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悪夢

ここからまた新しい章に入ります。前話までの地獄がなんとかなるところまでは続けたい……!

 やだ、という声が、本当に頼りなくその場に響いた。


「やだ、待って、やだ……!」


 倒れた浅海あさみ蒼輔そうすけの体を抱えて、犬神いぬがみ真偽まきは必死に声を紡ぐ。

 だが、どれだけ叫ぼうと、彼は目を覚まさない。ぴくりとも動かないまま、彼の顔が青くなり、白くなり、ついには土気色つちけいろになっていくのを見ながら、真偽は悲鳴のような声を上げ続ける。


「やだ、やめて、待って……だめ、だめ、だめ! 取らないで!」

『無駄だ』


 頭の奥を芯から震わすような、尊大でおそろしい声が響いた。真偽はびくりと肩を揺らす。


『無駄だ、その男は死ぬ』


 頭上から降ってきた重々しい声に、ひゅっと、喉から死に損なった空気がこぼれた。勝手に歯がかちかちと鳴る。心の臓が氷の手で掴まれたように痛い。その声が響くたびに、呼吸が浅くなって、首の周りがすうっと冷たくなっていく。


 こわい、と思った。この声は、本当にダメだ。こわい。これはきっと人の声ではない。人間が、聞いていいものでは、ない。


 それでも、犬神真偽はすがるように顔を上げた。この状況を何とかしてくれるなら――浅海蒼輔を助けてくれるなら、どんな化け物だってかまわない。


 果たして、顔を上げた先には何もなかった。ただ、ゆらめく光のもやがあるだけだ。だが確実に、何かが「御座おわしている」と分かる。


「……お」


 お願い、と、かすれた声でつぶやく。


「お願い、お願いします。やめてください、取らないで……」


 真偽はひたすらに乞うていた。もう自分には、祈って、縋ることしか許されていない。自分が気づいたときにはもう、浅海蒼輔は地面に倒れ伏していて、死にかけていたのだから。

 今、自分がとんでもないものを目の前にしていることは、分かる。この、光のモヤにしか見えない何かが、浅海を殺しかけているのだと――人知じんちの及ばない、おそろしいものだと、本能が告げている。

 それでも、真偽にとっては、浅海が死ぬことのほうが怖い。


「やめて、く、ださい、せんぱい……せんぱい、取らないで……」

『駄目だ』


 無情な声が響いた。


『お前は今宵の祭事にて、入らずの禁を破った。踏み入れてはならぬ領域に土足で踏み入った。なれば、罰を受けるより他ない』


 目を見張る。意味を理解して一拍、ぐしゃ、と顔が歪んだ。

 真偽はがむしゃらに首を横に振った。


「それ、それは、ちがう、ちがいます……! やぶったのはわたしです! どうして、せん、せんぱいを、取るんですか……!」

『お前の魂はダメだ。もう他の神が座している。それに、《《見た》》のはお前ではない。そこの男だ』

「それは……」


 真偽は何も言えなかった。他の神が……とかいうのはよく分からなかったが、後半部分は分かる。浅海蒼輔は見てはいけないものを見てしまった。だから今、天罰が下っているのだ。


 でも、と思う。

 でも、それは、夜にいなくなった真偽を探しに来たからで。彼は優しい人だから、きっと、馬鹿な後輩を見捨てておけなくて。全部、全部、真偽が、不用意に禁足地なんかに入ったからで。

 彼が悪いことなんか、一つもなくて。

 だから。


「たすけて」


 ぽつんと、途方にくれた子供の声で真偽は言った。もう、浅海の体は氷のように冷たい。時間がない。


 命が、最後のひとかけらまで、こぼれ落ちていく音がするのだ。


「ごめん、なさい……ったす、たすけて、ください」


 浅海の頭を膝の上に乗せたまま――体を折り曲げ、頭を下げ、その場にひれ伏して、犬神真偽は懇願した。


「かみさま、かみさま、かみさま、かみさま……たすけて! わたしがっ、わたしがわるかったんです! せんぱいじゃない……! たすけて、たすけてください。なんでもしますから。わたしがあげられるものならなんでもあげます。だから……」


