暮色蒼然
ふっと、犬神真偽は目を覚ました。雪の中から掘り起こされて、光の下に投げ出されたような、唐突な目覚めだった。
視界の中で揺れる黒と青に、ぱちり、と瞬く。
「……真事、ねえ、さん?」
「あ、真偽、起きた?」
彼女はすらりとした手足を床につけ、片膝を立てた姿勢で本を読んでいた。懇談会のときはドレス姿だったのが、いつのまにかスキニーとざっくりしたニット姿に変わっている。
だがそちらのほうが、家鳴真事としては見慣れたスタイルだった。
彼女は薄く微笑むと、ぱたんと本を閉じる。
「目覚めはどう? 状況、覚えてる?」
「状況……」
呟いた瞬間、ノイズがかった記憶が濁流のように脳内に流れ込んだ。ぱち、と大きく瞬くと同時に、視界が一気にクリアになる。同時に、顔からさあっと血の気が引いていった。
「ま、真事姉さん、私……」
「うん?」
「どうしよう……私、私……これまで、犬神様に選ばれないように、目を合わせないように、ずっと……なのに……」
「ああ、その話は後だ。当主になってしまいそうでどうしたらいい、なんてのは、これからいくらだって話し合える。さしあたって、明日もう一度、依代の君に次代当主を選んでもらうことになったから、それを待ってもいいし」
真偽はなかば呆然として、すらすらと言葉を紡ぐ従姉を見た。彼女は、なんの心配もないという顔で真偽を見ていた。
「そうだ真偽、一つだけ聞きたいんだけど」
「な、なに……?」
「その言い方だと、やっぱり犬神様に祈ってはいないんだね?」
真偽はひゅっと喉を鳴らした。喘ぐように呼吸をして、必死に首を横に振る。
「い、祈ってない。絶対、祈ってない」
「うん、だろうね」
真事は頷き、次いで、ぽんと放り投げるように尋ねた。
「なら、別の神には祈った?」
今度こそ、呼吸が止まった。
指先から喉元まで、凍りついたように動けなくなる。
何か言わなければ、と思う。
誤魔化さなければ。なんでもいい。言い訳になるようなことなら。
そう思うのに、声帯はちらとも言葉を発さなかった。
ああ、ダメだ、と思う。
犬神真偽は嘘をつくのが苦手だ。上手い嘘がつけた試しがない。大抵どこかで小さなボロが出て、芋づる式に全部バレる。本当は、蒼輔の前でなんでもない振りをするので、精一杯なのだ。
特に、そんな無様な張りぼては、家鳴真事には通用しない。彼女は化け物じみた勘と、恐ろしいほどの知識でもって、すぐに方程式を組み上げられる。
真偽の頭にあるのは「これがバレたら蒼輔が死ぬ」という、異様に飛躍した恐怖だけだった。
「真偽、息をしな」
真事が真剣な声音で言う。
「ほら、吸って。1回でいい……そう。そしたら吐いて――」
言われた通りに呼吸を繰り返す真偽の頭を、なだめるように真事の手が撫でた。
「ごめんごめん、びっくりしたね。あんたが神に祈っていようといまいと、別にどっちでもいいんだよ。ただ、真偽は昔から、そういうときばっかり抱え込むからね」
のろのろと顔を上げると、澄み渡った青空のような瞳が、緩く細められていた。
「いつもだったらすぐ泣きつくのに、とんでもないことになったときは誰にも言わないんだから……少しは頼りなよ。真偽、一人じゃないだろう?」
泣きそうになって、首を横に振る。
「……先輩に……」
「うん?」
「先輩にだけは、言わないで……言ったらダメなの……」
お願い、と掠れた声を出すと、真事はしばし言葉を失った。
「そういうことか。やっぱり、神ってのは厄介だな……何かよく分からないけど、浅海くんに何かが知れると、ダメなんだね? ペナルティはどれくらい? 多分、それを負うのは彼なんだろうけど」
「……先輩、死んじゃう……」
「………………うーん、そう来たか」
彼女はあからさまに眉を下げた。
「とりあえず、彼に何が知れたら困るのか、私に言うことはできる?」
