元凶・犬神真偽(2)
そもそもの話、どう考えても怪しい村に行くことよりも、男女二人で同じ宿に泊まることのほうが問題なのではないか?
そう思ったのは、龍蛇村へ向かうために、犬神家が用意した車に乗り込んだ後だった。
後輩の家に車を出してもらうなど、普段だったら余裕で断っていたのだが、犬神が浅海の家まで車で乗りつけてきたのだ。
「先輩、迎えに来ました!」
「……は?」
朝っぱらから唖然とする浅海の背中を、歳の近い妹――紫音がばしんと叩く。
「行ってきなよ蒼兄! 真偽ちゃんにここまで準備させといて断るなんてありえないから!」
「なんでお前がそんなに乗り気なんだ、紫音……」
苦虫を噛み潰したような顔で車に乗り込むと、寡黙そうな運転手がぺこりと頭を下げた。本当に運転手まで用意している。胃が痛い。
隣ではにこにこと微笑む犬神真偽が、いつもよりもやや重装備で座っていた。山奥に行く自覚はあるらしく、肌を出さないパーカーとラフなジーパンに、足首までしっかり覆うタイプのスニーカーを履いている。そして、おそらく全てがブランドものだ。咄嗟に値段を考えてしまい、思考に蓋をする。
「おはようございます! 晴れて良かったですね〜」
「犬神……駅集合って話だっただろうが」
恨みがましく見つめると、犬神はへらりと笑って言った。
「こっちのほうが早いんですよ。龍蛇村って山の奥のふかーいところにありますから、どうせ電車の後はタクシーでも使わないと行けませんし。それより最初から車で行った方が早いじゃないですか」
半分本当で、半分嘘だなと思った。彼女は、そもそも浅海に何かしらの金を払わせることを嫌がっている節がある。電車代やタクシー代すら出させたくないのだろう。わざわざこんな、騙し討ちのようなやり方をするくらいだ。
「おい犬神。俺の家のことなんか気にするなよ」
「はい?」
「俺が片親で、兄弟が多いからって、何でもかんでも金を出そうとするなって話だよ。情けなさすぎるだろうが。後輩の女の子に金を出させてゼミの課題をやる男は」
「先輩は情けなくなんかありません」
いやにきっぱりと言い放ち、彼女は真剣な目でこちらを見つめた。
「私は、私がしたいようにしているだけですから。お金とかも……別に、気を使って出してるわけじゃないですよ。お金なんて、あるところから出せばいいって思ってるだけです。ていうかこれ、厳密には私のお金じゃなくて家のお金ですし」
「余計にだめだろ。俺の気が済まない」
「先輩って頭かったいですよね!」
突然の罵倒だった。彼女はぺかーっとした笑顔で続ける。
「貰えるものは貰っとけばいいんですよ。自分の持ってるものすら、いつなくなっちゃうかなんて誰にも分かんないんですから」
少しだけ目を伏せて、彼女は言う。かすかに憂いを帯びているような気がして、浅海は首を傾げた。
「犬神?」
「あ、そういえば浅海先輩、今日のお宿の話なんですけど」
彼女はいつの間にかたぷたぷとスマホを操作しながら、話題をするりと変えた。
出鼻をくじかれて鼻白む。彼女はいつもこうだ。興味の対象がころころ変わるし、本当に興味のないことはすぐに忘れる。
彼女はぱっとスマホの予約画面を見せてきた。
「村長さんが民宿やってて、そこに泊まるんですよ。フィールドワークの許可も宿泊予約と一緒に取っておいたので、挨拶がてら最初に行きましょうね!」
「はあ、まあそれは構わないけど……いや、待て。犬神」
「はい?」
「予約画面見せろ」
半ば強引に手を引く。落ちそうになったスマホを支えて覗き込むと、浅海は頬を引きつらせた。
「お前これ……また一部屋しか予約してないな!?」
「え、二部屋必要ですか? 二人しかいないのに」
「必要だろうが、馬鹿!」
大声で叫んでからはっとして運転席を見てしまう。まずい。犬神家で働いている人の前で犬神家の一人娘を罵倒してしまった。今、彼女の親にでも連絡されたら終わる。
だが、バックミラーに映る彼はなんとも言えない顔をしていた。なんというか、駄々をこねまくる弟を見ているときの自分に似ている。「全然言うこと聞かないんだよな……どうしようかな……」みたいな顔だ。
当の犬神はきょとんと首を傾げている。まさかとは思うが、もしかして家でもこんな調子なのだろうか……?
