残夢の目覚め
「……は?」
浅海蒼輔は素っ頓狂な声を上げて目を覚ました。
早朝である。カーテンの隙からのぞく空はようやく白み始めたころで、まだ外は薄暗い。
部屋の中に視線をめぐらせ、首を捻る。古びたアパートの一室。見慣れた実家の風景だ。隣には反抗期の弟がぐうすかと寝ているし、当たり前だが、家族以外の人間はいない。
「夢……か?」
なんだか妙な夢だった。
犬神真偽が――あの本能の権化のような後輩が、身も世もなく泣き叫ぶ姿が、まぶたの裏に映る。先日、浅海は初めて号泣する犬神を見たが、あれよりも悲痛な声で、夢の中の彼女は泣いていた。
まあ、そうは言っても彼女だって人間だ。泣くことくらいはあるだろう。だが……
「……理由が俺ってのは、どうなんだ」
浅海は苦い顔になる。
あの後輩はまあ、確かに周りが見えていないし、決断力はあるくせに危機管理能力はさっぱりだし、いつか何かをやらかしたっておかしくない。
だが、そのやらかしが「浅海蒼輔を死なせかけた」というのは……どうなのだ?
ほら見ろ、と笑うにはいささか悪趣味である。いくら犬神でも、突然目の前で先輩が死にかけたら怯えるだろう。あそこまで泣き叫ぶかは分からないが……
ふと、死にかけた自分を思い出す。血まみれとかではないのが、逆にリアルな死体だった。昔、遠い親戚の葬式で見たような、蝋のごとく白い体。
いや、夢の中の自分は、死んではいなかったのか? あれがどういう状態だったのか、浅海にはいまいちよく分からない。
ただ、自分が死にかけたことで、犬神真偽がとんでもない解決法に手を伸ばしたことだけは、何故か鮮明に覚えている。
何をしたんだか知らないが、訳の分からない褐色の男にそそのかされて、何やら最悪の契約を結ばされていたような気がする。彼女はおそらく契約書を最後まで読まないタイプなので、絶対に不利な契約を交わしたに決まっているのだ。その原因が自分かと思うと、いっそう頭が痛い。
……いや、だから、全部夢なのだが。
「阿呆らしい」
浅海は頭を振って考えるのをやめた。寝起きだからこんなとりとめもないことを考えてしまうのだ。ただの夢だというのに。
――本当に?
不意に頭の中で誰かの声が響き、浅海は驚いて動きを止める。
それは、浅海蒼輔自身の声だった。
――本当に、今のは夢か?
――他愛のないことだと、忘れてしまっていいのか?
なんだそれ、と素直に思った。
夢は夢だ。それ以外に何があるというのか。
なんだか自分で自分に言い訳をしているみたいで、いっそう馬鹿らしくなる。そんなに疲れているのだろうか。
「まあ、確かに最近夜勤続きではあるか……」
幸いにも、今日は大学の授業を取っていない日だし、バイトも午後からだ。まだ家族も起きていないし、寝直しても誰にも怒られない。
そう思って布団に潜り込もうとしたときだった。
急に、スマホの着信が爆音で鳴り響いた。
「うわっ!?」
叫んだ拍子に、隣の布団で眠っていた弟がびくっと体を震わせて目を覚ます。
「は……? うわ、ちょ、蒼兄うるせえ……」
「あっ、ああ、悪い。大声出して」
「いやスマホ……スマホがうるせえ……」
そうだった。
未だに鳴り響き続けるスマホを手に取り、名前も確認せず通話ボタンを押す。不意に目に入った時刻表示は六時だった。
「もしもし? 誰だこんな朝に……」
『せんぱいっ!!!!』
うわんっと大きく響いた音に鼓膜を殴られて、浅海はあっという間に悶絶した。スマホを即座に耳から離す。
『浅海先輩助けてください!!』
「……犬神、本当にいい加減にしろお前は……」
思わず地を這うような声が出た。スピーカーにしていないのに、スマホをめいっぱい離しても声が聞こえてくる。
弟の燈真もすっかり目が覚めてしまったようで、驚いた顔でスマホを見ている。
「え、蒼兄、その電話、あの人? すげえ金持ちの……」
「燈真お前、犬神のことを金持ちで認識してるのか? 間違っちゃいないが……」
やや呆れつつ、浅海はスマホに向き直る。
「で、犬神、何がなんだって? 頼むから普通の音量で言ってくれ。叫ばなくても聞こえてる」
『うう……先輩……』
「え、お前もしかして泣いてるか?」
『先輩、婚約者のフリしてくれませんか……』
「……は?」
思考が止まった。
なんだって? 婚約者?
