0249 蜂が踊るは泥魔土香が混じる鍋中(かちゅう)(3)
『染みの桃花』店の2階応接間で行われた”交渉”は、対話と探り合いを基調としたものから、速やかに――そして予定調和的に――実力行使によるものへと移り変わった。
オーマの従徒とヴァニシッサの部下たる『蜂』達は、それぞれの主同士が初撃を交錯させようとするその意図を察知するや、互いを敵手と認めて戦闘態勢に移行したのである。
この瞬間、ヴァニシッサは部下と共同詠唱によって【精神】魔法【青き軛の杭】(別名【アガクリェンの浸心術】)を発動。
1階のものは吹き飛ばされたが、2階にはまだ薄く薄く、眼には見えない濃度ながら微かに漂っていた青き紫煙――精神浸透作用を持つ香を混ぜ合わせ、『罪花』謹製の”蜜”によって炊いた【精神】属性の媒介物――への魔法的着火を行ったのである。
それは、もはや偽装も隠蔽も何も無しの直接の力技である。
確かに、【精神】魔法はその特性として、相手の人種に応じた波長を整えなければ、適切にその心身に侵入し、作用し、そして洗脳するということは困難である――お行儀よくやるならば、だが。
ヴァニシッサらがついに看破まではできなかったが、オーマらが交渉に先立って隠し持ち込んでいたのは『小醜鬼の”脳”瓶詰め』。
それも、紡腑茸が生み出した小醜鬼の体液(組織液・脳漿・血液などの混合物)に臓漿を混ぜ、さらに、内部には『共生』因子によって【遷亜】された母胎蟲が生み出した寄生小蟲を同居させることで、短時間ながら”脳”のみによる生存を可能とした代物。
新生リュグルソゥム家の始祖たるルクとミシェールの二人が、一瞬だけ『止まり木』に繋ぐことのできたと思しき、西方戦線で斃れた叔父ガウェロットからの共有記憶の”書き置き”を、精神空間の新たな”館”の中で見つけた。
それは、『罪花』の術士トリィシーとの交戦で【青き軛の杭】によって『止まり木』への転移を封じられていた中で、苦肉の末にガウェロットが見出した”突破口”の一つであり――これが【エイリアン使い】の元で応用された結果、完成した【精神】魔法殺しの小道具であり、リュグルソゥム家の旧侯都潜入においても活用された切り札であった。
その原理は単純である。
『罪花』の【精神】干渉系の魔法の発動を察知するや『瓶詰め脳』がそれを誘引する、というもの。
いかな魔導の大国とて、よもや生物が「脳のみ」で精神活動を保ったまま長らえる、などという事態をヴァニシッサらが想定し得たはずも無し。【精神】干渉系の複数の術式はそのまま『瓶詰め脳』に吸われていたため、どれほど訝しがっても、眼前のオーマらに効いた風は無かったというわけである。
……だが、繰り返すが、それはあくまでも”洗脳”や”読心”を目的とした、いうなれば錠前に金具を差し込んで丁寧に鍵を開けようとする場合において、その錠前が、見たことも聞いたことも解いたことも無いような形状・構造である場合における困惑である。
その精神の内部に押し入ることのみを目的とするならば――”錠前”は別に「破壊」してしまっても良いのである。
故に、戦闘が開始された直後の【青き軛の杭】は、まさに戦闘用の術式として――あらかじめ応接間に仕込まれていた魔法陣によって増幅され――最大出力で発動された。
如何なマルドジェイミ家と『罪花』にとって”未解析”の精神構造であったとしても、それで破砕され、強烈な感応波にも似た衝撃によって地に足をつかせることができるはず。
事実、オーマと彼の従徒達が隠し持っていた『瓶詰め脳』が、いずれも高度な【精神】魔法による負荷に耐えきれず、次々に瓶の中で寄生小蟲ごと破裂する。
誘引せられていたデコイが喪失し、『蜂』の乙女達の【精神】魔法が、それぞれの本来のターゲットであるオーマら4名に襲いかかる、が。
――四者は四様にその脅威に対抗する。
