0258 鮮血と退廃の都に交錯する死戦(1)[視点:その他]
「これは千載一遇のチャンス……というやつだよ、アシェイリ」
新月がさらに漆黒の曇天に覆い隠される路地裏の暗夜。
暗がりのその暗がりの――乾いた血と湿気が染み込んだ――そのまた暗がり。
その通りにおいて、その出で立ちは、実は特段珍しくもない。行き交う人々のその意識と心持ちの死角の一つにて、おのおの【夜の外套】に身を包んだ――それはこの都市では彼らの”正装”である――2つの色白い影が向かい合っている。
語りかけるは、あどけなさを湛えた少年。
濡れ羽のような髪が頭の横側から幾筋かを刈り込まれたような短髪であったが、一房だけ、顔の3分の1を自然に覆うように前髪が垂れている。変声を迎えることのなかったと思われる高音の声で、しかし、まるで賢者のような落ち着き払った調子で、彼は眼前の”相棒”に語りかけた。
「わかってる。現れたのは、厄介なお困りさん――タレーエンが、そいつらの監視役になった」
「そう。ボクは、どこから現れたともしれない『長女国』の、それも頭顱侯家の御曹司を”監視”しなきゃならない……怖い、怖い、フィーズケール家の”監視”だ。きっと、骨が折れるし血反吐もはくかもしれない」
タレーエンと呼ばれた少年は、夜空の瞬く星を映したような双眸を瞳孔だけできらり光らせ――しかし、すぐに曇らせた。
【山猫術】と呼ばれる、彼がその”鍛錬”の過程で修めた流派が扱う「技術」の一つである。つまり、言葉そのものを介さぬ、あらかじめそういう意味であると取り決めた相手同士との遣り取りにおいて扱うべきものとして。
これに対し、頷き、ややぶっきらぼうかつ平坦な調子で答えたのは、少女であった。
より小柄なタレーエンと比べてしまえば相対的には長身と見えるものの――少女と言って良い体躯ではあった。
ただし、二人を包むのは【闇】属性の気配と、乾ききれず内側と外側から染み出す【血】の気配である。
タレーエンが”子猫”ならば、さながら、こちらこそが餓え痩せた剽悍なる”山猫”――を彷彿とさせるような、じとりと半ば剥き出されたような三白眼。それを向けられれば、彼女を形容するには、いわゆる華凜さを備えた「少女」という語では、些か。不足しているのは語感としての力であるか、役であるか。
――少女らしさ、というものを武器にすることなど考えうるべくもない。
単に身体機能・性別分化において「女」という形態である以外を除けば。
タレーエンと、今この場にいない(いるべきであると二人が望み、また、三人で約したはずの)もう一人の少年と同様に、文字通り、骨が砕け血しぶきが飛び散る解体的な”鍛錬”を経たる獰猛な工作員としての”完成度”に関して、アシェイリと呼ばれたる少女に何ら遜色は無い。
……何なら、その背に隠すことなく【夜の外套】からもはみ出るようにして背負う、無骨にしてほとんど鉄塊の如き存在感を放つ『大斧』が、彼女が『工作員』としてはどのような役割を担っているのかを、雄弁に物語っているかのよう。
――彼女の職業は【血の狂戦士】と呼ばれている。
斯くなる二人は吸血種であった。
それも、『退廃の商都』とも称され、国際的には非常に特殊な立ち位置にある密輸交易都市『シャンドル=グーム』の裏通りを根城とし、この街に逗留しながら活動する間諜に属している。
そんな二人は、しかし、数日に渡る「断血」を敢行してまで――つまり、他の吸血種達からその行方をくらませるために――この”密会”に漕ぎ着けていた。
ただし、夜風の無音さの中に染み入るように囁き交わされるその言葉。
それは吸血種という種族の、とある”事情”を知らぬ者からすれば、ひどく、遠回しで迂遠で奥歯に物が詰まったような、言葉を選んでいるかのような、何を言っているのかじれったいような対話である……と聞こえたことだろう。
