0090 悉く果て、尽く朽ちる(1)[視点:皆哲]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
そこは、どこまでも続く薄白い霧が続くような空間であった。
まるで幾百もの垂れ幕のように、白い空と白い海が原初の創世記のように入り混じっていて、かき分けどもかき分けども白い靄と灰色の霞が続き――見通すことができず、目の前に翳した掌すら、意識を集中させねば、形が浮かばぬほど濃密な薄暮に覆われた領域。
左右も、前後も、天地すらも定かではない。
――だが、逆に"意識"さえすれば、まるで額に第三の瞳が開いたかのように、啓く類の領域でもある。
「……う、ぐ」
青年はまず、己の"掌"を意識して、そして思い出した。
すると眼前に、まるで水面のように波紋を成す白い霞の中から自分自身の掌が浮かび上がる。
青年は次に、己の"名"――ルク=フェイールス・リュグルソゥム――を意識して、そして己が何者であるかを思い出した。
すると脳裏に記憶と感情が蘇りその薄暮、白い濃霧の世界と繋がる。
瞬間、まるで館の書庫中の書物という書物から抜き出された、数十万だか数百万、あるいはそれ以上にも至ろうという文字という文字が、雲霞の渦となって嵐を成して脳裏に叩き込まれるかのような情報の奔流と洪水が襲い来る。
自分という存在を自分と成すもの、自分の知る者達を成すもの。
取り巻くもの、知識、歴史、言語、状況と、そしてあらゆる感覚が、頭の中からまるで雷が花びらを咲かせるように炸裂し閃光を放つかのような感覚となって拓かれ――それが全身の感覚と、そして周囲を形成するただ深き夢幻の濃霧を啓いていく。
視覚と繋がる。
一瞬にして白い霧の空間が流れ出し、凝縮されて濃淡を成し、さらには光陰と共に色づく。
調度品が、天井が、姿見が、意思を持った白闇が、隠されていたその姿を織りなすかのように、姿の見えぬ彫刻家の手によって象られたかのように織りなされ――その"世界"は、青年ルクのよく知る屋敷の一室と同じものを象っていく。
聴覚と繋がる。
嗅覚と繋がり、触覚と繋がり、味覚と繋がる。
それまで自分自身が、ルクという名の青年が居た現世の"屋敷"を、まるで湖の水面に鏡写しに生み出したかのような虚像の"世界"――彼の一族の間では『止まり木』と呼ばれるもう一つの世界――ルクにとっての「現実」にとって代わる。
だが、紛れもなくそこは、ルクと彼の一族にとって、正しくもう一つの現実を成す"世界"であった。
「遅かったな、ルク」
声を掛けられる。
ルクが現れたのは、彼が連なる「リュグルソゥム家」の一族の所領、侯都グルトリオス=レリアにある侯邸の自室――を"再現"したもう一つの侯邸内の自室。
――だが、ルクにとってはある意味では……いいや、正しい意味で現世における自室よりも長く過ごした場所でもある。
声を掛けた人物は、扉の方に立っていた。
リュグルソゥム家の血筋たる濃い茶髪に、多くの白髪の混じった壮年の男で、ルクの叔父に当たるガウェロットである。その後ろには、ガウェロットの息子二人が付き従っている。
「すみません……心が休まらなくて」
「気が張っているな、こんな状況だ、仕方もない。ミシェールはまだか?」
「そろそろ、だとは思いますが」
500年前に"魔王"を退けたる偉大なる英雄王の長女ミューゼを国母とする【四兄弟国】の"長女"たる【輝水晶王国】。
"結合双生児"であった兄妹を祖とするリュグルソゥム家は200年の歴史を持ち、80年ほど前に、この国の為政を司る貴族位の最上たる『頭顱侯』の末席に名を連ねるに至った一族であったが――他家と同じく独自の秘匿技術、血統の中でのみ受け継ぐ魔導の秘奥を有する。
それこそが、たった今、ルクが"繋がった"この『止まり木』という異空間であった。
「シェイグ、ミディア、先に行っていろ。儂は少し、ルクと話をしてからミシェールも連れて向かうとしよう。兄上と姉上にそう伝えておいてくれ」
「了解です、父上」
眉間に刻んだ深い皺が特徴のガウェロットであったが、それが懊悩によるものか、思慮深さによるものであるかを彼はルクには見せない。ルクより4つ年上である従兄弟のシェイグがその場から離れながら、わずかに――ごくわずかに苛立ちと侮蔑の入り混じった感情を向けてきた気がしたが、ルクは目を合わせずに顔をそらした。
