起死回生(2)
意識を失った浅海を見下ろして、真偽はそっと安堵の息を吐いた。
多分、気絶しているだけだろう。胸が上下に動いているし、何より――彼のそばでにやついている存在が、全ての証明だった。
背の高い、燕尾服を着た男だ。少なくとも今は男に見える。優雅な動きとは裏腹に、どこか軽薄そうな笑みを浮かべているのがちぐはぐだった。
褐色の肌に、真っ黒なオニキスにも似た瞳。全身どこをとっても美しい男だったが、美しいこと以外に特徴がない。美しさという概念そのものに形を与えたような姿をしている。
『どうした、愛し子』
「……先輩に、何もしないでね」
『それは頼み事かい?』
「ううん、何かしたら許さないってだけ」
きっぱり言って、真偽は村長に向き直る。彼はぽかんと口を開け、信じられないと言わんばかりに燕尾服の男を見ていた。
「まさか……どうして、あんたのような存在が……」
『さあ、どうしてだろうね? どうしてだと思う?』
にやにやと笑う彼を見て、村長は目を見開き、咄嗟に真偽を見た。そして、浅海に視線を移す。
「は、はは……なるほど、そうか! これはそこの男のものか!」
彼が襟元からずるりと取り出したものを見て、真偽は瞳孔がかっと開くのを感じた。
それは首飾りだった。輪っかにした革紐の中心部分に、ガラス片のようなものが括りつけられている。残照のような青い光を放つそれは、心臓の鼓動にも似たタイミングでどくん、どくん、と震えているのだった。
「……かえして」
真偽は無意識に一歩を踏み出す。尋常ではないほどの怒りと震えが、全身を覆ったのが分かる。目の奥で、星が爆発したかのごとき熱さがあふれた。
犬神真偽はあれのためにこの村に来た。
あれらを取り戻すために、この、地獄のような旅路を歩いている。
「浅海先輩のたましい、かえして!」
喉が切れんばかりに叫び、突風のごとく走り出す。
躊躇はもうなかった。右手にナイフを構えて、村長に突進する。振りかぶった銀のナイフが、昇ってきた陽の光に照らされてぎらりと光った。
だが呆気なく、その腕を掴み取られる。
「っ、離して!」
「はははっ! こんなもので殺せると思ったんか? いや何、もしかしたら十年に一度の幸運かもしれんな……これがあの男のもんなら、成功率はぐんと上がる……!」
「!? やめて、先輩のたましい、これ以上ぐちゃぐちゃにしないで!」
「何を言うとるか。もうぐちゃぐちゃだがな、あの男は。にしても不思議な話だわな……魂が砕けているのに人間としての思考を保っているとは……はは、魂の欠片もだが、元の体まで有効に使ってやらんと」
下卑た笑みにくらりと目眩がする。
村長は弾けるように笑った。
「ははは、全く運がいい! 私もヤオバミ様から加護をいただいて、そろそろ五十余年になる。知識も体力も、全盛期とは程遠い……ヤオバミ様から見放されるんも時間の問題だ。その前に、自分の価値を示さんとと思ったが……魂の欠片とその素体なんて貴重なものがあれば、私と同じく加護を受けた娘と掛け合わせて、新たな種族が作れる……!」
何を言っているのかさっぱり分からないのに、真偽はおぞましさに鳥肌が立った。咄嗟に倒れた女を見るが、彼女は未だにぴくりとも動かない。
村長を振り仰ぎ、睨みつける。
「……だめ、かえして」
この男が何を言っているのか分からない。だが、浅海のたましいをとんでもないことに使おうとしていることは分かる。
村長はにやりと笑った。
「嫌だと言ったら?」
「許さない」
「ほお? ならどうする? ヤオバミ様の加護を受け取るわしは、そんなちんけな刃物じゃ傷つきもせんぞ」
「そうかな? 分からないよ。ヤオバミ様の加護が、いつも通りもらえているとも、限らないしね」
「何?」
訝しげに眉をひそめた村長に向かって、真偽はにこりと口元だけで笑った。
「だって、ヤオバミ様の祠、私が壊しちゃったから」
村長の目が見開かれた。唖然として一拍、その瞳の奥に業火が灯る。
「祠に何をしたと言った、小娘ぇ!」
激昂した男は、真偽の腕を止めているのとは反対の拳を振り上げた。
瞬間、真偽が動いた。
「……あ?」
男が見下ろした先。拳を振り上げたせいでがら空きになった右脇腹に、ずぶりとナイフが刺さっていた。真偽は、止められていた右手ではなく、左手で隠し持っていたそれを刺したのだ。
男がぐっと顔をしかめる。
「ナイフはね、まだあるよ。私、こういう準備だけはいつもしてるの」
