0034 野心と無心[視点:竜牙]
この島は竜神様のものである。
そして、その竜神様がこの島の全てを「支配」しているのである――。
それが生まれた時から当たり前のことであり、竜神様が海の中にあって放つ"海鳴り"や、時にその身を現して歌うように放つ咆哮に、氏族の皆が、そして森の生命すらもが中てられている――だがそれが、単なる「捕食」ではなく「支配」なのであると気づいた時、かつての若き日のブエ=セジャルは戦慄に身を包まれるのを覚えたのであった。
単に、葉隠れ狼が獲物を襲う直前に枝を揺することとは異なる。
根喰い熊が骨を噛み砕く牙を研ぐために木の根を食い千切ることや、血吸いカワセミが弱った獣の古傷をわざと広げるために集団で嘴で襲いかかることとも異なる。
竜神様は獣のように咆えているのではなく――小醜鬼に対して語りかけているのである。かつて、竜神様に捧げられるべき生贄の身で、海に放り込まれるその寸前で竜神様の声を聞いた時、若きブエ=セジャルは全身を雷に打たれたような感覚に襲われた。
まるで、盲目の者の目が開いたかのような。昨日か、つい先ほどまでの自分には「知恵」というものが一切無かったものが、不意に芽生えたかのような。
"竜神様"によって自分は「知恵」を与えられた、という自覚が、シャガル氏族の祭司たるブエ=セジャルにはあった。
そしてそれは、如何に自分達小醜鬼という種族が脆弱であり、そしてまた愚かな種族であるかを思い知らされる日々の始まりであった。
暴力が尊ばれ、悪罵が悪罵を呼び、血の制裁がはびこる野獣と何ら変わらぬ生活。
"氏族長筋"に生まれつかず、先天的に体格や筋肉も願った通りには大きく成長しなかったブエにとって、生き延びるためには、竜神様によって与えられた「知恵」を駆使する他は無かったのであった。
だが、知恵はブエを長生きさせた。
2~3年で成年となり、長くとも10年生きることが滅多にあり得ない小醜鬼という種族としては、異例であり異常であると言えるほど長生きをし、生き延びた彼が現在では齢20に至る、押しも押されぬ大祭司として知られているのであった。
その道も平坦ではなかった。戦士の類と対立し、殺されかけたことは幾度にも上る。小競り合いで置き去りにされたことや、獰猛な野獣に襲われた時に捨て駒とされかけたことも多数あった。
それでも彼は、若き日に与えられた「知恵」によって獣達を観察し、小醜鬼を観察し――そして何より、竜神様からの最大の贈り物としての「魔法」を扱う力を開花させていたのであった。
「師ヨ、"使徒様"ガソロソロオ食事ノ時間デス……」
両膝を付いた、若い小鬼術士がブエの小屋に入ってきて、そのように報告をしてきた。
彼は昨年、ブエの弟子となった新たな才能である。ブエが知恵によって幾度となく窮地を乗り越え――そしてその後、徐々に自分自身の勢力を形成することができた理由こそが、彼のこの"弟子"達の存在であった。
ブエは、簡単に言えば、見込みのある小醜鬼に――"歌"を聞いたが最後、真っ先に海に飛び込もうとするような者達を――縛り付けたのである。無論、それは彼らの命を救うためなどではない。自分と同じように、その"歌"の意味を理解することができるようになるまで、何度でも何度でも海岸で"海鳴り"を聞かせ続けてきたのであった。
そのためにブエは氏族の幼体を拐かしてもいる。当初は失敗して心神喪失や精神崩壊に至らせてしまうことも多く、そこでもブエは危ない橋を数多く渡ることとなった。だが、苦労に見合う成果として、自分には遥かに至らないまでも"多少"は「知恵」をつけた小醜鬼達を生み出すことができ、その者達から小鬼術士が次々と現れるようになる。
斯くして、ブエ=セジャルの"弟子衆"という集団が誕生し、さらに時間をかけてシャガル氏族の中で権力の掌握を進めてきたのであった。
「ワカッタ、儂モ行コウ。今度コソハ、使徒様ニモ動イテモラワネバナラヌカラナ……」
杖をつき、老身を起こす。すかさず、小屋の中に控えていた弟子の2人がブエの身体を支え、立ち上がることを助けた。
もしこの様子を、オーマの従徒にして元"半ゴブリン"であるル・ベリが目の当たりにすれば、驚愕のあまり顎を外して言葉を失う光景であったかもしれない。ブエの存在を知らなかったル・ベリにとって、このように老いて衰えた小醜鬼が「手助けされる」ということ自体が、その生態からして、まずあり得ないことであった。