「ところでアシェイリの方も――災難だね。元々、ここにはそんなに長く逗留するはずじゃなかったのに。『梟』から、厄介な”使命”を引き受けてしまったってね。【魔人】が現れたんだったか」
「そう。お【魔人】さんが、現れた。その”監視”の任務はやっぱり大事なことだから。ここであいつらが何をしようとしているのかは、明らかにしないといけないから――じゃないとユーリルの”任務”の邪魔になるかもしれない」
「『梟』も大袈裟な物言いをしてくれたみたいだね……同情するよ。そう言われてしまったら、『アシェイリ』だって、ここに留まらないといけなくなってしまう。それこそ、魔人達がここに居続ける限りずっと――仮にどこかへ出かけても、”ここ”で何かを企んでるかもしれないのなら、戻って来るかもしれないなら、『アシェイリ』はずっとここで監視を続けなくっちゃいけなくなる」
小柄なタレーエンが、断定するようでいて同時に確かめるような微妙なニュアンスの口調で告げ、その目を細めた。彼の【山猫】の眼もまた、その一言一言の調子に応じて明度を変えながら、アシェイリと、まるでもう一つの会話を”眼”で行っているかのよう。
「『タレーエン』も大変だよね。その……お困りな厄介者さん達が、よりにもよって『遺跡』跡から現れた、だなんて。『梟』があんなにも気にするなんて、本当に珍しい。タレーエンのことを、あいつは、私からも遠ざけていたのに。そんなに、お困りさん達が『問題』を起こすのが怖いのかな? 『タレーエン』はどう思う?」
「なんでフィーズケール家の【剣魔】が、遥か北の『氏族連邦』の”前線”じゃなくて……こんなところに現れるだなんて考えもしない搦め手だよ? まさか『長女国』に侵入するためのボク達吸血種の拠点たるシャンドル=グームに――逆に侵入してくるだなんて、面白いじゃないか。そんな彼らは、一体全体何をしようとしてると思う? 『アシェイリ』」
二人にとって看過できぬ事実として、件の『梟』はユーリルを知っていた。
それだけではなく、ユーリルと、アシェイリと、タレーエンの関係性をも知っていた。3人の他は誰にも知られぬはずの話を、である。
「ユーリルは、ナーレフを通って『長女国』へ行った。その後で、ユーリルはずっとナーレフで……活動をしていた。あの物凄く酷い、おぞましい、得体のしれない【血】のそばにいながら。そしてユーリルの【血】に――混ざり込んだ」
――迷宮の【血】が。
そう呟くアシェイリの、淡々とした口調とは裏腹に、激しく動揺した様子を平坦な眼差しの裏側に隠されたる有り様を【山猫】術の瞳孔でタレーエンは見出している。
「そうだよね、『アシェイリ』。【魔人】がユーリルに何かをしたんだ、その可能性がある。でも、だから、だ。だからこそ『君』が【魔人】を監視する理由は――『梟』に言われてこの街での企みを防ぐことだけではないはずだと言えるはず、なんだ。ここで何かを企んでいるのも、ユーリルに何かをしたかもしれないのも、どっちも【魔人】の動きなら……それは、この街への企みと同義かもしれない」
「わかっているよ、『タレーエン』。そのユーリルが行っていたナーレフの方角から、あの、厄介なお困りさん達が現れた。その意味も、わかっているつもり――お【魔人】さん達や、迷宮と関係していないと見るのは、あまりにも楽観的すぎるから。『私』だって、そう思う」
吸血種達が影の支配者として活動するこの都市『シャンドル=グーム』は、厳密には【アスラヒム皇国】に所属しているわけではない。
【ネレデ内海】の北西沿岸地帯に立つこの交易都市は、法的にはこの地は丘の民達の国家である【六脈の頂峰国】(通称『峰国』)の施政下に属する「治外法権」都市であり、表向きは【西方諸族連盟】から唯一東方の『神の似姿』達の諸国(『四兄弟国』)に向けて開かれているとされていた。
