0095 雪の禁域から還った男達
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
未だ新雪の上に新雪を重ねる森と里。
未だ訪れぬ新芽と花咲きの気配。
その有様に「春ノ司様の祟りだ」と小さく呟いた老父の言葉を思い出し、村の木こりにして森番であるラズルトは小さく首を振った。
その時は、
「滅多なことを言うもんじゃない、親父。"教父"様に聞かれたらどうするんだ」
と、父を強く諌めはしたものの……心から非難するわけではない。同じことをラズルトもまた、ひしひしと実感していたからである。
「ここから先は"禁域"だ。何度も言うがお前ら、ほんとに良いんだな? 教父様にバレたら最悪、あの"関所"で縛り首だぞ」
暦だけを見れば、もう春の始まりであっておかしくない。シオイオの木が花を付けて、その香りを頼りに『春ノ司』様の先触れたる"ちょうちょう"様の揺らめく気配が南からやってくれば、山から雪解け水が増える時節である。
村の蔵で大切に飼っている水蚯蚓達を、人の肌ほどの温水と共に、畑に撒くべき時期であった。
「うちの娘は生まれたばかりなんだ、こんなに寒くっちゃ嬶も一緒に参っちまう」
「うちの親父もだよ、肺がやられちまった。足を悪くしてるから街の医者にもかかれねぇ。後には引けないんだ」
「マクハードさんの行商隊も『冬ノ司』様の意地悪な"お恵み"で足止め食らってるらしいじゃねぇか、待ってたら年寄り子供から凍えちまうよ」
久方の小春日和。
時期外れの雪が数日間、しんしんと降り続けた分厚い曇天も"決行日"のこの日は切れ間が目立ち、その隙間から日が差し込む時間もある。それでも、森の中を覆う雪を溶かすには至らないが――真冬と同じ防寒装備を着込んだ男達の足取りは力強く、そしてそれぞれの表情は悲壮感に満ちている。
「仮に、だ。教父様が煩くおっしゃっても……"指爵"様が守ってくれるらしいじゃないか」
「ハッ! "魔法使い"どものご領主様が『四季ノ司』様達の何を知ってんだか。ご自慢の魔法で人や獣は狩れてもなぁ、相手はお天道様なんだぞ」
「おい、いくら聞かれてないからってやめとけやめとけ。本当に教父様を黙らせてくれたら、それはそれでありがたいことだろ?」
「……それに、だ。"魔法使い"も案外、悪い連中ばかりじゃないかもしれん」
「前の新月の晩に来たっていう、あの坊主と娘っ子か? うちは『温水蔵』からは反対側だからよ。遠目に見ただけだが、そんなに良い奴らなのか?」
「まるで『春ノ司』様の恩寵みてぇだよ……あの二人がいなけりゃ、今日は倍の人数で来なきゃならなかったところだよ」
【輝水晶王国】の南西の山岳国境森林地帯の内側の隘地。
ヘレンセル村と"名付けられ"た集落の男達は、木こりのラズルトを先頭に、人目を憚るように森の奥へ奥へと踏み込んでいく。皆、背負い籠やボロボロのロープ、枝打ちのための鉈を手に構えている。
彼らは暖を取るための薪を求めて、森に踏み込んだのだ。そのこと自体は、山林に近い集落に住む民としては当然たる毎年毎季節の営みではあるが――この年の"冬"は異常に長く深く続いていた。
そのため、例年であれば足りていた薪を使い尽くしてしまっていたのである。
目先のこととしては、村の年寄りや病人や赤子達を生かすための暖を。
そしてもう少し先のこととしては、水はけの悪いこの土地で畑を耕す際に不可欠な『水蚯蚓』を死なせぬための暖を。
まるでこの曇天が皆の心の中までも覆ってしまったかのような、いつこの冬が終わるともわからぬ、ずっしりとした不安が村全体を襲っていた。
――薪が足りぬのである。
足りぬ薪をさらに求めるためには……20年前に村々の多くの男達が武器を手に去っていき、そしてその多くが戻らなかったあの日以来、突如乗り込んできて「領主」の従士を名乗り「村長」として村に居座るようになった男とその取り巻きどもか、同時期にやってきて勝手に森の深くに分け入り、勝手に森を『禁域』だなどと宣言した『聖墳墓教』の"僧兵"達が村に残していった「教父様」の許可を得なければならない。
そして、既に『禁域』の手前、薪や森の産物を採取することを許された領域からは取れるものは取り尽くしてしまっており――ラズルト達は生きるためには、さらに森の奥深くまで入らねばならない状況にまで追い詰められていたのであった。
