懇談会(1)
「戻ったら駄目ってなんだ……?」
三十分後、浅海蒼輔は衣装室で首をひねっていた。周りを忙しなく歩いているスタイリストたちの中心で、思考をぐるぐると回す。
「お兄さん、動かないでくれます?」
「え? あ、はい! すいません」
思わず左に傾いていた顔を強制的に戻され、髪をセットされる。蒼輔は今、懇談会のための準備を全身に施されている最中だった。「戻ったら駄目」の意味を聞こうとした矢先、懇談会の準備について伝えに来た護衛によって、二人はあれよあれよという間に、別々の衣装室に入れられてしまったのだ。
というか、結婚式の花嫁じゃあるまいし、スーツを着て真偽の隣に立つだけの男にここまでしなくてもいいと思うが……まあそこはそれ、犬神家の面子があるのだろうと、蒼輔は勝手に納得している。ものすごく気まずいが。
というか、視界の右端で金庫か? という大きさのメイクボックスを開いている人がいるが、まさかあれを自分に使うつもりだろうか……
「お兄さん、動かないでください」
「あ、すいません……」
髪をセットしている二十代後半ほどの青年が、氷点下の声で言う。激務なのか、彼の目は死んでいた。怖すぎて反射的に頷くしかない。
隣の衣装室から、女性のスタイリストと楽しく談笑している真偽の声が聞こえてきた。頼むから今だけこっちに来てくれないか。
「あの子、お兄さんの彼女ですか」
不意に投げかけられた声に、ふっと意識が浮上する。目の前の鏡に映るスタイリストが、髪を整えながらこちらを見ていた。相変わらず、そこには表情がない。
「あ、え、まあ……一応?」
「一応ってなんすか。婚約者とかじゃないんですか。懇談会に男女で出るって、そういうことでしょ」
すさまじくだるそうな話し方だった。彼の視線はどこまでも鏡の中の蒼輔の髪に向いていて、明らかに片手間の会話である。
「まあ、俺も臨時の雇われなんで、よく知らないすけど。でも大体恋人か、婚約者でしょ。今日俺が担当した男女、全員そうだったし」
「そこまで分かってるなら確かめなくても……まあ、一応、婚約者ですけど」
「へえ。よくやりますね。あの子、すごいのに憑かれてますけど」
「は? 疲れて……?」
眉をひそめた蒼輔をちらりと見て「違う違う」と彼は言う。
「『憑かれて』るんですよ。幽霊とか、そっち」
「……は?」
「つーか、この家もヤバいですけどね。俺、今日初めてここ来ましたけど、来た瞬間吐きましたもん」
「は!?」
ぎょっとして振り返りそうになり「ちょっと、動かないで!」と無理やり頭を戻される。
「吐いたって……」
「たまにあるんすよ。俺、そういうの感じやすいから」
たまに頭痛がするんですよね、とでも言いそうな雰囲気で、彼はあっけらかんと言う。
「あと、アンタもなんか、変な匂いしますよね。や、変な匂いっつーか……生きてる人のくせにすげえ無臭なのが、気になるだけっすけど」
「……? なんですか、無臭って」
何かつけていたかと袖口を嗅ぐが、糊のきいたスーツの匂いしかしないかった。というか、無臭とは?
すると、男は放り投げるように言った。
「たまにいるんすよね。死人の匂いさせてる人」
は、と吐息が口からこぼれた。
死人? 死人って言ったか、今?