だが、その実態は、亜人達の複雑な勢力関係が入り組みつつも、複数の吸血種グループ(当然、本国の各派閥に紐付く)によって元締め的な統括が行われている、あらゆる商品が集まる密貿易の中心地。
かつてこの地に栄えた交易都市連盟【ゲルティア城址連】が、英雄王アイケルの背中を襲った”裏切り者”として『長女国』と『次兄国』、そして【アスラヒム皇国】によって3分割される形で消滅した後、その最も栄えた『ゲルティア市』の跡地に立つのが『シャンドル=グーム』であった。
必然、シャンドル=グームは吸血種達の対『四兄弟国』の侵入工作における後方策源地の役割を、今も果たし続けている。
アシェイリとタレーエンの二人が『梟』と呼ぶ吸血種もまた、つい最近から頭角と存在感を急激に顕すようになった……そうした”元締め”達の一人なのであった。
そしてこの『梟』――【紋章】のディエスト家に潜っていた「ネイリー」という名前の吸血種――は、アシェイリとタレーエンと、そしてユーリルの3人しか知るはずのなかった”事情”を知っており、それを利用しただけではない。
”同門”の3人が、かつて皇国を出立する契機となった、それを命じたはずの者以外には誰も聞かされていないはずの大いなる使命――『大命』――をどういう事情によってか、知っていたのであった。
そしてその故に、彼の「言動」によって、アシェイリとタレーエンは――否。
『アシェイリ』と『タレーエン』は、その説破と話術と論法により、自らを『梟』と呼ばせる、この単に長く生きていること以外は階級上は同格の仕属種に過ぎない吸血種の、その「指令」に従わなくてはならない――と、それぞれの【使命人格】に刷り込まれてしまった。
二人は、事実上、『梟』の手駒として行動することを納得させられてしまうという現状に、ここしばらくの間、甘んじていたのである。
特にアシェイリの場合、同門たるユーリルを追ってアスラヒムをようやく発つことができ――己に課せられたる『使命』のために――タレーエンの伝手を辿って『シャンドル=グーム』を訪れることが出来たその矢先での【魔人】への監視と都市への待機命令であったのだ。
口調こそ淡々としているが、その裏には、意に沿わぬ――もちろんアシェイリ自身の人格の――【使命】によって足止めをさせられることへの憤りが渦巻いていたわけである。
それでも、二人をそのように強引な形で自らの手駒に加えたという『梟』の行動そのものが、付け入る隙であった。流石に、アシェイリとタレーエンの二人がかりでも――ユーリルがこの場にいたとしても――斃すことのできるビジョンが浮かばぬほどの実力者であったとて、この灰色の都市に巣食う”元締め”達から見れば、彼は単なる新興勢力に過ぎないのである。
だが……実力で軛を断てぬ以上は、搦め手で臨むしかない。
その一環として、アシェイリとタレーエンは『梟』の狙いや目的を密かに(【使命人格】に咎められない範囲で)調べていたが、彼が迷宮と、旧き古代帝国時代の『地下遺跡』に並々ならぬ関心を示していることを探り当てることに成功した。
すなわち『シャンドル=グーム』の近郊。
『長女国』の方角から(「ナーレフの方から」というのは【使命人格】に対する完全なる説得のためのこじつけ)、かつてそこに【黄昏の帝国】の地下遺跡がある――とされていた『禁域』の地より、2名の「厄介者」が姿を現して、この街に身を寄せたのであった。
よほど、『梟』はその情報の独占を狙ったのであろう。
アシェイリと合流させぬよう、街の反対側まで遠く離して敵対する他の”元締め”達に対抗させていたタレーエンを呼び戻し(そもそもタレーエン自身は『梟』が現れる前から、この街の『影』の一人として長らく活動していた。それもまた、詳細はアシェイリには知らされてはいない、ある『大命』に基づいているのだが)、彼らへの監視と情報収集・諜報の任務を下す。
