道中(1)
「本当に急な話で申し訳ない」
二日後の出立日。空港に到着して早々に完璧な最敬礼を見せつけられ、浅海蒼輔はざっと顔を青ざめさせた。
「やめてくださいそんな……! 謝られるようなことじゃありません!」
周りの目も気にせず叫び、目の前に立つ壮麗な男に向かって身をかがめる。
彼は、犬神真偽の父親その人だった。
空港に着いて犬神と合流した刹那の、突然の謝罪である。咄嗟に止める暇もなかった。浅海の後ろには彼の母親がおり、彼女もぱちくりと瞬いて動きを止めている。
自分より身分も地位も段違いに高い人間に頭を下げられるなど、浅海にとっては恐怖でしかない。犬神の父親なのだから余計である。
彼ははりつめた表情のまま頭を上げると、浅海とまっすぐ視線を合わせた。
「いや、うちの家の話に巻き込んでしまって、本当にすまない。いくら娘が君を頼りにしているとはいえ、あまりに度が過ぎた頼みだとは承知している。娘が咄嗟に君を頼ったと聞いて、正直目眩がしたよ。初めて娘を怒鳴ったかもしれない」
「うう……」
父親の隣でへにょ……と眉を下げている犬神を見て、浅海は納得する。確かにこってり絞られたらしい。
できればその調子で、彼女が危ないところに行かないようしっかり教育してもらいたい。
「浅海くん、もう一度聞くけれど、本当にいいのかい? 娘は確かに……年頃だからね。本家の人間がだいぶ強引であることも否めない。だが、だからといって、君が矢面に立つ必要はないんだよ」
浅海は目を丸くした。彼とは何度か話したことがあるが、相変わらず本当に、このトラブルメーカーの父親なのか疑うほどの人格者である。この遺伝子から、何故ここまで破天荒な娘が産まれるのか謎だ。
だが、浅海はこのときばかりは、はっきりと首を横に振った。
「構いません。犬神が……あー、ええと」
しばし口ごもった。目の前にいる男性も「犬神」なのだ。
「真偽さんが、ここまで怯えているのは初めて見ましたし……知らない人間と婚約させられるなんて……普通に、嫌でしょう。結婚相手なんて、人生で一番長く一緒に過ごす人間ですよ。勝手に決められていいはずがない」
犬神がぱっと顔を上げて、少しだけ、救われたような顔で微笑んだ。
彼女の父親が目を丸くし、感心したように顎を撫でつける。
「ありがとう。娘のことをそんなに考えてくれる人間は初めてだ」
大袈裟じゃないか? と咄嗟に思ったが、そうでもないのかもしれない。何せ犬神真偽は、高校からの友人にすら裏切られている。
犬神の父親は一度、浅海の母に視線を向けた。
「大事な息子さんを、うちの家のごたごたに巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません。本家のほうには、信頼できる部下を向かわせております。護衛も何人かつけますので」
「まあそんな、お気遣いなく……というわけにも行かないのでしょうね。ありがとうございます。ですが、蒼輔が自分で決めたことですから、こちらとしては、お金まで出していただかなくても……」
「そういうわけには参りません。うちの家の葬式に関係のない息子さんをお借りするのです。交通費や宿泊費すら出さないなど、本家の人間に甲斐性なしだと疑われてしまいますから。時代錯誤ではありますが、我が家の体面を保つために、ご協力いただければと」
分からないでもないが、これに関してはすごく居心地が悪いな――と浅海は思った。金持ちには金持ちの世界とメンツがある。どう考えても苦学生である浅海の家に金を出させたとなれば、犬神の家の名誉に傷がつくだろう。
分かっているが、いざお金は全てこちらで持ちますと言われると、どうしても申し訳なさのほうが勝つものだ。
母もおそらくは同じだろう。何度か社交辞令のような押し問答を経てようやく、ではよろしくお願いしますと頭を下げた。
犬神が父親の袖をくいと引く。
「お父さん。そろそろ飛行機の時間だから……」
「ああ、もうそんな時間か。分かった。真偽、もう一度言うが、くれぐれも浅海くんに迷惑をかけないように」
「うん。ごめんなさい」
あまりに素直すぎる。
これは本当に犬神真偽か? と浅海はだいぶ失礼な疑いをかけた。
「浅海くん。申し訳ないが、娘を頼みます」
「っあ、はい、もちろんです」
慌てて顔を上げると、厳しい顔に「自責」の二文字を貼りつけたような表情があった。犬神家の本家とやらは、そんなにヤバい場所なのだろうか? と思いかけて、いや、と思い直す。
そして、叱られた犬のように首を竦めている犬神真偽へ、視線を滑らせた。
何せ祖母の葬式で、孫の婚約話を進めようとする家だ。少なくとも、倫理観は地に落ちているに違いない。
◇◇◇
「……」
「……」
「……」
「……おい、犬神」
離陸直後の飛行機の中、浅海はとうとう沈黙に耐えきれなくなった。背もたれに寄りかかっていた上体を起こし、隣の犬神に声をかける。
「お前、いつものよく回る舌はどうした。飛行機乗ってからずっと黙って……調子が狂うだろ。ただでさえこんな落ち着かないところにいるっていうのに」
二人が座っているのは、飛行機のファーストクラスの中心にある座席だった。十席ほどしかない空間を、浅海と犬神、そして犬神家の護衛陣で貸し切っているのだ。四方八方、どこを見てもSPじみた男たちで埋め尽くされている。気後れどころの話ではない。
だが、彼女はそろりと浅海のほうへ顔を向けると、伺うように上目遣いで尋ねた。
「お……怒ってませんか?」
「は? 何に?」
「私に……」
脈絡のないことを問われて、浅海は一瞬答えに窮した。犬神に怒る? 何故? まだ今回は鳥居も墓も道祖神も壊していないのに?