 目の前で、尊大な声を響かせていた何かが息を呑む。容赦なく神威を振るっていた声が、気配が、どこか苦々しさを含んだものに変わった。


『お前、自分がどういう存在モノか分かっていないのか。お前の身で、神に祈るということが、どれだけ……』

『あっはは! 無駄だよ。これは僕の愛し子だからね』


 不意に、軽やかな声が降る。

 真偽は思わず、頭を下げたままぱちり、と瞬いた。

 男のような女のような、狂い咲く花のような、季節はずれの雪のような、つめたく、やさしい声だった。しんとした空気の中で、何かが真偽の肩に手を置く。


『助けを望むかい、愛し子』

「っ!」


 瞬間、真偽は弾かれたように顔を上げる。


「のぞっ、のぞみ、ます! たすけて!」


 叫んだ先にいたのは、浅黒い褐色の肌をして、オニキスの瞳を持つ美青年だった。勢いだけで顔を上げたものの、あまりの美しさにぎょっとする。


 ざっと血の気が引いた。

 これも、人のものでは、ない。


 意識が遠のくような美しさだった。冒涜的ぼうとくてき、と言ってもいい。闇から、深淵しんえんから、ブラックホールの底の底から、気まぐれに顔をのぞかせた異物のような。


 形こそあるけれど、目の前に御座おわす光のもやと同じくらい、その男はおそろしかった。目もくらむような美しさ、なんてものではない。本能的な恐怖を、丹念に脳の奥に刷り込まれるような、畏怖の美貌。


 真偽は必死に、あえぐように呼吸を繰り返す。ダメだ、気を失うな。

 ここで自分が倒れでもしたら、誰が浅海を助けられる?

 どうやって、彼に償えばいい?


「……っ、助けて、お願い」


 つばを飲みこんで、少女は異形に懇願した。


「お願い。先輩を助けて。なんでもするから……」


 異形の青年は、悪魔のようににたりと笑った。


『いいのかい、愛し子。君が僕に願うということは、僕のようなものの前に、まっさらな魂を差し出すことと同義だよ』


 何を言っているのか、ほとんど理解できなかった。ただ自分が何か、決定的なものを、この異形に捧げるしかないのだということだけが分かった。


『それでも僕と契約するかい、愛し子』

「っ、する!」


 犬神真偽は手を伸ばした。

 構わなかった。腕の中にあるたましいが救えるのなら、他の全ては些事だ。


 これが最善でなくとも、本当は最悪の一手だったとしても、心底どうでもよかった。他にもっといい方法があったのになんて、それは、命よりも大事なものを奪われたことのない人の言葉だ。

 大抵のものを与えられる真偽の人生の中で、一番薄っぺらいのが人間関係だ。友人なんて数えるほどしかいない。金目当てに近づいてこない者のほうが珍しい。


 そんな世界が当たり前だった彼女にとって、浅海蒼輔は光明だった。

 彼は絶対に真偽を頼ろうとしなかった。彼女に「金持ちで奔放な後輩」以上の価値を見出さなかった。自分のことは自分でやる。そして、後輩のことはどうあっても守る。

 彼の前で、犬神真偽は初めて、普通の、ただの後輩の女の子になれたのだ。


 ふっ、と自嘲するように笑みがこぼれる。


 馬鹿みたいな話だ。普通? 笑えてしまう。普通だなんて! 普通の後輩は、先輩を死なせかけたりなんてしないし――あまつさえ、こんな、得体の知れない存在と契約なんて交わさない。


 でも。

 それでも。


 ――いけないよ、真偽。

 ――神様に、簡単に祈ってはいけないよ。


 頭の中でよみがえった祖母の言葉に、真偽はただ「ごめんなさい」とだけ呟いた。


『そんなに簡単に頷いてしまって、どうなっても知らないよ、真偽?』


 目の前の、美しい生き物はそう言った。祖母と同じ言葉を、まるで玩具を弄ぶように、楽しげに。


「簡単じゃない」


 きっぱりと言って、彼女は異形の手を取った。体温が一切感じられない、死人のような手を。


「簡単じゃないよ。……全然、簡単じゃない――だってこれは、意味のあることだから。意味のあることには、対価が必要なの」


 浅海蒼輔を救うのだ。人ひとりの命を掬いあげることが、簡単なはずがない。

 でもそのためなら、犬神真偽はなんだって差し出そう。だって自分は、この人に照らされて、ようやく自分の形を知ったのだから。

 スポットライトのない舞台で、いつまでも舞うことなんて、土台、できはしないのだから。


『ふうん……全部分かっているんだね。それならいいよ。君の魂、僕がもらおう』


 異形はうっそりと笑って、手を握り返してきた。彼がかみさまであるということを、犬神真偽はこの後に知ったが――それでも彼の本質はきっと、化け物なんだろうなと、思ったのだった。

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