道中(2)
「というかお前、本家で俺の話をしたことあるのか?」
彼女はこてんと首を傾げて、虚空に視線を向け、何かを思い出すように唸る。
「ええと……本家の人とはもう何年も連絡を取ってないので、先輩のこと自体知らないはずです」
「そうか。ならとりあえず、俺とお前の関係値はあまりずらさずに行くぞ。ボロが出るからな。大学で出会って、まあ二人きりでフィールドワークに行くことも多かったし、その過程で付き合った……みたいな感じにするか」
「分かりました!」
周りで会話を聞いていた護衛たちは一斉に「二人きりで何度もフィールドワークに……?」「付き合ってないのに……?」「距離感おかしくない?」と思ったが、顔には出さなかったので、二人が気づくはずもなかった。
「というか先輩、お互いの呼び方どうしましょう」
「ん? いや、婚約者だからって急に呼び方まで変える必要はなくないか? まだ俺ら学生だし」
「いやでも、私の本家、犬神さんがいっぱいいます」
「……え? うわ、そうか……!」
浅海は仰け反った。そう、犬神家の本家ということは、犬神姓を持つのは彼女だけではないのである。
状況を理解して一拍、浅海は油をさし忘れたブリキのような動きで犬神真偽を見た。
「……え、俺、お前のこと名前で呼ぶのか?」
「犬神って呼んだら、私と同時に五人くらい振り向いちゃいますよ」
「多……」
浅海は若干引いた。五人は多い。
「じゃあやっぱり名前呼びのほうがいいのか……」
「今呼んでみます?」
「は!?」
浅海は素っ頓狂な声を上げた。咄嗟に犬神を見るが、彼女はごく平然とした顔で首を傾げている。
「うーん、その場合、私も蒼輔さんって呼んだほうがいいですかね?」
こちらの気持ちも知らないで、躊躇いのない女である。
「いや、お前は勝手にしたらいいよ……浅海は俺しかいないわけだし……」
「じゃあ蒼輔さんにしますね! 仲良さそうに見えますし!」
にぱっとご機嫌な顔で微笑まれて、返事に困る。躊躇とか羞恥とかないのか、いやないよな、と一人で悶々と考えた。
「先輩はどうしますか? 名前呼びますか?」
「呼……ぶしか、ないだろ……」
「じゃあやっぱりちょっと呼んでみてくださいよ。練習しときましょ」
「いや……まあ、そうだな……」
何故こんなにも焦っているのか自分でも分からなくなりながら、浅海は絞り出すように言った。
「ま……真偽、さん……」
「なんでさん付け……?」
「いいだろ別に! いきなり呼び捨てとかできるか!」
顔を真っ赤にして声を張る。途端、犬神はへにょ、と眉を下げた。
浅海は一瞬で「あ、ヤバい」と察した。
「や、やっぱり怒ってますか……?」
おどおどと声色を濁らせ、浅海の袖を遠慮がちに引く。
浅海は心の中で呻いた。最悪だ。今のは流石に配慮に欠けていた。自分の名前を呼びたくないほど怒っているのか、と思われたに違いない。
「いや、そうじゃない。悪かったよ。後輩の女の子の名前を呼んだことなんてないから……」
なんでこんなことを言っているんだと思いながら、浅海は弁明するように言葉を連ねる。
「ゼミで顔を合わせる女子すら、名前呼んだことなんてないよ。大体名字で呼んでるだろ」
「そ……う、だったかも?」
「そうだったんだよ」
なんだかごりごりと矜恃が削られていく音が聞こえた気がしたが、努めて無視した。後輩一人を傷つけてまで守りたい矜恃でもない。
「家族とバイト先以外で同年代の女の人と話す機会もないし……悪かったよ。ちょっと気恥ずかしかっただけだ」
「怒って……」
「ない。今回は何も怒ってない」
彼女はあからさまにほっとした顔で、袖から手を離した。
よかった、と呟く声があまりにも弱々しくて、浅海は訝った。
最近の彼女はどこかおかしい。というか、はっきり言って変だ。こんなに人の目を気にするような人間ではなかったし、浅海に少し拒絶されたくらいで、ここまで傷つくような人間でもなかった。
だが、別人のよう、というわけでもない。ただ、ものすごく、余裕がなさそうに見える。何かに対して、ひどく焦っているような。
浅海はぼんやりと記憶をさらって、気づく。そうだ。彼女が大学で号泣したときから、何かが変だという違和感を覚えるようになったのだ。
「いぬ……いや、ええと、真偽」
「なんですか?」
「お前、何か……」
俺に、隠してないか?