『うう……やっぱりダメですかぁ……!』
「待て、俺はまだ何も言ってない」
すっかり目が冴えてしまい、浅海はその場に正座までした。いきなり居住まいを正したせいで弟がやや引いた目で見ているが、いったん無視する。
今はこの突拍子もない後輩が優先だ。
「犬神、頼むからちゃんと説明しろ。何がどうなって、俺がお前の婚約者だなんて、恐ろしい話になった」
ぐすぐすと濁音混じりに彼女は言う。
『わ、私の家の、本家本元のお屋敷が、四国にあるのはしってますよね……』
「あ、ああ。あれだろ、そもそもお前、分家筋? とかなんだろ。前言ってたよな」
簡単にヘリまで出してもらえるような家柄だというのに、なんと彼女は「犬神家」の本家の直系ではないらしい。この辺りは浅海にはよく分からないが、彼女の父親は長男ではなく、本家を継いでいないため、実質的には分家にあたるというのだ。
「それがどうかしたのか」
『実は、本家にいる私のおばあちゃんが死んじゃったんです。つい昨日……それで、もうすぐお葬式があって、でもあの、お父さんとお母さんの都合がどうしてもつかなくて……私が一人で、本家のほうに行かなくちゃならなくなって……』
「お祖母さんが? それは……大変だったな。でも、葬式とかなら行っといたほうがいいぞ。通夜だの葬儀だのは、一人につき一度しかない」
『分かってます……でも……』
うう、と喉の奥で潰れたような声を上げて、彼女は言った。
『一人で行くと、本家の人たちが、その……』
「なんだ、何か言われるのか?」
『言われるというか……もう二十も超えたんだから、早く結婚しろって、本家の人とお見合いさせられて、たぶん、その場で婚約証書とか作られちゃうので……』
異次元の情報に、浅海は絶句した。というか普通に聞き間違いなのではと思い、一応尋ねる。
「何が、なんだって? 見合い?」
『そうです……あ、お見合いっていうか、あっちで婚約者を決められて、顔合わせをするって感じだと思いますけど……』
全然聞き間違いじゃなかった上に、ただのお見合いより最悪なパターンだった。令和のこの時代に、まさか自分の後輩が、無理やり政略結婚を強制されかけているとは思うまい。
しかも身内に不幸が出ている状況で、だ。不謹慎という言葉が存在しない家なのか?
何を言うべきか分からず、それでもなんとか言葉を絞り出す。
「そ……れは、相手が、ヤバい奴なのか?」
『ヤバい奴じゃなくても、知らない人と無理やり結婚させられるのはいやです!』
そりゃそうだ、と浅海は思った。今のはよくなかった。言葉選びを完全に間違えた。
基本的に、犬神真偽は恵まれている。食べるのにも住むのにも、勉強するのにも困らない金が家にあって、欲しいものは大体手に入って、一般的な大学生が経験する苦労というものをほとんど知らない。多分この先、就職なんてしなくても生きていける。
だからといって、彼女が苦しめられていないわけではないことを、浅海蒼輔はきちんと知っている。
彼女がまだ大学一年だったころ、驚くべきことに、犬神真偽は誘拐被害にあったことがあるらしい。紆余曲折は割愛するが、その原因は彼女の高校時代からの友人が、金欲しさに彼女を「売った」からなのだという。
当時のことを、犬神は「ままあることですよ」とはんなり笑って語っていた。ままあってたまるか、と浅海は今でも思う。
それからも金目的で近づいてくる者はあとをたたず、どうやら彼女が今仲良くしている友人たちも、四割ほどがおこぼれにあずかろうとするタイプらしい。刺激すると逆に危ないので、付かず離れずの距離を保ってうまくやっているのだとか。
あまり交友関係が広くない浅海からすると衝撃的だった。友人の半分近くが、自分を手近なATMとして見ているなんて、そんな残酷なことがあるか?