だが、その沈黙を肯定と捉えたのか、彼女はくしゃっと顔を歪めた。
「や、やっぱり怒ってますよね……お父さんが言ってたんです。いくらなんでも、先輩だからって婚約者のふりまで頼むのは迷惑極まりないって……私は人に命令できてしまう身分なんだから、なんでもかんでも我儘で押し通す癖をつけたらいけないって……」
「うわ……すごい常識人……」
会話をぶったぎって感心してしまう。
しかし彼女は父親が褒められて嬉しかったのか、怯えた顔にほんの少しの微笑を乗せた。
「ふふ、はい、お父さんはいつも正しくて、すごい人なんです。だからやっぱり、今回もお父さんが正しいはずで……だから、だから私、やっぱり先輩に迷惑かけてるんだ……」
「ん?」
「どうしよう、お詫びにお金……は、多分先輩は受け取らないし……そもそもお金はお前のじゃないだろうってお父さんに言われたし……じゃあ自分でお金を稼ぐ……? できればたくさん……一度にいっぱい稼げるお仕事……?」
「おい待て落ち着け。思考を変なところに飛ばすな」
浅海は咄嗟に彼女の肩を掴んだ。そのまま思考を進めるとおそらく不健全なところに行き着く。
瞳をぐるぐると回していた彼女が、呆けたように顔を上げた。
「先輩……? ええと、あの、本当にごめんなさい……」
ぺこりと頭をさげられて、浅海は仰天した。何もしていないのに犬神真偽が謝った……!? 明日は槍でも降るのか?
「いや、待て、あのな犬神」
「ごめんなさい……お詫びにお金以外ならなんでもあげます……」
「世の中の大体のものは金と等価交換してるだろ! いやそうじゃなくて、まず聞け! 俺は別に怒ってない!」
彼女がきょとんと目を瞬いた。
「いいか、電話でも言ったよな、婚約者のふりくらいしてやるって。俺は別に、お前に強要されてここにいるわけじゃない」
「でも、迷惑だって、お父さんが……」
彼女がおそるおそるというように言う。確かに、それも間違ってはいない。
「まあ、常識的に考えたらお前の親父さんが正しいな。お前もあれだ、今回みたいな頼み方、俺以外にはするなよ」
「先輩以外に婚約者のフリを頼んでどうするんですか……?」
「調子が戻ってきたようで何よりだよ」
浮かしかけていた腰を下ろして、浅海は犬神と目を合わせた。
「いいか、犬神。俺は別に、お前には全然怒っちゃいない。今回ばかりは、金を出してもらったことに気まずい思い……はしてるが、お前が神社だの寺だのをぶっ壊しに行くわけじゃないから、いつもより全然気が楽だ。それより、俺が怒ってるのはお前のとこの本家にだよ」
「本家……ですか?」
「そうだよ、当たり前だろ。なんで自分より年下の女の子が、実家の本家に結婚強要されなくちゃならないんだよ。令和だぞ、今」
恥ずかしげもなく言い切る。浅海から見たら、犬神真偽はトラブルメーカーでもあるが、ただの後輩の女の子でもあるのだ。
「倫理観はどうなってるんだ。冠婚葬祭っていうのは同時にやれば縁起がいいわけじゃねえんだぞ」
「えっと、先輩?」
「お前電話口で泣いてただろ、犬神」
唐突に図星を刺されて、犬神真偽は口を閉じる。もともと目つきが悪い浅海の顔は今や、幼児であれば泣き出すレベルの凶悪さを放っていた。
「お前が咄嗟に泣くくらい行きたくない場所なんだろ。ならまあ、婚約者のフリくらいはしたっていい。というか、本当になんなんだその家……腹立ってきたな……」
「せ、先輩が怒ってる……」
彼女は目を丸くして、やや呆心したように呟いた。浅海はじろっと彼女を睨むように見据える。
「怒りもするだろ。お前、相当舐められてるんじゃないのか」
「うーん、多分ちょっと……違いますね。本家の人たちは誰にでもそうなんですよ。私と同年代の女の子がいたら、同じように婚約者をあてがったりしてると思います」
「最悪度が上がった……」
うんざりした顔で浅海は呟いた。なんだその無法地帯は。
だが、犬神はかすかに安堵した顔で、ぽやぽやと笑った。
「なんだ、そっちに怒ってたんですね……よかった……」
彼女は相変わらず、世界の悪意をある程度飲み込んだ顔で笑っている。自分の友人が誘拐幇助をしたと告げたときと、全く同じ表情だ。
だが、浅海はそれが、心底腹立たしい。なぜこんなにも苛ついてしまうのか、自分でも分からないほどに。
「何も良くない。そりゃ一人で行きたくもなくなる……」
そう呟いたところで、浅海はハッと肩を震わせた。自分が今、何のためにここにいるのかを思い出す。
「忘れてた。犬神、設定詰めるぞ」
「へ? 設定?」
犬神がきょとんとこちらを見る。
「そうだ。俺たちは婚約者設定なんだから、それなりに仲良く見せないとダメだろ」
犬神は「そうだった!」という顔をして、居住まいを正した。相変わらず、大型犬を思わせる動きをしている。