ひどく温度のない声だった。男が咄嗟に真偽の手を振り払い、無造作にナイフを引き抜く。
「はは、……っ、馬鹿な娘よ。私はヤオバミ様の加護を受けとる身だぞ。祠は、確かに前の、ヤオバミ様のお家だが……っ、もう、あの方の本体はお社に移した! 加護に、祠は、関係ない……! こんなもんで、殺せるとでも……」
「殺せるよ。だってあなた、人間じゃないんでしょ」
真偽の瞳が、太陽の輝きを受けて閃く。
「だったら、殺せるよ」
「な……」
村長は咄嗟に落ちたナイフを見た。刃部分の根元、ほぼ柄に近い部分に、不可思議な紋様が彫られている。星と瞳をかけあわせたような、歪で、醜悪で、それでいて完全なる形。
彼はかっと目を見開く。
「お前、混沌の神と契約したのかっ!」
「そうだよ」
後ろでげらげらと燕尾服の男が笑う気配がする。あのおそろしいかみさまとの契約の証が、真偽のたましいには刻まれている。
あのナイフには、人でないものを害することができる力がある。歪な印がその証拠だ。
どんな形であれ、神から加護を受けた者を害するのは難しい。曲がりなりにも神からの祝福がある。もはや人でなくなってしまったものなら尚更だ。
だが、対抗策がないわけではない。
村長の腹からどろりとした紫色の血がこぼれ落ちる。神の祝福を受けたものですら腐らせる、不可視の毒が傷口から回っているのだ。
村長はふらつく足取りで、はっきりと真偽を睨みつけた。
「お前……こんなことをして、ヤオバミ様が許すとでも……」
「許す?」
真偽はきょとんとして、思わず高く笑った。朝日が昇る山の中で、色素の薄い髪がさらさらと光る。
「許されるなんて、思ってないよ」
ぞっとするような、凝った声だった。
「私が許される日なんて来ない。私、地獄に落ちるんだから」
「何……?」
「こんなの、来世のための善行にだってならないよ。お金を盗んだら返さなくちゃいけないみたいな、その程度のものなの……だから」
真偽はだんっと地を蹴る。数歩の距離を一瞬で詰めて、男の胸に下がったガラス片をぐっと掴んだ。
「だからあなたも、これ、かえして」
右手に持っていたナイフで革紐をぶつんと切る。そして、目を見張った男をどんと突き飛ばした。毒が巡って力が入っていなかった男は、ガラス片に手を伸ばすような姿勢のまま、どぱんと池に墜落した。
しばらくもがくような音が聞こえていたが、そのうち泡がいくつか上がってくるだけになった。静寂が耳に痛い。
それを見届けて一拍、真偽はその場にへたりこんだ。
ぽろりと手からナイフが落ちる。呼吸がうまくできない。心臓がひどい音を立てている。
安堵が広がった後に残るのは、自分が犯した罪の重さだけだ。相手が人じゃなくたって、悪人だって関係ない。人を刺す感覚は、誰が相手だろうと平等に、犬神真偽の精神を脅かす。
冷や汗が流れる額を拭って、緩慢に後ろを振り返った。
『やあ、愛し子、終わったかい』
「まだ……終わってない、よ」
今にも死にそうな声で呟き、這うようにして浅海の元へ向かう。彼が青い顔をして眠っているのを見て、咄嗟に、隣に立つ燕尾服の男を見上げた。
彼は胡散臭い笑みを浮かべている。
『言いつけ通り、何もしていないよ、愛し子』
「そう、みたいだね」
真偽はその場に膝をつき、静かに正座する。横たわる浅海の頭を持ち上げて、自分の膝の上に乗せた。
青ざめた顔は、死人のような色をしている。
いや、正しく今の彼は死人のようなものだった。たましいが砕けた人間というのは、死んでいるのと大して変わらない。
そうだ、浅海蒼輔は今、普通ではない。異常だ。
一年前、わけあって彼は一度死にかけた。
というか正確には、人間の生命を保つ魂魄――そのうちの魂が砕けた。いわゆる、たましいと呼ばれる存在のみが、壊されてしまったのである。
砕けた彼のたましいは、そのまま散ることこそ防げたものの、その大部分……およそ七割を失った。
そのとき、彼はもう、人間とは呼べない何かになってしまった。ひどく頼りない、ほとんど彼岸の人間になってしまったのだ。
『どうしたんだい、愛し子』
全てを知る共犯者が、今日もうっそりと笑う。この、燕尾服のかみさまだけが、犬神真偽の罪を知っている。
『大丈夫、その男はまだ何も知らないよ。自分の魂が砕け散っていることも、それを知らないうちに後輩が取り戻していることも、なんにもね』
そうだ、知らないのは浅海自身だけだ。彼にはあの事件のときの記憶があまりない。記憶がないことにすら気づいていない。