言いかけて、喉の奥に何かが押し込められたかのように、何も言えなくなる。彼女は不思議そうに丸い目を瞬かせていた。
浅海はじっとりと背中に汗をかくのを感じた。彼女自身はいとけない、幼子のような顔をしているのに、そこに何か、おぞましいものが、座しているように思える。
何か、決定的な分岐点の上に、立たされているような気がした。
「いや……なんでもない。悪い、ちょっと……頭痛いから寝る。着きそうになったら起こしてくれ」
備え付けのブランケットを被って、背もたれを倒す。なんだかひどく胸騒ぎがした。
「大丈夫ですか? 頭痛薬、ここ置いときますよ」
「ああ……」
何故か頭が鉛のように重い。目を閉じれば、頭を含めた上半身にずんっとした重みを感じて、たちまち睡魔が襲ってきた。
そうしてそのまま、意識が落ちる。
寸前。
誰かの、軽やかで甘やかで、どこか不快な笑い声が、聞こえたような気がした。
◇◇◇
急に眠ってしまった浅海――否、蒼輔を見て、真偽はいささか奇妙に感じた。
体調不良というにはあまりにも急だ。彼は昔から異様に体が強いらしく、夜勤を三連続で入れても次の日に平然と授業に出ていたりするのだ。
なのに、急な頭痛で睡眠を取る? ……何かが変だ。おかしい。飛行機に酔ってしまったのだろうか?
だが、彼は三半規管もそれなりに強かったはず……と考えて、真偽は悩むのをやめた。とりあえず護衛たちから、追加の頭痛薬や酔い止めをもらっておこうと思い立つ。
しかし、一番近くの席に座っている護衛のほうに目を向けると、彼らは眠っていた。
「……え?」
どくん、と心臓が音を立てる。
護衛が? 眠っている?
そんな馬鹿なことがあるはずがない。父親が、自分と蒼輔のためにつけた護衛だ。一般人とは違う。地上と上空との気圧差程度で眠くなるような訓練は受けていないはず。
咄嗟に蒼輔のほうを見ると、健やかとは言えないがきちんと寝息は立てていた。思わず安堵の息を洩らす。だが、不意に視線を上げて硬直した。
彼の側にいる護衛たちもまとめて、死んだように眠っていた。
動いたのは反射だった。咄嗟に疑ったのは催眠ガスの存在だ。そもそもガスは無味無臭で、正規の手段で作られたものなら後から匂いをつける。だが、残念ながら、真偽を狙う輩は正規の手段とやらを使ったことがない。
懐から取り出したハンカチを素早く口元に当て、呼吸を細く、最小限に抑える。シートベルトを慎重に外して、腰を浮かせかけたときだった。
『心配いらないよ、愛し子。これは僕がやったことだからね』
ぽんっと肩に手を置かれる。
「ぎゃっ!」
真偽は咄嗟にひどい声を出した。崩れ落ちるように座席に座り直す。
視線を上げた先で、オニキスの瞳と目が合う。けらけらと笑う褐色の青年が、愉快そうな顔でこちらを見下ろしていた。真偽の肩に置いていた手を離すと、軽やかに床を蹴り、ふわりと浮き上がる。
犬神真偽と契約した神である無名が、そこに御座していた。
「な……ナナシ、さん?」
混乱した頭を回して、真偽は眠り続けるファーストクラス内の人々と、無名を交互に見た。
「ナナシさんが、やったの?」
『君と話がしたかったからね。別に僕の姿を見えなくしても良かったんだけど、そうすると君が頭のイカれた女の子みたいになってしまうだろう?』
そのために護衛たちを全員眠らせたのかと思うと、気遣いなのか余計なお世話なのかわからない。
でも、無名はみすみす、契約者である真偽を危険な目には遭わせない。護衛たちは本当に眠っているだけだろうし、自分がこの瞬間に、父の仕事上の敵に狙われることもないだろう。
ハンカチをゆっくりと下ろして、真偽は浮いているかみさまを見た。警戒レベルを下げられない。彼が楽しそうにしているときに、真偽も楽しかった試しなどないのだ。
「話って……何?」
『ああ、そうそう』
にこ、と笑って、無名は言った。
『彼、気づきかけてるよ』
ぞっとするような声だった。笑う彼の口の中は、宇宙の向こう側にある深淵のような、どす黒い暗闇の色をしていた。
真偽が体をこわばらせる。おそるおそる、眠っている蒼輔を見た。
「気づきかけてる、って……」
『一年前のことだよ、もちろん。君、その子の前で泣いただろう? あれで、記憶の扉が開きかけてる。僕が封じてるから、普通は記憶なんて戻らないはずなんだけど、そこの彼みたいに、どうしてなかなか、精神力の強い人間ってのはいるものだね』