だが、肉体は衰えたといえども、ブエの瞳は猛禽類のように爛々と見開かれ、眼光鋭い。
彼の身体の奥底には、決して潰えず消えることのない――かつて竜神様から与えられた「知恵」があった。
ブエには夢が、野望があったのである。
ブエは愚かな小醜鬼という種族が大嫌いであった。「知恵」の無い野獣と同然の生活を数百年も繰り返し、暴力を尊び、その日の諍いの中に生きつつ、野獣の襲撃に逃げ惑う、この愚かな種族が大嫌いであった。
――故に小醜鬼達に、あまねく竜神様の「知恵」を与えることが、彼の野心であった。
無論、並大抵の道ではないことを彼は理解していた。
今は11の氏族が残っているが、その全ての者に「知恵」を与えるのである。シャガル氏族こそこうして掌握したが……そのために何年もの時間がかかり、自分はこうして年老いてしまった。
弟子をわざと「追放」して、他の氏族で祭司とすることを思いついたのは妙案ではあったが、ゴゴーロ氏族、ザビレ氏族では成功したものの、レレー氏族に送り込んだ、最も目をかけていた「最高の弟子」であり後継者とも見込んでいたグ・ザウからの定期的な連絡が無くなってから、既に何日も経っていた。
やはり、時期尚早ではあってもグ・ザウの下へ、彼の補佐役とすべき小鬼術士の弟子衆を送り込んで合流させることを早めるべきであったか、と後悔しても、時は戻らない。自分が生きている間には、もはやこの島にあまねく竜神様の「知恵」を降り注がせることはできないかもしれない。
――そのように諦念を抱き、彼の地位を戦々恐々とうかがう弟子達から、後継者を定めようかどうかを悩み始めていた、まさに、その時だったのである。
"使徒"が現れたのは。
いつになく、竜神様が長く、そして激しく咆哮を繰り返していたのが10日ほど前のこと。
当然、ブエには竜神様の「言葉」はわからないが――それでもその長く激しい"歌"が、歓喜と怒りに満ちたものである、ということまではわかるようになっていた。それほどまでに長く、ブエは自らを竜神様の海鳴りの如き唱和せらる"歌"にさらし続けていた。
何か、これまでに無いことが起きる、と予感していたその2日後。
シャガル氏族の縄張りである、島の西海岸に、野獣でも小醜鬼でもない、偉丈夫が流れ着いていたという報告が伝わってくる。
氏族の戦士達が恐れを為して誰も触ろうとしない中、弟子達を引き連れて海岸まで辿り着いたブエがそこで見たのは――。
燃えるような紅蓮の髪の毛に、「人」の姿でありながら、その顔から首、胴体にかけてまるで竜神様であるかのような紅い鱗と、そして"尾"を備えた一人の男であったのだ。
見たことも無い姿、見たことも無い衣装に履き物、そして異常なまでに赤く熱され高音の熱波を漂わせていた一振りの剣を佩いた男が、うめくように発した言葉が――竜神様の"歌"と同じ韻律をわずかに備えていたことに気づいたのは弟子達の中には一人も無く、ただブエのみであった。
思うように進まない、11氏族の支配と統合を進めるための最後のピースこそが、その「竜なる人」の姿をした男である――。それは、ブエがその者こそが竜神様が遣わした"使徒"であると、確信した瞬間であった。
***
献上された鹿の脚をつかみ、ソルファイドは『ガズァハの眼光』を肉切り包丁代わりに突き刺した。そして肉と筋の方向に沿って切り開き、骨の関節に刃をあてがって一息に断つ。
血抜きも満足にできていなかったが、それでもまだ状態のよい鹿肉ではあった。そのまま『ガズァハの眼光』に向け、限界まで出力を押さえた極小の『息吹』を吹きかける。たちまちのうちに赤熱する刀身を切り落とした鹿肉にあてがえば、獣肉を焼く火力としては十分。ジュゥと心地良い音が鼓膜を刺激し、束の間ソルファイドの食欲が掻き立てられる。
そのまま竜人の牙を以って鹿脚の骨を噛み砕き、音を立てて髄をすする。
続けて鹿の腹をかっさばき、肝臓を素手で引きずり出す。まずは生のまま食らって濃厚な味わいを試し、次には息吹で炙ってよく火を通す。他に献上された木の実のうち、薬味となる香草を手ですり潰して焼けた肝臓へ振りかけ、一口で食らった。
ソルファイドが豪快に鹿肉をかっ食らう様に、小醜鬼という名の種族の戦士達が数名、物欲しそうに眺めるが、即座に老祭司であるブエ=セジャルに杖で頭を殴りつけられ、呻いて崩れ落ちる。
この日も、この老祭司はソルファイドが時間をかけて食べ終わるまで、一言も発さずじっと側に数体の小鬼術士達と控えていた。
多頭竜蛇との死闘の末、ソルファイドは海に落ちた。