「死にかけた人間と同じ匂いなんすけど……まあおおかた、最近事故に遭ったとかそんな感じでしょ。たまに残り香ある人いるし。若いのに大変すね」
「……」
もう何も答えられない。冷えた汗が背を伝った。
他人から平然と「死にかけてますね」と言われたのだから、普通に怒っていい場面だろうに――舌の付け根が固まったように動かない。むしろここで「大怪我や大病とは生まれてこのかた無縁」などと伝えて、どういう反応が返ってくるかが怖い、とすら思っていた。
この男が、嘘をついているようには思えなかったからだ。
自分の体の中を、肌の内側を、虫が這っているような不快感が急にわきあがってくる。
「アンタと、あの女の子と、この家。数え役満みたいな雰囲気してますよ。気をつけてくださいね」
ぞっとするほどの無表情で、彼が鏡の中の蒼輔を見た。
「ここの空気もそこそこヤバいすけど、懇談会の場所が一番最悪なんで。毒の坩堝ですよ、あそこ」
「……あの」
ふと視線を上げた男に向かって、蒼輔はからからに乾いた口で尋ねた。
「『戻らないで』って、どういう意味だと思いますか」
鏡の中で、ハイライトの消えた瞳が瞬く。訳が分からなかっただろう。蒼輔だったら、こんな質問を急にされても困る。
それでも、彼は一瞬眉をひそめて、答えた。
「……よく分かんないすけど、それ、『禁』ですか? なら破らないほうがいいすよ。あー、戻らないで、ってのは……」
何を考えているか分からない目が、空中を泳ぐように滑り、ぴたりと止まった。
「後戻りするな、ってことじゃないすか? ほら、よく言うでしょ。行きはよいよい、って」
硬直する蒼輔の前で、男がワックスの蓋をぱちんと閉じる音が、やけに大きく響いた。
◇◇◇
三時間後、蒼輔は懇談会の会場だという、やたら広いホールにやってきていた。当たり前のように隣には真偽がドレス姿で立っており、実に自然に、蒼輔と腕を組んでいる。
後ろにひっそりと控える護衛たちは「やっぱあれで偽の婚約者は嘘だろ」と思ったが、当人たちはどこ吹く風だった。
「うーん、やっぱり人多いですねえ」
舞踏会かというほど広い会場にひしめく人々を見ながら、真偽がほう、と息をつく。蒼輔は視線だけで彼女を見下ろした。
「いつもこんなんじゃないのか?」
「私もこういう集まりに何回も出たわけじゃないですけど、今回は特別多いですよ。やっぱり遺言状があるからかなあ……」
彼女は周りをきょろきょろと見回しつつも、親戚の誰かと目が合いそうになるとふっと逸らし、さりげなく蒼輔の腕を引いて会場内をぐるぐると回る。話しかけられないようにしているらしい。
蒼輔も特に抵抗しなかった。というか、彼女のためにもあまり下手に動けないのだ。何せ今、真偽はえげつない高さのヒールを履いている。
七センチです! と誇らしげに言われたが、蒼輔からするとほぼ限界値まで達したつま先立ちである。おかげでいつもより目線は近いが、代わりに転びやしないかとひやひやしているのだった。
「あ、蒼輔さん。あっちのお肉美味しそうですよ。行きましょ」
「お前本当に色気より食い気だな……いっそ安心するが……というか、なんか俺たち、遠巻きにされてないか?」
料理の並んだテーブルまで歩きつつ、蒼輔は眉をひそめた。ビュッフェ形式のテーブルには何人かの男女がいたのだが、蒼輔たちを見るなり変な顔をして去っていった。やはり、意図的に避けられている。
すると、真偽の顔が少しだけ申し訳なさそうに曇った。
「多分、榊のおばさまが何か言ったんじゃないですかね……おばさま、うちの家の中でも犬神様に心酔しているひとだから……」
「ああ、なるほど」
蒼輔はあっさり頷いた。そういえば、あの女性との初対面の場で、自分は犬神様とやらをボロクソに言ったのだった。それはまあ、嫌な噂の一つや二つ、広められたとて仕方がない。
浅海蒼輔は諦めの良い男だった。
「真偽、ローストビーフ食べるか? ここ、俺がいるおかげで人が来ないから食べ放題だぞ」
「すごい開き直ってる……えっじゃあ三枚ください」
「お前もだいぶ吹っ切れてるな」
呆れつつローストビーフを取り分けようとして、ふと、彼女のまとうドレスが目に入る。
「待て。勧めといてアレだが、ドレスなのにそんなに食べて大丈夫か?」
「私がこういうドレス何回着てきたと思ってるんですか? どれくらい食べたらお腹出ちゃうのかくらい学んでます!」
「絶対にこういう場で学ぶべきはそれじゃないと思うけどな……」
誇らしげに胸を張る真偽になんとも言えない顔をしつつ、蒼輔はひょいひょいと肉を取り分けた。まあ、ちょっとくらいこの後輩のお腹が出たところで気にもしない。そもそも細すぎるのだ、犬神真偽は。
そのときふと、後ろから声がかかった。
「あれ、もしかして真偽?」