その様子に気付いてか、ガウェロットが軽いため息を吐きつつ、寝台に腰掛けるルクの隣に椅子を持ってきて自らも腰掛ける。
「"慣れぬ"ことはいい、昔から言い続けてきたことだが気にしすぎるな。『止まり木』を上手に"飛び遊ぶ"ことができるなど、誇ることでもなんでもないのだから」
「それでも皆への迷惑だと理解しています。私が……力無きその分だけ、皆に負担がかかっている。叔父上、私のような者をどうか構わないでください」
「それこそ何千回聞いた謙遜か知らん、ははは」
リュグルソゥム家の者に『止まり木』と呼ばれるこの時空は、彼らの一族の血筋でのみ継承される特殊な【精神】魔法によるものであった。
――自らもまた若かりし頃に、同じような苦悩を経験したガウェロットには、ルクの気持ちがわかっていた。そして4人いる自身の息子や娘達よりも、悩み多きルクに、かつての自分自身を重ねていたのである。
「『落伍者無く、皆早熟にして等しく晩成』か、大層な家訓だがな。これはかつて、口さがのない者達から受けた嫌味や皮肉であったということを、話したことはあったか?」
「記憶してる限りでは50回ほど……ははは」
一族の"家訓"とされているものを引き合いに出してガウェロットが腕を組む。
そして苦笑するように微笑み、ルクに言葉をかける。
今のルクと、そしてかつてのガウェロットは、己を"落伍者"だと思っていた。それだけ、彼らにとってそれぞれの兄姉達は、優秀でとても手が届かないと思えるような、今自分が歩いている道のずっと前を歩き、その背中は近づくどころか遠ざかっていくばかりとしか思えないような、そんな存在であったからだ。
「儂など、他家に生まれついていたならば、暗愚の烙印を押されてとっくの昔に放逐されていただろう。【聖戦】家では多少はモノになったかもしれないが――そうだな、【魔剣】家ならば早々に間引かれていたか。【遺灰】家ではどんな扱いを受けることになるか、想像もしたくない」
『早熟にして晩成』には、とあるカラクリがあった。
その秘密は、リュグルソゥムの一族同士が互いの"精神"を結合させることで生み出すこの空間にこそ存在している――共有の精神空間である『止まり木』は、時間と空間を超えるのである。
事実、ガウェロットとその子らは、その肉体は今この瞬間は【輝水晶王国】の遥か西方。"英雄王を裏切った者達"への建国以来続く【西方懲罰戦争】への増援軍として、麾下の精鋭を率いて参陣していたのであるから。
だが、きな臭い動きがリュグルソゥム家を取り巻くことをルクさえもが感じ取っていた。
同じ頃、王都からリュグルソゥム家にとって無視することができないらしい重大な案件に関して、呼び出しがかかったのだ。
当主の子ではあっても、4番目の末息子でしかないルクに詳しい話が知らされることはない――父にして当主たるシィル=フェルフと母はわずかな護衛と共に4人の兄姉達を引き連れて王都に赴いていた。
王国の南東部、【四兄弟国】の"末子"たる【聖墳墓守護領】との国境に、他家と比べればごく小さな所領を持つリュグルソゥム家の侯邸では、次兄と三姉、そして末息子ルクと末の妹ミシェールの4兄妹が留守を預かる形となっていた。
しかし、時空を越えて、さらには現世とは異なる時間の流れの中で、リュグルソゥム家は互いに実体を伴った精神体――"小鳥"となって『止まり木』に集まることができ、情報を交換し合うことができる。この日は、父達が王都に着いた日であり、その呼び出しに従って、西方に出陣していた叔父の一家も集ったのである。
だが、ルクは昔からこの『止まり木』が苦手であるというリュグルソゥム家の男子にあるまじき欠点に苦悩していた。
それこそ、母の胎より現世に生まれる前から何百、何千、何万回と繋がってきたはずの"世界"であったが――そのたびに、まるで自分という存在が食われてしまうかのような、周囲の白霧に覆われてバラバラに分解され身も心も魂さえもが霧散して消えてしまうような、そんな本能的な感覚があり、それを無意識に避けようとし続けてきていた。
故に、そういう"違和感"を持たない兄や姉達と異なり、積極的に繋がろうと思えない。
父や母に命じられて『止まり木』に潜り―― 一族の男子として求められる範囲で、必要な鍛錬は続けてきたが、それでもこの空間では、どうしても心が休まらない。もはや現世の何十、何百倍もの時間を『止まり木』で過ごしてきたはずであったが、この違和感のために、ルクは『止まり木』での時間を超越した鍛錬と訓練に、他の者達ほど打ち込むことができず、故に"落伍"している己を倦んでいた。