そして、これが二人にとっての好機となった。
タレーエンはまさに『そのこと』を情報として、自らに与えられた『指令』を満たすための一つの思惑を腹に秘めることで、『タレーエン』を納得させることに成功。こうしてアシェイリと密談の場を持ったのであった。
「もしものことだけれど、あの【剣魔】達が、本当に迷宮の【魔人】達と何か関係があるとしたら……何が起きると思う? アシェイリ」
「……ユーリルに、迷宮絡みで”何か”が、あったのかも。それも都市ナーレフで。お【剣魔】さん達がこんなタイミングで、わざわざここへ来たのは、それが理由?」
「できすぎてるよね。あまりにもできすぎたタイミングだから――確かめる価値は、あると思わない? 『アシェイリ』。それは『ボク』達それぞれに与えられた『指令』と……矛盾なんてしていないよ」
「「その目的や思惑を測るために、あいつらを『泳がせ』ることは、監視するという『梟』からの『指令』に矛盾はしていない」」
たとえ、それが偶然によって。
交錯することのなかった者同士が邂逅する――という場面が演出されたとしても、それは何ら、両名に与えられた「監視」という任務に矛盾することではない。
いいや、それどころか、積極的にそうなるように誘導しても良いのではないか? と。
そう思えるという十分な”解釈”の余地が生まれた。
――そう認めたのだ。
誰が?
――二人のそれぞれの吸血種としての『使命人格』が、である。
只今成されたのは、まさに、互いに互いの『使命人格』に言い聞かせるような、断定的な、互いの眼を見据えた同時唱和であったからだ。
それこそが、厳しい【使命統治】の中で、密かに仕属種の吸血種達に受け継がれてきた、彼らの唯一の【使命】への”抵抗”の術なのであったが故に。
***
「シシシシッ。どうやら”始まる前に”間に合ったようだね……いやいや、あの小うるさい小娘殿を随分と待たせてしまった甲斐があった、と思いたいところだが?」
掘り出し物はあるだろうか、と、しゅるしゅると蛇の舌が空気を震わせるような独特の笑い方をする、青白い肌の男。
砂漠でもないにも関わらず、風と砂から身を守るにはちょうどよいターバンと幾重かの生地が重なるように織り込まれた長衣にその身と頭部を包んでいるのは――その素性を雑に隠すためである。
【闇世】の『人売り』キプシー。
”旅侠”と呼ばれる【魔人】……こと『ルフェアの血裔』達の実力者であっても、【人世】にこのように堂々と出入りする者は少ない。【魔人】の存在は、【英雄王】の影響のほとんど無いここ【西オルゼ地方】においては、さほど御伽噺化していないため、その特徴を堂々と晒すことなどできるものではない。
「シヴ殿も待たせてしまっているからねぇ、シシシシッ。ここは一つ、彼が作り上げた”楽園”にちょうどいい『人材』の1ダースや2ダースはほしいところ……っとと、ここか」
もう1つの理由は、キプシーがネフェフィトを無事に都市『ナーレフ』の【エイリアン使い】の元まで届けた後のこと。
彼は、今は【魔弾使い】の従徒となっている旅侠の青年シヴ=ウールとの「取引」のために、【闇世】帰還後に、その拠点を訪れることとなっており――”手土産”を用意しようとしていたのである。
シヴ=ウールが作った”子供達の都市”向けに。
「なんだ、またケバくなったかな? 戦亜の高級『斡旋所』は、シシシシッ、いつ来ても景気がいいことだねぇ!」
【異形:先割れ舌】を鳴らし、舌を巻くようにキプシーが小気味よく笑う。
【異形:重瞳】を成す2つの瞳孔をぐるぐると回転させるように、刮目に喜色を浮かべる。