「だけどよ、なんで指爵様が守ってくれるだなんて言うんだ? あいつら『英雄様教』の連中とつるんでるんじゃなかったのかよ」
「俺が知るかよ、そんなこと。でもな、どうにも『村長』の野郎のとこの阿呆が漏らしてるのを聞いたんだが、何でも"指爵"様が、この『冬ノ司』様のお怒りに興味を持ってるとかなんとかでな……近いうちに人を寄越すだのなんだのらしい」
誰が言ったか、その話を聞いた密伐者達の間に、怒りとも諦めともつかないやるせない空気が瞬時に満ちる。
その情報は、彼らにとっては様々な意味で"熱く"なる話題であったようであり――心なしか、雪を踏む足に力がこもる。
「奴ら最初から……『貴婦人』様のお力を奪うつもりだったってわけだ! 畜生め」
「だとすると、あの親切らしい坊主と娘っ子も、腹の底はわからねぇよ。今日の薪取りが成功したら、やっぱり出て行ってもらうよう、村長に談判した方がいいんじゃないか? 言い方悪いが、どう見たって"訳あり"だろ」
「悪い奴らじゃない、と思うんだけどな。だが、蔵からは離した方がいいと俺も思う、あそこは村の心臓だ、何かされてからじゃ遅え」
「――なぁ? いっそのこと『血と涙の団』の奴らにやってもらって……」
「おい、いい加減にしろ! 滅多なことを言うんじゃねぇって言ってんだろうがよ!」
立ち止まり振り返ったラズルトが木こりの斧を構えて鬼の形相を作る。言い出した男が気まずそうに肩を竦め、他の者達も顔を逸らす。
彼らの中で、それは禁句に近い話題であったらしい。ラズルトが、深く息を吐いて斧を下ろし、宥めるようにぼそりと呟く。
「……他の"村"と連絡も取れねぇ。どう足掻いたって、あの忌々しい『関所』があるだろが、俺達なんか真っ先に見捨てられるか、囮扱いされて終わりだよ。そんなことに、みんなを巻き込むんじゃねぇや」
それっきり黙り込むヘレンセル村の男達。
彼らの脳裏をよぎったのは20年前の暗澹の記憶である。それぞれ、幼いか、または怪我や病に臥せっていたために――武器を手に手に取った父親や兄弟や、それと同然に過ごしてきた村の男達に残され、後を託されてきた身の上だったからだ。
重苦しい空気がさらに重苦しくなるが、むしろその空気から早く逃れようとしてか、皆の足が早くなるのであった。
――そうして森の奥まで進むこと、一刻ほど。
異変が起きたのは、その時分からであった。
「なぁ、おいラズルトよ、本当にこっちで合ってるのか?」
一人が不安そうに声を上げる。
話すべきではない話題を誰かが口にして、それをまとめ役のラズルトに制止されてから、初めて上がった声である。それにラズルトは答えず、肩を怒らせるように前へ進んでいくが――その足取りはどこか困惑気である。
少なくとも、黙って進み始めた一刻前と比べれば、森の奥へ進む速度も落ちていた。
そしてその声を皮切りに、男達の誰しもの胸に、染みが広がるように湧き出でていた疑念と不安が大きくなり始める。皆、その可能性を考えないようにしていたものを、否が応でも意識させられる。
「この景色、見覚えが無いかよ? なぁ、あの三つに割れた枝……さっきも見なかったか?」
「いいから歩け、この先なんだ」
「ラズルト、あんたを疑ってるわけじゃない。でもこれは、何かがおかしいって」
「じゃあどうするってんだ、引き返すか? これだけの人数で黙って出てきちまったんだ、気づかれてたらどうする。『禁』だか何だか破ってしかも手ぶらで帰ったらますます俺達は馬鹿だろうが」
ラズルトにとってはまだ老父が若かった頃のこと。
"指爵"だの"教父"だのといった連中がやってくる前に、何度も父についていって森へ入った記憶を頼りに、薪に相応しい低木や多枝樹の群生地を目指しており――確かにこの道で正しかったはずだ、と前へ歩く。
だが、歩けども歩けども、雪を踏み分けども踏み分けども、仲間達が怯え始めているように一向に景色が変わらない。
まるで雪の迷宮か、若しくは『冬ノ司』の先触れである"うさぎ"様の悪戯に迷いこまされたかのように、同じ景色の合間をぐるぐると回っている。ラズルトは確かに「記憶」にあるはずの目印を辿っていたというのに。
やるしかない、という半ば脅しのような激励は仲間達に対してのものか、それとも自分自身に対してのものであったか。