そして、そんな己にガウェロットが声をかけるものだから、実子であるシェイグ達からは苛立ちと侮蔑が入り混じった感情が向けられる、とも理解していた。
――それでも、このような"多少"の感情のもつれが、他家のような身内同士で血で血を洗うような凄惨な争いに至ることは基本的にない、というのがリュグルソゥム家の"強み"ではあったが。
共有精神世界で肉体を"再現"することで気の遠くなるほどの時間を費やして鍛錬や会議を行うことができつつ、しかし、そこに現れているのは個々の生の精神体である。少なくとも互いに向き合い、折り合いをつけることはでき……何より逃げられない。
血が薄れ『止まり木』へ至ることができなくなって臣籍に下った傍流家や、貴族家と成り上がってから従うようになった臣下の諸家はともかくとして、少なくとも、直系の一族の間においては裏切りや隠し事や陰謀の浸透といったものからは、基本的には無縁であるのが――第13位頭顱侯【皆哲】のリュグルソゥム家であった。
ガウェロットがルクに、自身の若い頃の"失敗"を語り聞かせる。
現当主にして兄であるシィルとの、『止まり木』世界の時間にして何年にも及んだ壮大な"喧嘩"を語り聞かせる。一つ上の世代、前当主の時代の"婚姻政策"が上手くいかず、兄弟姉妹達が夭折を繰り返した結果、「落ちこぼれ」に過ぎない自分が兄シィルの「代行」を努めねばならなくなった、という苦労譚を語り聞かせる。
――それはルクにとって初めて聞く話であった。
当主夫妻である父母と、次代を担う長兄と長姉が不在の中で、このような話を8人いるうちの中で、代行でも、補欠ですらない4番目に過ぎない自分に、今更聞かせる叔父の真意にむしろ不安を募らせる。
――得体の知れない何かの影が、一族を覆おうとしている。
そんな重大な局面で、わずかであるとはいえ……『止まり木』を恐れるせいで、この世界の統合を"乱す"存在である自分が叔父の時間を奪うことに言い知れようのない罪悪感を覚える。
本当のところ、ルクにとって一番の恐怖はそれであったのだ。
叔父は"落ちこぼれ"であることなど気にするな、と。家族の結束と親愛に勝るものなど無い、と、要はそのことに主眼を置いた諭しを続けてくれる。今も、そしてこれまでもそうであった。
……ルクにとっては、それはそれで昔から救われてきた言葉ではあった、が。
他の兄弟姉妹達と異なり、どうして自分だけが『止まり木』を恐れる心を持って生まれてしまったのか。そしてその結果として、いつも皆の足を引っ張ってしまうのか、ルクにはわからなかった。
だが、だからこそ、せめて自分が「末息子」であることに安堵していたのだ。
次期当主ではなく、その「代行」の責も無く、当主と「代行」が欠けた際の補欠ですらない"四番目"。迷惑をかけつつも、せめて、一族の将来を左右するような重大な事で迷惑をかけることはない、とその点ばかりは安心していたというのに――。
兄や姉の誰も聞いたことの無い、過去の秘密を初めてルクに明かしたというガウェロットの無理に明るく作ろうとする様子に、むしろ"最悪の事態"への覚悟じみたものを感じ取って、ルクは素直に受け止めることができないでいた。
「……来たな、寝坊のお姫様だ」
"繋がる"気配と共に『止まり木』の世界が一瞬だけ白く点滅――その「ブレ」は、いつも自分がそうする時と比べればずっと短い、意識しなければ気づかない時間――して、寝台に腰掛けたルクの隣に白い霧と光がまるで鋳型に流し込まれるかのように集まっていき、数秒かけて少女の姿を形どっていく。
「ルク兄様、それにガウェロット叔父様、大変お待たせしました」
そこに現れたのは、人形のように白い肌の少女。
リュグルソゥム一族の茶髪ではあるが、生まれつき色素が薄いのか、やや白く金がかった髪の毛を長く伸ばした少女である。齢17であるルクより2つ下にして、未だあどけない顔立ちであったが――切れ長の青い瞳が純真にルクに向けられる。
――"普通"は、こうなのだ。
今ミシェールが現れたように、現世から一族の者が繋がる際の『止まり木』のブレは、この程度でしかない。だが、自分が現れる時だけ――。
弾かれる眉間。
まぶたの裏にチカりと星が閃いたように、痛みがほとばしる。
だが、それは痛みが残らないように、気つけることだけを目的とした痛み。