主街道からは外れているが、”表”通りには一応属する区画に立つ、重厚さと格式さを兼ね備えたような質実剛健さを感じさせる石造りの館であった。ややもすると、この都市における何らかの職人集団が会合でも開くような由緒ある会館かとも思われるが――双頭の戦士をあしらったかのような金属の彫刻が門扉にあしらわれていることが、ここが【戦亜】の影響下にある館であることを力強く物語っている。
西方にて「亜人」と総称(あるいは蔑称)される知性種達のうち、”獣憑き”であるだとか、”半獣”であるだとか、あるいは”獣人”と呼ばれることも多いのが【戦亜】と呼ばれる種族である。ただし、その「獣の特徴を備えた蛮族か半魔獣」というイメージそのものは、むしろ、歴史の中に記される『獣蛮』という存在が近いだろう。
彼らは確かに亜”人”では、ある。実際のところ、その見た目の9割は『神の似姿』と変わらず、ただ――少々ばかり、異なる生物的特徴を様々に持っているだけなのである。
例えば”牙や爪や角”を持つ氏族。
例えば”鬣”を持つ氏族。
例えば”甲羅”や、”羽”や、”エラ”を持つ氏族。
――例えば”複数”の腕や足、頭などを持つ氏族等。
キプシーは、この『斡旋所』を切り盛りする店主とは旧い知己であり、彼が【ウル=ベ=ガイム氏族連邦】の【阿修羅閥(「閥」とは複数の氏族の集まりのようなもの)】の出身であることをよく知っていたのだ。
【戦亜】とは、かつての【黄昏の帝国】の時代に戦奴として創造された存在である……というのがキプシーの頭の中にある【闇世】由来の知識。
さながら『神の似姿』を基礎に、一定の目的や役割を与えるかのように調整したかのような種族であるというのは、ある特定の「世界観」を迷宮の権能の基礎として、基本形態である眷属を、様々な『亜』種に派生・進化・昇華させていく有り様と非常によく似ていると見えた。
……それが両界を跨ぐ『人売り』としてのキプシーの【戦亜】種への眼差し。
アーチ状の正面玄関を潜れば、ここが【阿修羅閥】の氏族を中心に運営されている証拠がより露骨に現れる。複数の腕を持つ戦士像が左右に並び、来客を迎えると同時に威圧しているのであった。
武術と魔術の双方に長けた精強な戦士達を擁する【阿修羅閥】だが、『氏族連邦』内での数は最も少ない。それでも彼らは比較的外交適正はある者達でもあるため、例えば、シャンドル=グームに居を構えるこの『斡旋所』の店主などのような、非公式ではあるものの、戦亜種を実質代表して他の人間・亜人種達と実質的な折衝を行うような人材も輩出されてはいるのである。
――尤も、それは【氏族連邦】内での激しい氏族間あるいは氏族内の闘争に落伍したものである、と見なされることも多いのであるが。
滑らかに磨かれた石材の床が敷かれたエントランスに入ったキプシーを迎えたのは、体の3割以上(主に背中)を亀のような甲羅が覆う特徴を持った『タルトリエロ氏族』の副店主である。キプシーの姿を認めるや、すぐに丁稚である『ガズズムーリ氏族』の小僧を館の奥に走らせ――丁稚小僧は腰から生えたまるで第3の腕のような尾を力強く跳ねさせるように素早く去っていく。
だが、キプシーは勝手に知ったる我が家の如く、腰の後ろに手を組み、壁に掲げられた以前は無かった【阿修羅閥】氏族戦士をあしらった絵画に眼を楽しませつつ『応接間』に向かうのである。
その様子を『タルトリエロ』の老副店主は、眼が埋まったかと思うほどの眉毛の内側からじっと見ているのみであり、キプシーも特に相手としない。一応、距離を取ってついてくる彼を尻目に――『応接室』までたどり着いたキプシーは、その森人製の緻密な細工が施されたドアノブを回し、舌を鳴らしながら、その中に入っていく。
「――これは、これは。珍しい”先客”がいたもんだね」
『応接間』には2名が向かい合って座っており、どちらも、部屋にずかずかと入り込んだキプシーにその視線を向けていた。