運良く溺れ死ぬことなく、当初の目標であった『最果ての島』の海岸に流れ着き――気がつけば、そこで魔物とも野獣ともつかぬ、ずんぐりとした小さな人型の生物に介抱されていた、というのが"初日"の記憶である。
傷跡には獣の皮を使ったらしき粗末な包帯が巻かれ、食いきれぬほどの野生動物の肉や、ありとあらゆる種類の山菜、薬草や果実の類が泥を焼いた皿に山盛りにされ、取り囲むように献上されている。
だが、何よりもソルファイドが訝しんだのは、その小鬼のような小さな人型種族の代表者と思しき、異常に年老いた個体が――テルミト伯やそのメイド達の種族である「魔人族」と同じ言語を、かなり聞き取りにくい汚い発音ではあったが、話したことである。
状況の把握と情報収集のため、黙って聞いていたところ、その老個体は自らを小醜鬼種族のシャガル氏族を統べる"祭司"のブエ=セジャルであると名乗る。そして、ソルファイドが尚も黙っていると――どうも小醜鬼という種族はこの『最果ての島』で多頭竜蛇を畏れ崇め奉っていることや、ソルファイドが海からやってきたその"使徒"であるとみなしている、などといったことを話し始めたのであった。
無論、ソルファイドとしては"使徒"のつもりもなければ、老祭司が自分に期待する"役割"というものもどうでもよかった。
そんな風に、恐れ慄く小醜鬼達の歓待を受けながら状況を整理する数日間。これはこれで都合が良いとソルファイドは逆に考え始めていた。
ほとんどは、ブエ=セジャルが食事の時間に現れて、食後に一方的にまくし立てるだけであったが、なんとなく彼が自分の力を借りて島に他に10あるという他の小醜鬼の氏族を統一したがっている、ということが理解できた。
そしてそれは、テルミト伯から与えられた「リーデロット」という人物を探すことにも――そして、多頭竜蛇に敗れて流されてきた際に失ってしまった双剣の片割れである『レレイフの吐息』を探すことにも役立つ、と思われたからだ。
それで体力の回復と、多頭竜蛇との応酬で、身体への反動を無視した『息吹斬り』を両手から打ち放ったことでぼろぼろとなっていた両腕の回復を数日間待ちながら、ソルファイドはブエ=セジャルの相手をする時以外は全ての時間を瞑想に費やしていた。
その間、1回だけ、ブエの静止を振り切るように数体の「大柄な」小醜鬼が襲いかかってきたことがあった。だが、かつてウヴルスの里で【守護戦士】として火山近郊に住まう魔獣達と切り結び、『黄金の馬蹄国』の騎士達と死闘を演じ、【闇世】に落ち延びてからは迷宮領主同士の闘争に関わり、そしてつい先日は「竜」と殺し合ったソルファイドにとっては、少しばかり大柄な野生動物をいなすことと代わりがなかった。
一太刀の元に眼前の1体を切り捨てるや、戦意を喪失したように、その襲い来る小醜鬼達は散ってしまったのである。そしてその翌日からは、日々献上される食事の量が倍増することとなった。
その中にあって、ソルファイドはブエに一度だけ「リーデロット」という名前を知るか問うたことがある。果たして、数日後にブエがどこからか調べ上げてきた情報では――なんとシャガル氏族から見て、島の中央北東に縄張りを持つレレー氏族で、かつてそのような名前の者がいたらしい、ということであった。
そこでソルファイドは更なる情報を求めたが、ブエが制止するには、既に十数年も前に死んでいるらしいということ。加えてレレー氏族は島内で最大の勢力であり、いかな無双の"使徒"であっても、単身で乗り込むには危険過ぎる。
そしてそうするのが望みならば――竜神様がこの島を"使徒"様が統べるように望まれたと自分は確信しており、その手伝いをさせてほしい。暴力に訴えるしかない他の10氏族全てを統一するために、ブエ自身と彼の弟子である小鬼術士達が力と命と忠誠を尽くす。
その嚆矢として、レレー氏族に攻め込んで滅ぼそう、とそのようにしきりにソルファイドを説得してきていたのであった。
だが、ソルファイドはそれと同時に、数日前から非常に気になることがあった。
――片方を失った片割れの双剣である『ガズァハの眼光』が、まるで呼ばれているかのように、時折鈍く共鳴して震え、島の南東側に切っ先を向ける、ということが幾度となく起きたのである。
呼ばれている、とソルファイドは直感していた。
