犬神様の忠告
誰だ? と眉をひそめた蒼輔の前で、真偽がにこりと笑みを顔に貼り付ける。
「お久しぶりです、榊のおばさま」
「まあまあまあ、こがに大きゅうなってしもうて! げに久しぶりねえ、何年ぶり? 和泉の兄さんのお葬式には来れざったやない?」
「父が体調を崩してしまいましたので……」
真偽はまるで深窓の令嬢のように微笑み、控えめに頭を下げたり口元に手を当てて笑っている。とてもじゃないが、御札を躊躇なく剥がしたり祠を壊したりする人間とは思えない。
そのときふと、女性はちらりと蒼輔を見た。挨拶をすべきかと思ったが、そのまま彼女は視線をすべらせ、件の剥製たちに目を向ける。
「犬神様もきっと喜んじゅーわ。ほら、挨拶はすました?」
犬神……様?
そこで初めて、蒼輔は違和感を覚えた。
女性は陶酔した顔で、奇形の剥製たちを見ている。
「幸子の姉さんまで死んでしもうて、今回ばっかりはどうなることか思うたけんど、そうよねえ、まだ女の子はいっぱいおるものねえ」
何を言っているか分からないのに、ぞっと背筋が冷えるのを感じる。そして、女性は何故か、奇形の剥製たちに向かって手を合わせた。
「犬神の家がここまでやってこれたのも、ぜーんぶ犬神様のおかげやきね。真偽ちゃんも拝まんといけんわ。ほら、ちゃんと祈りや。ね?」
「……はい」
真偽は笑顔のまま頷いていたが、その手がかたりと震えたのを、蒼輔は見逃さなかった。よく見れば、その顔はいつもよりも青い。
何か、恐ろしいことを今からしますとでも言うような、悲壮な決意を固めた顔で、彼女は異形の犬たちに向き直る。
咄嗟に、蒼輔は口を開いていた。
「やめろ真偽。そんな気色悪いものに祈るな」
その場にいた全員がびしっと固まった。二人がまっすぐに蒼輔を見る。真偽は呆けた顔で口を開け、女性は何を言われたか理解できない様子で、こぼれ落ちんばかりに目を見開いていた。
蒼輔は心の中で犬たちに謝りつつ、できるだけ尊大な態度に見えるよう、呆れた視線で真偽を見下ろす。
「お前の家、奇形の神でも祀ってんのか? 別になんでもいいけど、俺の前で気色悪いものに祈んなよ。頭おかしいみてえに見えるだろ」
バイト先の、ややガラの悪い社員の言葉をどうにかこうにか思い出して真似る。目つきだけならあの社員に負けないくらい悪いので、違和感はないはずだ。
「あんた、今なんて言うた?」
ぞっとするほど低い声で女性が言う。蒼輔は割と本気でビビりながらも、なんとか顔には出さないようにして真偽の腕を引く。
「気色悪いものに祈ってる暇なんかないって言ったんだよ。真偽、行くぞ。懇談会だってもうすぐなんだろ。俺はその前に休みてえ。客間は?」
目だけで必死に「逃げるぞ!」と彼女に伝える。何がなんだかさっぱり分からないが、ここにいるのはまずいというのが本能で分かった。
極めつけにもう一度、腕をぐいと引く。真偽はたちまち瞳に光を取り戻して、こっくりと頷いた。
「あの、あっちです! ええと、榊のおばさま、また懇談会で!」
一応の挨拶を投げっぱなしにして、二人は徒歩と競歩の中間くらいの足取りでその場を去る。女性はもう何も言わず、しかし瞬きすらしないまま二人をじっと見つめていた。恐ろしいくらいの無表情だ。
後ろから突き刺さる視線を感じながら、なるべく急いでいると思われないような速度で歩く。このときばかりは二人とも心を一つにしていた。
階段をのぼりきり、あの女性の視界から逃れたところで――二人は全速力でその場から逃げた。毛足の長い絨毯が足音を消してくれたのが幸いである。二人は無言で回廊を走り抜け、真偽が目線だけで「ここです!」と指し示した部屋に滑り込む。
蒼輔がガチャンと部屋の内鍵をかけて一拍、二人で顔を見合わせる。
「追ってきて……ないよな?」
「た、多分、大丈夫です。ちらちら後ろ見てましたけど、おばさま、いなかったし……」
二人して大きく安堵の息をつき、同時にずるずるとその場に座り込んだ。
「おい犬神……なんだったんだあれは……」
地獄の底から響くような声で蒼輔は言う。呼び方が戻ってしまったが、気にする余裕がない。
「なんだあの……犬……犬か? あれは犬なのか? つーかあれは剥製なのか? ていうか犬神様ってなんだ?」
矢継ぎ早に問いかけられた真偽はぐっと口ごもって、しかしおずおずと告げる。
「ええと、犬神様は、犬神の家が代々祀っている神様……みたいなものです」
「あの……奇形の犬が、か?」
「あれは、なんていうか、姿絵に近くて。本物の犬神様はこう、ちょっと言葉では言い表せない姿をしているみたいなので……」
なんだそれは、と思ったが、蒼輔は口を噤んだ。
代わりに、気になっていたことを聞いた。
「犬神様って……あの犬神か? 飢えた犬の首を切り落として、その憎悪の感情を使って呪うとかいう……」