ル・ベリの【弔辞の魔眼】がギラリと緑色に染まって光るや、乙女の一人が苦悶と困惑に呻き声を発して術を中断。その間隙を鋭く突くような、ル・ベリの技能【鞭術】が乗った鋭い蹴りが、椅子ごと蹴飛ばすように襲来する。
『蜂』の戦士は咄嗟に体術でそれを受け止め、逆にル・ベリの”脚”の関節を極めるように組み付くが、彼女は知らない。ル・ベリが持つ【異形:伸脚】によって、絶妙にその間と位置を感触を外されたことに。次の瞬間に飛びかかってきたル・ベリによって、まるで何本もの”腕”を組み付かれるようにして壁に叩きつけられたのは『蜂』の乙女であった。
同時に吸血種ユーリルもまた動いている。
【精神】魔法の発動に際し、なんと、自らの”脳”を意図的に損傷させたのであった。
当然のこととして、脳に宿る精神を標的とした【精神】魔法は、既に壊れた錠前を素通りし、さらには”もぬけの殻”となったかのようなユーリルの精神に全く作用すること無く素通りする。
……これは【生命の紅き皇国】で鍛え上げられた破壊工作員としては、もはや基本戦術化された対【精神】魔法使いの戦闘手順である。特に【血の影法師】は、『長女国』との長年の闘争の中で、いくつかの頭顱侯家の秘法への”対処法”を独自に研究し、編み出していたのである。
この対マルドジェイミ家の手管は、人を模し、人に混じり、そして人を喰らいつつも、その魂と精神の本質が”血”に宿る吸血種であるからこそ、頭部を脳ごと破壊されたとて、記憶と人格を保ったままに再生することができるという芸当である。
トリィシー=ヒェルメイデンのような【西方戦線】の最前線で吸血種と対峙するような者ならばいざ知らず。
内地での活動を主とするほとんどの『罪花』の乙女達にとって、吸血種が【精神】魔法の通じにくい非常な難敵であると知識で共有してはいても、実戦で、その相性の悪さを実感するような経験には乏しい。
加えて、ユーリルは確かに仕属種であり、この意味では半分は人間種であるため、その低位の再生能力では即座に回復できるものではなかったが――彼は【エイリアン使い】の影響を受けた従徒でもあった。
体内に埋め込まれたいくつかのエイリアン=パラサイト達との【共鳴】により、自らの”脳”を損傷させたままでありながらも敏捷に動く有り様はヴァニシッサらの想定を超えており、『蜂』の乙女はまた一人、【血操術】による複数の刃を生み出して切りかかるユーリルによって釘付けとされる。
そして、眼帯の下で深く眼を閉じていたソルファイドもまた【精神】魔法の影響を免れていた。
称号【心眼の剣鬼】中の称号技能【瞑想心眼】によって、【精神】魔法の波動自体を観測。さらにごくごく一瞬だけ――【竜の憤怒】の種族技能を発動。
たとえ錠前を殴り壊すことを前提としたものではあっても、あくまでも”人”に通じるものとして設計されたる【アガクリェンの浸心術】である。それが、よもや最も旧き強大な存在の一つであった【竜】の精神に与えた影響はささやかな凪のようなものであり――次の瞬間には、竜尾によって支えられた剛直の安定体制から抜き放たれた【火竜骨の剣】の居合いによって、【精神】感応波が、そのまま切り捨てられるように霧散せられたのである。
そしてヴァニシッサは、複数種のエイリアンが連携して協働するオーマの”座椅子”レクティカの猛攻を捌かねばならない。数基の骨刃茸と触肢茸が繰り出す波状攻撃は、既に応接机を吹き飛ばし、部屋中を切り刻んで叩き割るようにその暴威を叩きつけて来ている。
さらにその合間から、三ツ首雀カッパーを構えたオーマの魔法攻撃が、あるいは飛び回る蜂を捉えんとするように鞭網茸が炸裂するように弾け開いて眼前に飛んでくるのである。鋭い羽搏きのような身軽な身のこなしでこれらをさばきつつも、その対応に追われるあまり、思うように【精神】魔法を打ち込むことができない状況が続いていた。
斯くして、戦闘が始まってから数十秒と経たずに『応接間』は半壊状態に陥る。