全ては、真偽がこのかみさまと契約したから。
今の浅海が、たましいの一部を失ったままでも生きていられるのは、このかみさまが、浅海の体を動かし、心を惑わせているからだ。
本当は、たましいが砕けた人間なんて、生きていられるはずがない。それでも、真偽は諦められなかった。彼の存在が失われていくのを、黙って見ているなんてできるはずがなかった。
だから、犬神真偽はあのとき、初めてかみさまに祈ったのだ。
真偽は努めて深く、息を吸う。右手にあるのは、村長が持っていたガラス片――否、浅海蒼輔のたましいの一部だ。一年前の事件のとき、彼のたましいは、通常の人間には見えない欠片となって全国各地に散らばった。
それらは今、異形たちの手に渡っているのだと、契約したかみさまは言う。人間のたましいの欠片というものは、意外と需要があるらしい。
神の加護を受けたもの、下僕になったもの、契約を交わしたもの――そういう者たちにとって、人のたましいの欠片は、垂涎ものの素材なのだという。おぞましい話だ。
それらの化け物から浅海のたましいを取り返し、彼に戻すまでが、今の真偽の使命だった。あるいは、贖罪だろうか。
もう一度、深く息を吸う。手の中に握りこんだ彼のたましいを見つめる。
岩の中から切り出された、研磨もされていない宝石のような鋭い欠片。なのに、どれだけ強く握りこんでも、真偽の手が傷つくことはない。
たましいの欠片は、その人間の善性と悪性を表す。透明で、青く美しい残照を放ち、全てを傷つけるような見た目をしながら、何も傷つけないそれ。
真偽は泣きそうになりながら、ぐっとその欠片を握りしめた。大きく息を吐き出し、意を決してそれを振り上げる。ぴたりと、浅海の胸の真上に狙いを定めた。
見開いた瞳から、ぼろぼろと涙が落ちる。
――ああ、嫌だ。
いつも、この瞬間だけは、犬神真偽は最悪の気分になる。これからすることで、実際に彼が傷つくわけじゃないと分かっていても。
それでもやっぱり、悪人の腹を突き刺すのとは、心の臓の痛みが違うのだ。
「うう、ううう……」
でも本当は、こんなことを思う資格なんてない。彼を傷つけてしまうのが、こわいだなんて。
そんなの。そんなこと、思えるはずがない。思っていい、はずがない。
だって、
だって、
だって!
だって――あのとき、浅海蒼輔のたましいが砕けてしまったのは、犬神真偽のせいなのだから。
「うう、ううぅ、うううぁああああっ!」
ざぐり、と石が沈み込む。肉を断つ、吐きそうな感触が、手のひらを貫通した。
瞬間、視界を真っ白な光が覆った。ガラス片を心臓に埋め込まれた――否、戻された彼の体が、びぐん、と海老反りに跳ねる。がくがくと震える手を咄嗟に掴んだとき、彼の瞳がかっと開いた。
意識が戻ったわけじゃない。これはただの反射だ。光もない、意思もない瞳の向こうで、たましいが戻っていく。
子が親の元へ帰るように、歪な欠片が、吸い寄せられるようにぴたりと嵌った。
気づけば光は消えていて、彼の瞳も閉じられていた。
荒い息をついて、真偽はおそるおそる、彼の心臓部分にぺたりと耳をつける。
とくん、とくん、と聞こえる命のスタッカートに、泣き出しそうな安堵を覚えた。
『素晴らしい!』
ぱんぱん、と拍手の音が聞こえて、彼女はゆっくりと顔を上げた。燕尾服のかみさまが、いっそう機嫌よく笑っていた。
『これで七つ……ようやく折り返しも超えたかな。気分はどうだい、愛し子』
「……最悪……」
地を這うような声で真偽は言う。正直、助けてもらっている身分であれだけれども、このかみさまは本当に趣味が悪いと思うのだ。
『まあまあ。今回もなんとかなって良かったね、愛し子』
「なんとか……なってるのかなあ……」
『もちろん。彼の魂の欠片はあと五つだ。そう長い道のりじゃないだろう?』
そういうことじゃないのだけれど、このかみさまに何を言ったって無駄だ。かみさまと人間とでは、思考回路がまるで違う。
真偽は深く息をついて、彼の額に自分の額を合わせる。
「ごめんなさい、先輩。絶対に助けるから……だから、もうちょっとだけ待っててください」
目を開くと、陽光に照らされた彼の顔は、普段のような顔色に戻っていた。何度目か分からない安堵の息をつく。
そのまま、しばらく真偽は動かなかった。陽の光が彼の体を温めてくれるまで、ずっと、ずっと、彼の手を握り続けていた。