――どちらも、キプシーの”旧知”であった。
片方は『店主』であるラクーギー=ビフロスケィン。
人の良さそうな好好爺然たる柔和な2対の眼差しを――つまり彼は4つの眼を持つ【連眼】の『ビフロスケィン氏族』の出身――向けてくるが、その右側の2つは白濁しており、使い物にならないことをキプシーは知っている。
そして柔和な表情は顔の上半分だけで、下側は、ひどく皮肉げに歪められた笑みであった。
「ふぅ……これは不思議な巡り合わせじゃないか? キプシー、まぁお前がこういう趣向が好きだと知ってはいたんだが――よりにもよって、今、来るかね? この方がやってきた、このタイミングで? 大した嗅覚じゃないか、え?」
「シシシシッ。よもや『西』の商都くんだりで野暮用をと思っていたってのに、『東』の商都の……おっと、シシシシッ。お忍び中としか思えないどこぞの貴人殿と出くわすなんてね」
【戦亜】で最大戦力を有する最大派閥である【爪牙閥】の戦士達が、戦場で(それは決して【懲罰戦争】には限られない)手に入れたであろう、武具や宝物といった”戦利品”の数々が誇示するように並べられた『応接間』。
そこで店主ラクーギーと共にキプシーを迎えた”先客”は、キプシーと同じく、ターバンによって頭部はおろか顔面全体さえも覆った華奢な青年であった。
――だが、その顔中を古代の乾燥遺骸を包む包帯よろしく覆い尽くしたターバンの隙間から覗く双眸と、そこからわずかに見えるその眼元の皮膚は、まるでケロイドのように焼け爛れたような生々しい焦げ肉の質感を湛えさせていたのであった。
――”彼”の素性も正体も知らぬ者で、初めて会った者で、果たしてその”素顔”がどのような「状態」となっているのかを気にしない者は少なくないが……旧知であるが故に、キプシーは、彼が何者であるかをよく知っている。
「ここでは、うん、そうだねぇ、”爛れ眼”殿とでもお呼びしようじゃないか、シシシシッ。東の砂漠の果てから、わざわざ見に来たくなるような人材だなんて、一体全体なんなんだろうねぇ?」
「……貴殿には関係無いことだよ、『人売り』。蛇の舌は干からびているのがお似合いだ」
ぼそりと、しかしまともにキプシーの蛇の舌に付き合う気が無いことが、そのメラメラと爛れたような眼差しに込められていた。
怖い、怖い、とキプシーは舌を巻きつつも――しかし、同時に彼もその【異形:重瞳】に力を込めて言葉を返すのである。
「それでも”視る”だけでも、ダメなのかい? シシシシッ。知っているよ、この俺には何でもお見通しなんだ」
くるくると、キプシーの【異形:重瞳】が、まるで【闇世】の夜空に浮かぶ双子月の軌道の如くにくるくると回る。
それは彼を『人売り』足らしめる固有技能が発動している証拠であった。
――しかも、この技能は、キプシー自身の意思にも自覚にも関係なく、勝手に発動するのである。
「”爛れ眼”の……『貴人』殿がご興味を持つほどの『英雄』が、入荷したんだろう? そそるよねぇ、シシシシッ。でもほんと偶然なんだぜ? 俺は、ちょうど2ダースだか3ダースの『子供奴隷』が入り用だっただけなんだ、本当さ」
「全く揃いも揃って売り出し前の特級の掘り出し物……いや、”漂着物”って言うべきか? 唾の代わりに熱っぽい涙を引っ掛けようとしてくれて、えぇ? ――まぁ、厄介払いになると思えば悪い話じゃ、ないんだがな?」
【連眼】と【爛れ眼】と【異形:重瞳】。
三様なる視線がその思惑を乗せ、牽制し合う獣のように、相すれ違い相火花を散らせる。
それは、店の『盗賊番』を務める『ヘィズニック氏族』(氏族号は【千棘】で、両手の五指がダガーほどもの長さの鋭い棘状となっているのが特徴)の男がのろのろと現れ、ラクーギーに、客人の案内の準備ができたことを告げにやってくるまでの暫しの間、続いていたのであった。