使用人の苦労が浮かばれる。
「あのなあ犬神……成人した男女が同じ部屋に泊まるのはどう考えてもダメだろ。これ毎回言ってるよな?」
「え、でも先輩、座敷童子のお宿に行ったときは、部屋をわけたこと怒ってたじゃないですか」
「あれはお前が勝手に部屋の御札はがしたからだろうが! 一言相談しろ! 部屋を分けたことじゃなくて、俺の目の届かないところで変な行動したから怒ってんだよ!」
彼女はぱちくりと瞳を瞬かせる。そんな「初めて知りました」みたいな顔をされても。
「相談したら、部屋分けなくてもいいんですか?」
「いやそれは分けろ。貞操観念どうなってる?」
ぴしゃりと言うと、彼女は解せぬ……みたいな顔をしていた。その顔をしたいのは浅海のほうだ。
「お前のところの情操教育はどうなってるんだよ……犬神、それ軽率に他のやつにもやるなよ。普通に考えて誘われてると思われる」
「先輩以外とフィールドワークに行くことなんてありませんよ」
「そういう問題じゃないんだよ」
そもそも犬神に友達はいないのだろうか? と一瞬思ったが、多分そういうわけでもない。彼女は浅海と授業が被ればいそいそと隣にやってくるし、食堂でも当然のように浅海の向かいに座ってくるが――友人らしき人と一緒にいるところを見かけないわけではないのだ。ただ、浅海を見つけた瞬間に犬のように駆け寄ってくるだけで。
浅海はなんだか急に心配になってきた。何をどうしてこうも懐かれているのか分からないが、別に自分は、彼女の交友関係を破壊したいわけじゃない。
「犬神、お前、俺を心配してくれるのはいいが、あんまり友人関係を疎かにするなよ」
「へ?」
素っ頓狂な声を出す彼女に、浅海は難しい顔で言う。
「お前、俺と会うとき大体いつも友達ほっぽってくるだろ。ああいうのは良くない」
「お父さんみたいなこと言う……先輩だってあんまり友達と一緒にいないじゃないですか」
「いやそれはバイトが多いんだから仕方ないだろ。ていうか、俺のことはいいんだよ。お前は俺と違ってバイトもしてないし、友達との時間作れるだろ」
「いや、だって、一人は寂しいじゃないですか」
思いもよらない言葉に、浅海はぴしりと動きを止めた。犬神は存外真剣な顔をしていた。
「一人だと、寂しいでしょう、先輩が」
「……そんなことはない」
「ええー、本当ですか? 私は寂しいですけどね、一人」
「? お前は一人じゃないだろ」
犬神真偽には友人がいないどころか、おそらく多いほうだ。食堂で見かけるときの彼女は、見るたび別の誰かと歩いている。
だからこそ浅海に構いすぎるなという話をしているのに。
それなのに、彼女は何故か、少しだけ寂しそうに笑うのだ。
「どうですかねえ」
わずかに首を傾けて、虚空を見つめるような目をした。そのままシートベルトに頭を預けて、何かを考え込むように目を閉じる。
なんだろう、と思う。この猪突猛進で勇往邁進な彼女も、寂しいとか悲しいとか、そういうふうに思うことがあるんだろうか?
不思議だった。好きなことを自由にやれる金があって、誰とだって仲良くできる器があって、それでなお浅海に構う理由が、寂しいからだなんて。
もしかして本当に彼女は、浅海以外とフィールドワークに行かないつもりなのだろうか? 自分が卒業したらどうするんだと思ってしまうが……
なんとも言えないまま口を閉じていると、不意に、彼女が静かすぎることに気づく。
「おい、犬神?」
声をかけるが反応がない。まさかと思って覗き込むと、穏やかな寝息が聞こえてきた。
思わず浅海は軽く仰け反る。嘘だろう、こんな唐突に寝られるか、普通?
呆然とする浅海を前に、犬神は呑気に寝息を立てていた。シートベルトを枕のようにして眠っている。こうなると多分、しばらくは起きないだろう。
というか、有耶無耶になってしまったが、結局のところ宿は一部屋しか取れていないのでは?
浅海は頭を抱えた。とりあえず、自分は何もしていないしこれからもしないという誓約書を作るべきかもしれない。犬神真偽の実家にかかれば、こんな苦学生一人、いないも同然である。浅海蒼輔はまだ死ねないのだ。肉体的にも、社会的にも。