「そ……」
真偽の顔がざっと青くなる。彼と真偽の間にある契約では、彼に一年前のことを知らせてはいけない、ということになっているが、それは正確ではない。
正しくは、彼の記憶が戻ってしまった場合、それが真偽のせいであろうとなかろうと、契約不履行になるのだ。
その瞬間、蒼輔のたましいは砕け散る。今だって、欠けている彼のたましいを、無名が無理やり繋ぎ止めている状態だ。それが解かれたら、蒼輔は死ぬ。
ひゅう、と喉から喘ぐような吐息が零れた。呼吸の怪しくなった真偽を、無名は愛おしげに見つめる。
『可愛い愛し子。大丈夫かい? 本家にいるアレのことだって、彼には言っていないんだろう?』
真偽は驚きに目を見張った。畏怖と困惑の混ざった目で、無名を見上げる。
「なんで、それ……」
『僕に知らないことがあるとでも? そもそも、君の本家に彼の魂があると伝えたのは僕だろうに』
その通りだった。彼はいつも、蒼輔の魂の欠片がどこにあるかを教えてくれる。けれども、祖母の死と共にその事実を告げられたので、真偽は何かの嫌がらせかと思った。
けれど、真偽にどうにかできるはずもなかった。だからこそ、運命の悪戯を呪いながら蒼輔に助けを求めたのだ。あんなところには、一生彼を連れていきたくなかったのに。
褐色のかみさまは、いつものようにうっそりと笑う。
『全部知っているよ。君の本家、随分とおぞましいことをしているね』
おぞましさで言えば無名の右に出るものはないと思ったけれど、流石に口には出さなかった。彼は真偽のことを気に入ってはいるものの、何が逆鱗に触れるか分からない。
『まあ、人間というのは総じて愚かだから可愛いものだよ、君も含めてね。とはいえ……アレは世の理すら越えた存在だ。到底、人に扱えるものではないんだけどね……まあ、気をつけるんだよ、愛し子』
楽しそうに言いながら、彼はふっとその場から消える。真偽はひたらすら呆然としていて、呼び止める暇もなかった。
彼がいなくなると同時、護衛たちがぱちりと目を開けた。
彼らは眠っていた自覚がないのか、わずかに訝しげな表情をしつつも、真偽と蒼輔が無事だと分かると頭を切り替えたようだった。
唯一、護衛隊長を務める男だけが、ひそめた声で真偽に問うてくる。
「お嬢様、今、何かございましたか?」
「う、ううん、何も」
「本当ですか? 何か、こう、上手くお伝えできないのですが、このあたりに、何かがいたような……」
彼は勘がいい。先ほどまで無名のいたあたりをじっと見つめて、睨んでいた。
真偽は背筋が凍るような思いで、どうにか首を横に振る。
「ううん、本当に何もないよ。気になることがあった?」
「……いえ、不安にさせるようなことを申しました。御容赦を」
「大丈夫。警戒してくれてありがとう。先輩と私を、守るためだって分かってるから」
「お気遣い、ありがとうございます。何かありましたら遠慮なくお知らせください」
真偽は頷いて、そっと蒼輔のほうを見た。途端、ふつふつと使命感のようなものが湧いてくる。
そうだ。守らなければ、この人を。
ブランケットからはみ出した彼のぬるい手を握る。本当に彼のたましいが自分の本家にあるのなら、きっと、このままではろくな使い方をされないだろう。
あの家は異常なのだ。蒼輔もその片鱗を感じていたようだったけれど、多分、彼が感じている十倍は恐ろしいものが、あの家にはある。
父は幼いころ病気がちだったせいで、あまり本家で暮らしていなかったらしいので、異常性が伝播しなかった。それだけが救いだ。
けれど、真偽は幼い頃、半年ほどあの本家で暮らしていたことがある。誘拐被害がひどかったときだ。けれど、あの家で味方と言えるのは祖母だけだった。その祖母が死んだ今、本家がどんな魔窟になっているのか、真偽には分からない。
「守らないと……」
護衛にも聞こえないほど小さく、口の中で呟く。神に祈れない真偽には、自分の意思で彼を守ると決めるしかないのだった。
読んでくださってありがとうございます!真偽は顔にも態度にも出やすいタイプですが、そのくせだいぶ抱え込む性格なので、そのあたりを無名に気に入られてしまっていますね……無名は普通に性格が悪いです。自覚はないです。