――大丈夫だ、『緑漣牙虎』にさえ気をつければ問題ない、と熟練の森番としてラズルトは気を鎮めようとする。しかし、まるで悪酔いのする山菜もどきか古い酒を飲まされたかのように、杳として雪景色が、森の道が全く頭の中に入らないのである。
『水蚯蚓』を餌にして『沼地蛸』を捕まえる時に、ぐるぐると沼をかき混ぜて蛸の方向感覚を狂わせてから、蛸壺に誘導するという技があったが……さながら、今の自分達が"蛸"になってしまったかのようであった。
ただ、それは不思議なことに方角や地形に対してのみのもの。その他のことに意識を向ければ、思考はまるではっきりと、ぐっすり寝た翌朝早く起きた時のように明晰となる。
……牙虎を筆頭に、森の奥に住まう危険な野獣を意識しつつ、また滅多にあり得ないことだが『魔獣』の出現の可能性も片隅に意識しつつ、ラズルトは歩き続ける。文句を言いたい心を押さえて、村の男達がそれに続く。
そしてその故に彼らは死地へと飛び込むこととなる。
迷いに迷いまどいつつも――しかしそれを観察している者達から見れば、同じ道をぐるぐる周りながら少しずつ少しずつ"深み"にはまっていくラズルト達。彼らが踏み込んだ、一見遠くまで見渡すことができる雪原は、実は薄く凍った沼地であったのである。
雪に埋もれるようにして、『痺れ大斑蜘蛛』が複数、協力して張った蜘蛛の糸が凍った沼面に薄く張り付くように広がっていたのであった。
ラズルトが違和感に気づいて立ち止まり、皆に注意を促す。
しかし、彼らをもう半刻もの間覆う"忘却"の力が判断を狂わせ、地形や、今己がいる場所がどこであるのかという理解と認識を妨げる。それほどまでに強烈な迷いと困惑は――観察する者からすれば、酷く不自然なことであったろう。
だが、狩る者達からすれば、単に格好の獲物であるに過ぎない。
無数のガラスが割れ砕けるような、遠くから木の枝が一斉に割れるかのような。
そのような「音」が足元から轟いて村の男達が変事に気付いた時には、既に遅かった。
割れ砕ける沼面の氷。
切れた投網のように四肢に絡みつく無数の粘着く"糸"。
獲物の悲鳴を合図に現れる狩る者――『痺れ大斑蜘蛛』達。
ラズルトを始めとした複数が悲鳴と怒号を上げながら斧や鉈を振るい、あるいは糸を叩き切り、あるいは覆いかぶさるように迫る大蜘蛛の肢を切りつける。そしてあるいは――"糸"に絡め取られた、自分自身の手足を切り落として逃げようとする。生きようともがく男達は、容赦の無い弱肉強食の淘汰の最中に知らず足を踏み入れてしまっていた。
一人が痺れ大斑蜘蛛の牙を受けて泡を吹き、激しく痙攣しながら倒れる。
割れた沼の氷点下の氷そのもののような凍てつく冷気に足をとらわれ、一人また一人と体力を奪われていく。動かなくなった村の男達を大蜘蛛達が糸に巻いていく。
と、思われたその時。
森中に、およそ『禁域の森』とされる場所はおろか、【人世】ですら未だ聞かれたことのない【おぞましき咆哮】が鳴り響いた――。
***
結論から述べれば、8人の"村人"のうち、救えたのは5人。
3人は俺の眷属達が介入して『痺れ大斑蜘蛛』達を蹴散らした時点では既に息が無かったため、遺骸を持ち帰った。
なお、「救った」とは言っても、残りの5人の傷を完治させてやっただとか介抱して目覚めさせて安全な場所まで送った、というわけではない。今の段階で俺の眷属の存在を明るみに出させる、というつもりは無い。
彼らの"集落"の側から見て森の浅い方、北側の出口ギリギリのところまで運んで転ばせた。そこから這ってでも生還できるかどうかは、彼らの天運によるべきところだろう。
――ただし、ちょっとした"仕掛け"を施していったが。
持ち物や小蟲から回収した「会話」の情報などから照らして、彼らの目的が暖を得るための薪狩りであると俺は判断し……『火属性砲撃茸』から採取した【火】属性の結晶の欠片を複数持たせてやったのだ。
それは、ただ単に"村"に帰り着くまでの暖を恵んでやる、というものではない。
俺が今後、この【人世】に進出していくに当たって、一つの仕込みであった。
「このまま、ただ森から出て行って村を訪れても、どこの馬の骨とも知れない得体のわからん存在だ。"よそ者"が嫌いな、辺境の閉鎖的な村では、どうあっても目立つし余計な筋に余計な告げ口をされてもかなわない」