飲み会でいつも自分が多めにお金を払うのも、複数人で旅行に行ったときに交通費や宿泊費をすすんで全て出すのも、彼女の中では普通のことだという。無用なトラブルを避けるために、ある程度は財布の紐を緩ませておくのが処世術なのだと。
初めて聞いたとき、浅海は嫌悪感で吐くかと思った。記憶が朧気だが、夜勤明けだった気がするので、実際に吐いたかもしれない。
だってそれは、最悪なノブレス・オブリージュだ。
そしてここにきて、時代錯誤な政略結婚の強制ときた。もはや人生の搾取といって差しつかえない。
浅海の家には金がない。だから、彼女のように金の心配がない生活をしている者が心底羨ましい――とは、確かに思う。だが、間違っても本人にそんなことは言えないほど、犬神真偽の人生は悲惨だ。
彼は犬神が参加する飲み会にはほとんど必ずついていくし、彼女を酔い潰そうとする輩を許さないし、ちゃっかり彼女に多めにお金を払わせようとする幹事には容赦をしない。
先輩が後輩を守るなんて当たり前だからだ。それすらも金に目がくらんだ者たちにはできなくて、浅海はいつも沸き立つような怒りに苛まれる。
確かに犬神真偽はトラブルメーカーで、人の話を聞かないし、一人で突っ走るし、本当に人の話を聞かないし、びっくりするくらい人の話を聞かない。
でも、後輩だ。自分のことを慕ってくれる後輩なのだ。
何が悲しくて、彼女の人生が、じわじわ縛られて削られていくのを見ていなくちゃならない?
「分かった。俺が婚約者のふりをしたら、犬神はお祖母さんの葬式なんて大事な場で、無理やり許嫁なんか宛てがわれなくて済む。そういうことだな?」
『そうです……ごめんなさい……』
突然の謝罪に面食らう。
「なんでお前が謝ってるんだ。情緒不安定か?」
『だって、先輩を盾にしてるから……』
「後輩が先輩を盾にして何が悪いんだよ。お前はもうちょっとそういう真っ当な頼み事を増やせ。そして代わりに禁足地には行こうとするな。頼むから」
『うう……すみません……』
ずいぶん弱っているのか、やけに素直だった。この調子でもっと大人しくなってほしいものである。
「許嫁くらいなってやるよ。だからそろそろ泣きやめ。お前の親父さんに見つかったら俺が殺される」
『お父さんそんなことしません……』
「わかったわかった」
でも彼女を泣かせた場合、殴られるくらいはするだろうな、と、浅海は真顔で思った。
とりあえず、葬式というからには日程が迫っているのだろう。二人で隣に立っていれば許嫁になる……というわけでもない。もろもろの設定も詰めなければいけないし、まずは親に話を通せ、となだめすかして、浅海は電話を切った。
ほう、と息をついたとき、呆然とした声が耳に届いた。
「蒼兄……」
はっとして顔を上げる。すっかり目が覚めたらしい弟が、困惑しきった表情でこちらを見ていた。
「……あの金持ちの人の許嫁になるの、蒼兄?」
「あー……いやあの……うーん、まあ、なるな」
「なるんだ……」
寝起きだからか、いつもの反抗期真っ盛りな態度はなりをひそめていた。彼はしばし口元に拳をあてて考えている。
急に兄が後輩の許嫁――フリだが――になったことに対してどう思うか、と緊張していると、彼はふっと顔を上げる。だいぶ真剣な顔をしていた。
「それ、姉さんに言ってもいい?」
「紫音に? いや……ちょっと、それは、待て」
「ダメなの? 姉さん、一番喜びそうなのに」
「一番喜びそうだからダメなんだよ……」
犬神のことをやたら気に入っている妹を思い出して、浅海はげんなりと肩を落とした。