指で額を弾かれたことに気づいたルクの瞳を、ミシェールが息がかかるほど近くに顔を寄せて、その空のように青い双眸を覗き込ませてくる。
「ルク兄様、またいつもの悩み顔ですね。叔父様を困らせては、いけませんよ」
あまりに近い距離に、体と心が否が応でも反応してしまい、心臓が早鐘を打つ。
――リュグルソゥムの"掟"に従い、自分とミシェールがどうなるかを知っているルクは……いつものように、自分の苦悩を吹き飛ばすためにわざとミシェールがそうしたのだということに気付く。次に、そう気づいてその意味を理解している自分自身に気付き――それに身を委ねる、つまり、末の妹の自分への一心の好意に甘える自分の弱さを再認識する。
ミシェールはいつでもそうだった。
物心ついた頃から、兄様、兄様と無邪気に自分の後ろをついてきてばかりであり……いつしか自分の苦悩を自分以上にその青い瞳の中に見抜き、誰に言われることなく、こうするようになった。自分だけが、"落ちこぼれ"にならないよう、ルクが遅れる時は常にわざとルクよりも遅れるのである。
そんなミシェールにすら、罪悪感を感じつつ、しかしその親愛に甘え、故に更なる罪悪感をルクは己に架していた。
「ルクよ、ミシェールを大切にすることだ。お前も、そろそろわかるようになる頃だ」
そんな二人の様子を見やって目を細め、ガウェロットが椅子から立ち上がる。
『止まり木』に充満する【精神】魔法の力に"意識"を向けて――何も無いように見える空中から、リュグルソゥムの高等戦闘魔導師の戦装束を描き出し、屋敷での礼装と塗り替えていく。
その瞳と表情は、優しげなものではなく、戦場における武人のそれに変わっていた。
――甘える時間は終わり。
ルクは心の中で己の顔面を叩いて活を入れ、いつの間にか、自分の手を握っていたミシェールと目を合わせて一つ頷き、一緒に立ち上がった。
***
『止まり木』に形成された"もう一つ"の侯邸の議場に16の影が並ぶ。
当主シィル=フェルフと、その妻。ルクとミシェールを含む、その8人の子ら。
代行ガウェロットと、その妻。シェイグら、その4人の子ら。
「本当に【歪夢】家は動いていないのだな?」
「"継戦派"が軒並み参陣したのも不気味ですが、"盟約派"と"破約派"からも仲良く杖を並べているのが不気味です」
「しかしその中にあの"夢遊病者"どもは入っていない、と。【遺灰】家と【纏衣】家、【冬嵐】家が不参加だが……"火葬狂い"どもはともかく、後の2家が出ないのは逆に怪しく見える」
「むしろ見せつけてきているように思えます。情報源は確かなのですか? 兄上」
「"氷靴"と"魔導大学"、そしてこれは内々にですがギュルトーマ家からも。【歪夢】家の血族どもは、それぞれの『遊び場』でいつも通り……"姫"が一人だけ行方知れずのようですが、これも、」
「ギュルトーマ家だろう? 元【重封】の号――自ら頭顱侯の座を降りた連中が、やけに暗躍しているな?」
「犬猿の仲のはずのロンドール家を通して、と付け加えておきます。そちらの仕込みである可能性も。【紋章】家の内部はますます伏魔殿じみていっている」
ルクは一言も発さない。ミシェールもまた、ルクの隣に座って静かに、家族達の話し合いを見守っている。兄姉達が主導し、父と叔父が適宜進行し、情報を交換していく。
王都入りする中で、改めて直接、偵者や協力者などから、またサロンから父母や兄姉達が手分けして集めた情報の数々が俎上に載せられ、叔父ガウェロットが西域の戦線で得ていた情報と突き合わせがなされていく。
誰が参加しているのか。どれだけの兵力で来ているのか。その思惑は、表向きの理由と裏の狙いは。
物資はいかほどであるか。そしてそれを王都でどのように伝えているか。
――諜報と防諜の基本が、複数の箇所で集めた情報の突き合わせとその矛盾の突き合わせ、そしてその解釈と、時には矛盾そのものの意図の読み取りであることを知るリュグルソゥム家は――その尚武の気質とは裏腹に【輝水晶王国】における頭顱侯同士の"謀略合戦"においても、高い適応力を見せて、生き残ってきた。
その核心が、こうした一族全員が顔を突き合わせての討議と熟議である。
何せ『止まり木』においては現世とは異なる速度で時が流れている。