この島には『レレイフの吐息』もまた流れ着いており、そしてそれが小醜鬼達とはまた異なる何者かの手の内にある。そしてそれは、ただ単に双剣が双子の共鳴を見せただけでのものではなく、『魔素』という名の、ソルファイドにとって因縁深い相手である迷宮領主達が扱う超常の力の源、その気配が明確に感じられるものであったのだ。
「ここにも迷宮領主、か」
多頭竜蛇との死闘の最後、意識を失う直前に聞いていた、その言葉が脳裏に蘇ってくる。同時に、テルミト伯の我欲と執念に満ちた狂的な眼光をソルファイドは思い出していた。
どこまでが、テルミト伯の思惑の内であったか。
そして多頭竜蛇は何を狙っているのか。
自分は誰の掌の上で踊らされていることであるか――。
だが、取引に応じて島に乗り込み、里の秘宝であった双剣の片割れを失ったソルファイドにとって、取れる選択肢が少なかったこともまた事実である。
――そして、『ガズァハの眼光』がこのように共鳴しているということは、『レレイフの吐息』もまた同じように共鳴していることに他ならない。この島にテルミト伯の如き存在が、小醜鬼達にも知られることなく巣食っているとすれば、これによって自分の存在が捕捉されている可能性もあるとソルファイドは感じていた。
だから、時折ソルファイド自身の方から、瞑想の中で闘気を整え、強烈な意思とわずかばかりに多頭竜蛇から"盗んだ"『竜言』を『ガズァハの眼光』に込めて、『レレイフの吐息』の方に剣気として送るように念じた。
俺はここにいるぞ、という挑発である。
しかし、水面下で何をしているかどうかもわからないが、それとなくブエ=セジャルに周囲の出来事を確認しつつも、数日間目立った動きは特段に無かったのであった。
そしてソルファイドは、体力が回復したこともあり、そのように"待つ"ことに、いい加減に飽き始めていたのであった。
「"使徒"様、タッテノオネガイデ……」
「行くぞ」
「――ハ?」
老祭司ブエ=セジャルの言葉を遮り、ソルファイドは片目のみの眼光で居並ぶ小醜鬼達に対して、どうした? と言わんばかりに睥睨した。
「あれほど、俺に出征を促していただろう。だから、今から行ってやると言うのだ」
よほどソルファイドの反応が意外であったか。
あるいは、自分自身の数日間の誠意が通じた、と誤解でもしたか、ブエ=セジャルは見る間に活力に満ちた表情となっていき、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃに歪め始める。そして左右に控えさせた弟子達にあれこれ、指示を出し始めようとするが――それを制するように、ソルファイドはぴしゃりと言葉をかけた。
「ただし、レレー氏族とやらのところへは行かない。行く必要が無い」
「……ハ?」
「ブエ=セジャルとやら。小醜鬼で最も知恵深いお前のことだ。この島の"秘密"を知りたいだろう」
単身で迷宮領主の下を訪れることを厭うわけではない。
しかし、露払いが必要ない、と慢心するつもりもソルファイドには無かった。何より、火竜骨の双剣の共鳴を利用した伝言が、『レレイフの吐息』を持っているかもしれない迷宮領主に伝わっているならば、せめてその懐深くまで潜った上で対峙したいとソルファイドは考える。
――多頭竜蛇の語る通りに、その配下となるのか、はたまた倒して力を奪い取るか、ソルファイドは決めかねていた。いや、それを決めるという行為自体をソルファイドは、可能な限り先送りにしようとしていた。
「リーデロット」に『レレイフの吐息』。
テルミト伯の思惑に多頭竜蛇の挑発のような煽動。
そのどれに乗るのも癪であり、しかし同時に、それを理由にこの島の迷宮領主と対峙し、戦うことの方がずっと楽であり、何も難しく考える必要が無いことだと思えた。
だが、とソルファイドは1点だけ、今の己の言動を自嘲する。
ブエ=セジャルを動かすために、彼に発奮させるために、今己が用いた論法。
"対価"を与えて命を含めた献身を強いるやり口。
それはまるで迷宮領主のようなやり方だな、とソルファイドは己を自嘲したのである。自分に「取引」を持ちかけた、テルミト伯の狂った眼差しがソルファイドの脳裏に再び浮かぶのであった。
――斯くして、最果ての島の小醜鬼諸氏族の歴史が動き出す。
シャガル氏族の老祭司ブエ=セジャルが、島の各氏族の下に潜り込んでいた弟子達に結集の"檄文"を送る。それに呼応して、各地の氏族で「遠征団」の結成という動きが起きる。
しかし、その日は同時に、最果ての島の小醜鬼達にとって「崩壊の日」として記憶されることとなるのである。