「それで【魔石】として……あの者達からすれば、喉から手が出るほど欲しがるものを? ですが、それでは大挙して押し寄せませんでしょうか、御方様」
「なるほど、主殿の狙いは理解した」
「なんだと? どういうことだ、言ってみろソルファイド。見当外れであればその目玉もう一度ほじくりだしてくれる」
「"よそ者"が目立つなら、"よそ者"だらけにしてやる……ということだろう。『噴火は山火事犯しの救い主だ』と俺の父は言っていた」
「はっは、火竜の末の一族だろ、何かやらかしてきたのか? ――まぁ、上手く行くかはわからないがな。だが、"よそ者"だらけになったなら、追加でもう2、3人、それこそ竜人なんていう場違いな"よそ者"が現れたっておかしくはない。そうだろう? 何せ、危険な生物が棲息し――しかも訳の分からない呪いじみた『迷い』の力が蔓延る森、なんだからな」
現在、俺はル・ベリとソルファイドを伴って『小醜鬼工場』まで来ていた。
――目当てはル・ベリの【弔いの魔眼】である。
小蟲達から得た情報を母胎蟲経由でフィードバックし、合わせて監視役であった走狗蟲らを通して得た情報と副脳蟲達に突合させ、ある程度、森に北側から侵入してきた男達の事情を掴むことはできた。
何故そうであるか、まではわからないが……現在、この地域は地元民達をして生きるために無茶をしなければならないレベルでの異常気象にあることは間違いない。季節外れの"冬"という現象は、【人世】の特殊な気候というわけではなく、ヒュド吉の話と合わせれば、何らかの不測の事態そのものである可能性が高かった。
――であるならば、短期的には「暖」のための燃料の需要が高まっているだろう。死活的なまでに。
そして、まともな為政者がこの土地にいるならば、異常の原因を特定するために調査をしようとしているだろう。逆に異常の原因が何者かの思惑にあるならば、土地の為政者はこの異常から利益を得る立場にある可能性もある。だから、例えば寒村で【魔石】が発見されるなどすれば……どう反応するであろうか。
地中に放射状の管とする形で臓漿を伸ばし、また宿り木樹精や小蟲付きの【人世】生物達を配置することで、森林地帯での警戒網は粗々では完成できていた。
十分な準備をしてから"裂け目"を『不活性化』させてからでなければ、安易な遠出はできないという迷宮領主としての制約があることもあるので、少しずつ浸透する手法を取らざるを得ない。しかも同時に事態を動かして、収拾がつかないレベルにならないようにコントロールしつつも、むしろ外側から"情報"を呼び寄せることを両立させなければならない。
【火】属性の結晶たる【魔石】を、さながら"森からの贈り物"の如く、生き延びさせた村の男達の懐に忍ばせたのは、そのための仕込みであったのだ。
それこそ、水面に波紋を呼び起こすために投じる一石として。
だが無論、勝算無くして闇雲に投げた"石"ではない。
ル・ベリがソルファイドと軽口を叩き合いつつも――【弔いの魔眼】を発動させてその瞳を緑色に輝かせる。彼が手に持っていたのは、痺れ大斑蜘蛛によって殺された"薪狩り"の男達の遺骸である。
このために"なり損ない"でもなく"なり損なわない"でもなく、貴重な『11氏族』時代からの生き残りの、つまり小醜鬼基準で比較的相当まともな経験と記憶と言語能力と思考能力を持つ個体を潰す勢いで"消費"していた。
――『ルフェアの血裔』を侵す存在として生み出されたのが小醜鬼であり、『ルフェアの血裔』こそはかつては【人世】に住まう人族から枝分かれした存在ならば、この"遺骸"もまた小醜鬼達に「死の前の記憶」を呼び覚ますことだろう。
そうした俺の読みは無事に当たり、3名分の遺骸から……氏族生き残り小醜鬼20数体の犠牲と引き換えに、そこそこの情報を抜き出すことに成功したのであった。
「若い二人組の『魔法使い』とやらが"村"にはいる、とのこと。ひとまずはこ奴らが要注意ですな……」
「だが、突然村に現れた"訳あり"人でもある。状況が噛み合えばだが、迷宮まで誘い込むことができれば、色々と事情を聞くこともできるな」
「後は……"教父"? うぅむ、小醜鬼どもで言う祭司のような存在でしょうか、発言力がありこの森にも関係がありそうな者がいるようですな」