「真事姉さんになら、言える……」
「ふうん、そういう縛りか。対象範囲を絞ることで、発動効果を高めるタイプか……? 嫌なことをする」
彼女はやおら立ち上がって、真偽に手を差し伸べた。
「じゃ、お風呂で聞かせてよ。今ならまだ懇談会も続いているはずだから、大浴場はがら空きだろうし。浅海くんに聞かれることもない」
真偽は少し迷って、しかし最終的には頷いた。そっと手を伸ばして、彼女の手を取ろうとする。
だがそのとき、すさまじい勢いで、誰かの足音がこちらに近づいてくるのが分かった。はっと扉を見ると同時、ばあん! と派手な音を立てて扉が開く。
「真事さん!」
入ってきたのは修司だった。風呂上がりなのか、彼は浴衣姿で、髪からは雫が落ちている。額からだらだらと汗を落として、彼は転げるように部屋の中に入った。えげつない形相だった。
「真事さん、来てください! 早く!」
「は? 修司、何を……」
「いいから急いで! 蒼輔が大変なんですよ!」
真偽の顔からさらに血の気が引き、思わずドレス姿なのも構わずに立ち上がる。よろけるような勢いで修司のそばに駆け寄った。
「な、なにが……そ、蒼輔さんは? どうしたんですか? なんで、ここにいないんですか?」
「そうだ。君ら、二人で大浴場に言っただろう」
修司は真偽を一瞥して、ほんの一瞬、顔を歪めた。その表情にさらに全身から力が抜ける。それは、痛ましいものを見る目だった。
どうして、そんな顔をするのだろう。
どうして。
だが、彼は切り替えるように首を振ると、真事をまっすぐ見つめた。
「すいませんけど、口で説明できないんですよ! とりあえずこっち来てください、早く!」
真事は逡巡すらしなかった。そばにあったジャケットをひっつかんで羽織り、そのまま先陣を切って飛び出す。
それを見て、修司が真偽の方を向いた。
「あんたも!」
真偽はその叫びに、雷に撃たれたかのようにびくりとはねて、反射的に動いた。修司に続いて部屋を飛び出し、真事の後を追う。
「修司、場所は!」
「大浴場の手前の廊下です!」
「何があった! 簡潔に結論だけ言って!」
「っ、蒼輔が何かに襲われてます!」
真偽の顔が、青を通り越して白くなった。少しでも気を抜けば倒れてしまいそうだった。
「何かって何!」
「知りませんよ! バケモンみたいな何かです!」
「それでもなんかあるだろう! 機械みたいだったとか、鬼みたいだったとか!」
あまり同列に語られることのない存在である。修司は呆れたように叫んだ。
「知りませんよ! 強いて言うならありゃ霧です!」
「霧ぃ!?」
「あるいは、犬か、や、虎かもしれねえけど……!」
真偽がはっと顔を上げる。真事もこちらを振り返っていて、ばちりと視線が噛み合った。全てを分かっているもの同士の目だった。
ああ、そうか、と思う。
不安が形になった代わりに、真偽の心は凪の地獄に落とされた。すうっと目の前が遠くなって、視界の中が、枠をへだてた絵画のようになる。
分かっていたはずなのに。彼をここに連れてきたくなかった理由が、この家には山とあったはずなのに。
それでも真偽は連れてきた。そうするしかなかったと言い訳を並べて、連れてきてしまったのだ。
だからやっぱり、私が全部悪い。
「嘘だろう、本気でまずいね」
真事が呟いた瞬間、真偽は無意識にスピードを上げていた。既にスカートの裾は疾走に耐えきれずに裂け、なんなら襟元の飾りは引きちぎった。ゆらゆらと揺れていて邪魔だったのだ。
「真偽!」
後ろからの声は聞こえていなかった。目的地に繋がる最後の曲がり角を曲がって、誰より早く辿り着く。
果たしてそこに、浅海蒼輔は確かにいた。
「せん、ぱい」
彼は、首から毒々しい赤色をぶちまけて、だらりと四肢を投げ出し、その場に横たわっていた。