民俗学を専攻している蒼輔にとって、犬神という名は呪術のイメージが強い。
犬の首から下を土に埋め、目の前に餌を置いたまま、飢え死に寸前まで衰弱させた上で、犬の首を切り落とす。そうすると、飢えた犬の首だけが跳ねて餌に食らいつく……が、体はもう死んでいるので飢えが満たされることはなく、食べても食べても飢えが止まらない。その憎悪が、犬神という呪いに変わるのだ。
彼女はこっくりと頷く。
「初代の当主が財政難に陥ったときに、藁にもすがる思いで生み出したのが犬神様です。結果的に家は持ちこたえて、それからどんどん発展したとかで……そこから家の名前も犬神姓に変えたらしいんですよね。だから、本家に近い人ほど、犬神様に心酔している人は多くて……」
蒼輔は話を聞きながら、顎に手をあててちょっと考えた。
「もしかして、ここに来るまでの回廊に、やたら微妙な造形の犬の絵が飾られてたのも……」
「犬神様のことをなんとか絵姿に残そうとした、代々の当主の努力の賜物と言いますか……狂気の産物と言いますか……」
難しい顔で真偽が言う。偶像崇拝してもいい神なのか……と、蒼輔は明後日の方向に思考を飛ばしかけて、ぎゅっと目をつりあげた。
「ちょっと待て、なんで黙ってたんだ。悲鳴上げるとこだったぞ、人の家の入り口で」
「うっ、それは本当にごめんなさい……でもだって、事情をよく知らない人に本家の犬神様のこと話すと、十中八九、ヤバい宗教だと思われちゃうんですよ! いや、ヤバい宗教みたいなものではあるんですけど……」
「それはまあ、否定できないが……」
蒼輔だって、あの異形の剥製を見ないまま犬神様とやらの話を聞いていたら、真偽の頭がいかれてしまったのかと思っただろう。
「というか、お前、フィールドワークやら民俗学やらは大好きなくせに、こういうのはダメなのか?」
訝るように問いかけると、彼女は勢いよく顔を上げた。
「いや、だって、呪いですよ! 人を傷つけるやつですよ! あとワンちゃんが死んでるかもしれないんですよ!?」
真偽は地団駄を踏む勢いで叫ぶ。蒼輔は思わず仰け反ったが、よく考えれば当然の話だった。犬神は呪いの一種であり、人を害するためのものである。
しかも、相手の爪だの髪だの血だのを使うシンプルな呪いとは違って、この呪いでは犬が少なくとも一匹、確実に死んでいるのだ。
「それに……犬神様は、祟るんですよ」
「え」
「呪いですからね。定期的に何かを呪わないと、その恨みが当主に向くらしいですよ。本当か嘘か、分からないですけど」
真偽があっけらかんと言う。確かに、犬神はいわゆる「蠱毒」の一種と言われている。百の毒虫を甕の中に閉じ込めて、最後の一匹になるまで食らい合わせる、という方法が有名な呪術だ。
それもまた、閉じ込められた虫たちの怨嗟を利用した呪いであって、呪いが術者を崇拝しているわけではない。暴れ馬の鼻先を気に入らない奴に向けて、無理やり鞭を使って走らせているようなものだ。操り方を間違えれば、術者に呪いが返ってくる。それが蠱毒である。
普通に最悪な話だった。実家の大本である本家が呪いの温床になっているなんて、そんな嫌すぎる変化球があるのか。
「前の当主はおばあちゃんだったので……おばあちゃんの遺言状の開封式で、次代の当主が決まるんです」
「つまり……犬神様とやらを操る人、ってことか?」
真偽が頷いた。
「犬神の家のお金だけじゃなくて、発展が約束された神様もついてくるので、当主が誰になるのか、みんな興味津々なんですよ。懇談会で色んな人が結婚を狙ってるのも、少しでも本家に近い血筋の人と一緒になって、次期当主に近づきたい、みたいな思いがあるというか……」
「生々しい話だな」
というかシンプルに泥沼である。蒼輔は思いきり顔をしかめて、大きく息を吐いた。
「なるほどな。驚かないでほしいってそういうことか」
遺言状の開封式で次期当主が選ばれると同時に、おそらく犬神様とやらについても話がされるのだろう。確かに、何も知らないまま聞いていたらヤバい宗教だと思ったかもしれない。
納得しつつ顔を上げると、何故かこの世の終わりみたいな顔をしている真偽と視線が合う。
「おい、どうした。死にそうな顔してるぞ」
「蒼輔さん……」
突然名前で呼ばれて反応が遅れた。彼女は今から飛び降りるんじゃないかというほど顔をこわばらせている。
「今から言うこと、絶対に守ってください。もしかしたら、さっきので犬神様に目をつけられちゃったかもしれないから……」
唐突だった。意味をつかみそこねて、ぱちりと瞬く。
「目をつけられる……?」
ぽつんと呟いた蒼輔の疑問には答えず、彼女は厳しい顔で言う。
「絶対に、戻らないでください」
は? とこぼれた言葉にも答えない。彼女はまっすぐに、蒼輔を見つめて言った。
「何があっても、戻ったらダメです」




