蒼輔の魂の器たる、肉体の生存を維持すること。犬神真偽は全ての魂の欠片を集め終え、望みを果たした後、真偽自身の魂を俺に捧げること。だが、もしも魂の欠損が浅海蒼輔に知られた場合、契約不履行となり、犬神真偽の魂は即座に回収、どんな扱いをするかは俺に一任される――これらは互いの魂に基づいた契約であり、この契約書を破棄したとて、なかったことにはならない』
真偽は頷いた。もちろん覚えている。あの日に交わした約束の全てを。
命を懸けた契約のことを。
彼のために魂を捧げることすら、あの日の真偽は厭わなかった。彼が生きているなら、自分の魂の有無なんて瑣末事だ。だから契約したのに、これでは、もう。
『だが、これは俺も予想していなかった』
ぐしゃり、と契約書を握りつぶして、彼は瞳に怒りを燃やした。
『誰が、横から契約を破棄するなどと思う? しかも、俺と同等の力すら持たない、人に飼われる卑しい畜生ごときがだ』
真偽は呆気に取られた。口調も態度も普段と異なる彼の姿を、ぽかんとしながら見つめる。
気が動転しすぎて気づいていなかったが、このかみさまは、もしかして、怒っているのか?
彼は、異形が消えた廊下の隅を見つめて、怨嗟にまみれた声を出した。
『神のものに手を出して、ただで済むと思うなよ。かつて幽世の住人に飼われ、人間にすら首輪をつけられた畜生が』
そして、唖然とする真偽に向かって手を伸ばす。
『真偽、腹立たしいが、これは俺の落ち度だ。あのような下賎な種族に邪魔をされるとは思っていなかった……故に、願うことを許す』
「ね、がう……?」
『このまま契約を破棄するなら、お前の魂は見逃してやろう。何せ契約完了でも不履行でもない。お前の魂をもらう道理がどこにもない。契約は破棄として、俺はあの卑しい畜生を八つ裂きにしに行く。それで終わりだ。だが……分かるな?』
真偽の瞳に、ゆっくりと光が戻る。何かが叫ぶ声が、身の内に響いた。
彼の言葉に頷けば、自分の命は助かるだろう。だが、それだけだ。浅海蒼輔は戻らない。
けれど、犬神真偽の手の中には、もうひとつの切り札がある。
褐色のかみさまはうっそりと笑った。怒りが滲むそれは、今まで見てきた笑顔よりも、ほんの少し人間じみていた。
『お前が願うなら、俺はもう一度、神として力を振るってやってもいい』
どうする? と問いかけられて、真偽は無言で立ち上がった。
どうする? どうするだって?
そんなもの、とうの昔から、答えは決まっているじゃないか。
「真偽、やめるんだ」
真事が静かに、だがやや震える声で告げた。銃を握る腕も小刻みに揺れている。神威にあてられた体が、勝手に畏怖を感じているのだ。
「それは神だよ。しかも、神の中でも割とろくでもないものだ。私たち人間では、とても対価を払いきれない。そんなものに二度も願ったら――真偽が、どんな扱いを受けるか、」
「分かってるよ、真事姉さん」
真偽は力なく笑った。
「でもね、先輩が死んだの、私のせいなんだ」
「そんなこと……」
「嘘じゃないよ。あのね、姉さんは知らないだろうけどね、今回が初めてじゃないの」
はら、と、彼女の瞳から涙が零れた。泣きながら、絶望の滲む顔で笑う。
「先輩、一回死んでるの。私のせいで」
「……は」
「だから、全部、私が悪いんだ」
卑しいな、と真偽は自分を罵った。蒼輔に二度目の死を与えてしまって、もう犬神真偽の罪は数え切れなくなった。十度地獄に落ちたって、きっとこの穢れは落とせない。
なんなら、もう、浅海蒼輔を楽にしてやったほうがいいのかもしれない。二度も真偽のせいで死んだ人間を生き返らせることは、もうほとんど拷問みたいなものじゃないか? と思う。
それでも、真偽はひどい人間だから、彼の命を諦められないのだ。
「待って、真偽。何か事情が――」
「ごめんね、真事姉さん。私のこと、許さないでね」
「真偽っ!」
真事が叫んで駆け寄るより、真偽が無名に手を伸ばすほうが早かった。
「浅海先輩を助けて、無名」
『抽象的だな。そんなふうに願っていいのかい、愛し子』
「いいよ。先輩が五体満足で帰ってくるなら、先輩から私の記憶が消えたって、先輩が私を憎んでる世界に飛ばされたっていい。先輩の心と体さえ、戻ってくるなら。魂が、欠けたままだったとしても、元の先輩のままなら――私はもう、それだけでいいんだよ」
かみさまは嗤った。愛しい人形の愚かさを愛でるように。
『いいだろう。それなら、僕が思う『元通り』に、彼を戻してあげようか』
褐色の神は真偽の手を取った。
『ああ、対価は気にしなくていい――実行と同時に、払ってもらうからね』
奇妙な言葉を、理解する間もなかった。
世界がぐるりと反転する。
叫ぶ真事の声も、血にまみれた蒼輔の体も、犬神真偽の五感から掻き消えた。
何がどうなるのか、彼女には何もわからなくて、ただひたすらに、浅海蒼輔の生存だけを願う。
そのまま、意識が闇に溶けた。
情報量!という感じの話になってしまいました。ここから急展開です。
もはやホラーの体裁を成していないドファンタジー展開が続きますが、最終的にはハッピーエンドの予定なので安心してください(?)
蒼輔と真偽がどうなってしまうのか気になるという方は、ぜひブクマや星、いいねや感想等で教えていただけますと嬉しいです!