たとえそれが、凶徒を前に剣の柄に手をかけ、抜き放つまでの刹那であったとしても――『止まり木』にさえ繋がることができれば、彼らはその精神世界で何日でも、何ヶ月でも、徹底的な"対策"を話し合い、備え、心構えて現世に戻ってくることができるのである。
故に、王国内で【皆哲】はむしろ武断にして尚武の家系として知られている。
【西方懲罰戦争】で西方の諸族と相対する主戦派の諸侯と比して、リュグルソゥム家こそが【輝水晶王国】で「最強」の一族である、との呼び声も年々高まっていた。
――自らを落伍者かその手前の"お荷物"と自裁するルクは、積極的に議論には参加しない。
それでも意見を求められれば、有り余る『止まり木』での"時間"の中で学んだ歴史書や兵法書、魔導書などから、一族の者が必要とする情報をさりげなく伝える。それでも必要以上に目立たぬよう、時にはミシェールに目配せをし、あるいは示唆にとどめて他の者が気付くようにさせる。
そうした手並みを、決してガウェロットもシィルも見誤ってはいない。
食も睡眠すらも不要である『止まり木』でのそうした討議は、常よりも長く、精神世界での二週間にも及ぶものだった。
西方戦線に参陣した諸家の情報を元に、もしも、いずれかの家が戦場の混乱に乗じて襲撃を仕掛けてきた場合。そして参陣しなかった諸家の情報を元に、そのいずれかの家が、王都のシィルらかまたは侯都に留守居するルクらに襲撃を仕掛けてきた場合。
その際の襲撃者が使う凶器は、規模は、陣容は――そして何よりその魔法は。
あらゆるパターンが想定され、討議の俎上に乗る。
そしてその一つ一つに対して、どのように初手を凌ぎ、または出鼻を殴り返して意図を挫くか。
彼我の戦力差、双方の勝利条件と敗北条件が設定され、分析と吟味が重ねられる――何せ、意識することであらゆる事象を"再現"できるのが『止まり木』である。時にはその場に訓練場か、戦場をすら模して出現させ、リュグルソゥムの一族で敵味方に分かれた模擬戦をも試行することができる。
それこそが、この一族の絆であり、親愛であった。
世界広しといえども、『止まり木』の存在を前提とした同じ時の流れを共有する存在は、結局のところ、リュグルソゥム家の係累には同じ一族の血族以外には居なかったのである。
そうした日々の中で、ルクもまた当初のやさぐれた心を調律していき、どうすれば一族が生き延びることができるか、どうすれば"最悪"を避けることができるかに、『早熟にして晩成』の一人として、持って生まれた知恵を投じていく。その傍らに、彼を支えることを"掟"づけられたミシェールの姿もまた、ある。
従兄弟達との"ささいな"すれ違いは、決して簡単に埋まるものでもなかったが……それでも、一族としてこの共通の時間を過ごす中で、少なくとも、同じ目的を共有する血を分けた同胞である、という心まで覆るものではなかった。
――そしてそれが、自らの家族と過ごす"最後"の時間となることを、リュグルソゥム家の四男ルク=フェイールスは未だ知らずにいた。
陰謀が潜んでいる可能性は非常に高いとして、あらゆる襲撃者の組み合わせやパターンが想定されたはずであった。しかし、とある"組み合わせ"だけは、あり得ないという反対意見が多数であったことにより討議には付されなかった。
"英雄王"の長女ミューゼを国母とする【輝水晶王国】は、長い歴史の中にいくつかの派閥に分かれている。この派閥同士の対立は根深いものであり、特にリュグルソゥム家が与する『盟約派』と、【騙し絵】家を首魁とする"破約派"は不倶戴天の存在。
その仲を、ある意味では主戦論によって取り持って外に向けさせ、王国の分裂を防いでいるとも言えるのが【西方懲罰戦争】を主導する"継戦派"または"懲罰派"。今回の各派閥の合同での一大攻勢が成ったことは驚嘆であるが――その水面下ではリュグルソゥム家でも掴みきれない膨大な動きや裏取引があったことは想像に難くはない。
だが、裏取引が多ければ多いほど、抜け駆けを行う者や口約束を破る者、表現の曖昧さを突いて不測の動きを企てる者とのいたちごっこが激化するものである。
そのような、怪奇と伏魔が混然となり複雑に利害が絡み合いまた対立しあうはずの諸侯が、そうした各々の思惑と妥協の産物を、一切合切、無視してまで。
まさか、全ての頭顱侯達が結託して襲撃を仕掛けてくる――などということはあり得ない。【皆哲】のリュグルソゥム家は、その可能性をわずかに意識しつつも、十分に想定して万全に備えて決断をすることが、ついぞできなかったのであった。