「目下、訳がわからないのはそこだな。『禁域の森』というキーワードと、入ることを制限されているという事情と、そしてこの連中が遭遇した忘却現象が気になる。おい、副脳蟲ども、念のため確認だがエイリアン達や俺達には――悪影響は無いんだな?」
《大丈夫なのだきゅぴ、モノも太鼓判さん押してるのだきゅぴ! 造物主様は紛れもなく造物主様である……我思うが故にきゅぴ有り》
《他の動物さん達にも影響は無いみたいだね! 情報を分析さんする限り、やっぱり、あの"人族"さん達だけが急にぐるぐる同じ場所を堂々巡りさんし始めたみたい!》
「魔法の気配も無かった、てことでいいんだよな?」
《そ……そうなんだ、不思議さんだけれど……一応、次がもしあったら、造物主様の【因子の解析】さんを使えば、何かわかるかも……?》
「あぁ、そうかなるほど、その手もあったか」
寒波の止まぬ季節外れの長き冬に襲われ、伐採を許された領域では既に取り尽くしたために、さらにその先へ、森の"奥"を目指した、木こりの『ラズルト』を先頭とした村の男達。
彼らが遭遇したこの『忘却』現象は、小醜鬼を潰しながらその「死の直前の記憶」を辿れば辿るほど奇妙であった。実際に、彼らの行動をリアルタイムで"観察"していた情報では、まさに堂々巡りであり――こと「地形」や「地名」といったものに対してのみ、認識力が極度に低下する様子が観察されたのであった。
――それも、計算してみたところ、俺の迷宮に近づけば近づくほど、その混乱が深まっているように見えたのである。
「『禁域』を字義通り解釈するなら禁じられた領域だ。だが、それは木こりの『ラズルト』が言うには、"教父"だの"領主"だの"村長"だのが乗り込んで来て以降のこと……どうも、何かが臭いな?」
「昔から、この土地にあった怪異であるならば、確かにああいう話にはならないでしょうからな」
「そこがどうにも気になる。俺達には全く影響が無い、というのも気になる。【闇世】の迷宮領主的な発想かもだが――ちょっとした『領域』ぽくもある。ぽいだけだけれどな」
「何かの力が存在している可能性が高い、ということだな、主殿」
――その"力"とやらを見極める意味でも、持ち帰らせた【火】の結晶を"撒き餌"とする。
少なくとも、再度村の男達が、今度はより大人数で、きっと藁にも縋る思いで同じ【火】の結晶が手に入らないか、禁じられた森の奥深くまで入ってくることだろう。
「その際に、だ。どんな風に波紋が広がるかを観察したい。あわよくば小蟲も植え付けたいが、それはまぁあわよくばで。"教父"だの"領主"だの、若い"魔法使い"の二人組だの。誰かが勇んで奥深くまで、命知らずにも自己責任で飛び込んでくるなら、儲けものだが、さて……」
***
果たして、ラズルトを含めた5名は傷だらけになりながら、自分達がどうやって『禁域』から抜け出したかもわからずに、それでも森から生還してヘレンセル村へ駆け戻った。
たちまちのうちに、彼らは村長――"指爵"の従士でもある男――の家に運び込まれ、事情聴取を受けることとなる。その場には『聖墳墓教会』の村付きの教父も現れており、ラズルトらの身柄を巡った対立となりかけるが。
そのタイミングで、彼らが懐に【火】属性の魔力を放つ【魔石】の欠片を持ち帰ったことが、判明したのであった。
村長は"指爵"――エスルテーリ指差爵家――へ、そして教父もまた近隣の教区を束ねる教区長にして街付きである司祭の元へと早馬の伝令を送って箝口令を敷く。だが、人の口に戸は立てられない。辺境の閉鎖した、誰もが顔見知りであるような村ならば尚の事、早馬よりも何倍も早く、ラズルトが遭遇した"事件"は皆の知るところとなるのである。
そして……【エイリアン使い】オーマの投じた文字通りの一石。
それが【火】属性であった、という偶然が、更なる憶測を招くこととなる。
ヘレンセル村に住まう者にとって。
否、20年前に【輝水晶王国】の頭顱侯家の一角である【紋章】のディエスト家によって滅ぼされた山林と泉の亡国の民にとって、"長き冬"が荒れ狂うというこのタイミングで【火】の属性が現れたことは、非常に重要で重大な意味を持つ兆候として受け止められる。
翌朝には、木こりのラズルトから更なる詳細な話を聞き出した村の男達が、改めて『禁域』の森へ踏み込むこととなったのであった。