1階を飲み込み2階にまで吹き抜け越しに押し寄せたる大量の土砂と泥汁混じりの粉塵と比較すればささやかなものではあるが、破砕された調度の欠片が舞い上がり、血飛沫と焼け焦げた【火】の粉、魔法同士がぶつかる余波が部屋を穴だらけとする。
しかしこの最中、2階には1階で起きた暴虐から退いてくるような形ではあれ”援軍”が到来していた。
――1階側にいる部隊からの被害状況は、筆舌に尽くしがたいものであるのだが。
なお、この「筆舌に尽くしがたい」ということの意味は、文字通りである。およそ『蜂の踊り』によって表現しきれないという意味。
然もありなん。
既に1階には、このための【領域転移】を応用する形で次々に出現する、魔物以上の異形にしておぞましき存在たる【エイリアン】という種族を、どうして彼女達の踊りで表現しえようか。
だが、惹起される生理的嫌悪感の急速な伝染を前には、もはや【精神】魔法や『蜂の踊り』も不要であるのかもしれない。
『花』と『蜂』の乙女が1階に次々に出現せるオーマの眷属達を相手に混乱しつつ、2階へ通じる2つの階段を中心に防衛を試みる中、その2階で激しい戦いが開始された状況を見て取り、『蜂』の一隊が駆けつけた、というわけであった。
『長女国』における最上位魔導貴族たる頭顱侯の尖兵である”走狗”組織の一角として、常日頃より、敵対する他の組織・走狗への「備え」は万全だったからである。
それは、200年前の【空間】魔法テロによる破壊の嵐以来、王国各都市においては当たり前の”対策”となっていた、建築物の内部各所に刻み込まれた魔法陣の存在による。また、近年は走狗組織にも「良質」のものが回るようになってきたことで、こうした旧式の魔法陣術式を代替しつつ補完する魔導の装置として導入された【紋章石】の存在によって裏打ちされている。
……裏打ちされていたはず、なのだが。
これらの備えを頼みとし、応接間を放棄しつつ2階廊下からバルコニーにかけて、オーマ主従を引き剥がす戦術に出ようとした『蜂』達は、すぐに気づくこととなる。
果たして『長女国』にあって、魔法陣はおろか、それらを携帯化・操作容易化させた代物である【紋章石】でさえもが深刻な機能不全に陥って発動不可に至らしめられる事態に遭遇し、事前の知識無しに、即応できるほどの集団がどれほどいるだろうか。
そうした動揺を見透かしたかのように、ル・ベリが、全身をぴったりと覆っていた外套を振りほどいて脱ぎ捨てるかのようにその【異形】の8本の【触手】を露わにする。
なおもヴァニシッサの眼前。『応接間』に居座るオーマを排除しようと、さらに数名の『蜂』達がヴァニシッサと共に羽音の間隔を合わせるかのように呼吸を揃え、武技【蜂の一刺し】を集団行使。レクティカの間隙を縫い留めてまさに同時に刺し貫こうとする、その間に割って入ったのがル・ベリであった。
急速な精神半共有によって、異形の【触手】の異様への畏れさえもが抑え込まれていた乙女達ではあったが、その観察能力もまた、積み重ねられた訓練によって高度な連携を成している。主オーマに近づく者を寄せ付けぬようにル・ベリが振り回す【触手】の動きを見極めながら、その1本1本に組み付いて押さえ込み、毒蜜の刃を突き立てようとするが――。
「馬鹿者どもめ、それは悪手だ」
吐き捨てるようなル・ベリの言と共に、彼の体から分離する4本の触肢茸達。それらは独自の意思を保ったまま、強靭な鋼線の如くうねり、逆に乙女達に絡みついて拘束して締め上げ、押さえ込んでしまう。
――彼女達は普段、大蜘蛛や大蛸のような魔物を相手にしていたのではないのである。
それが”戦闘”であれ、あるいは”閨事”であれ。
【精神】支配をこそその手管とする者達であるが故に『罪花』の乙女達は「人体」の理に精通しており、また、研究にも熱心である。
が、だからこそその常識の中に――背中と腰から分離して自律移動も可能な8本の太い触手が生えしかもその触手と同様に片脚も伸びあとおまけに親指が双つあるなどという存在は存在していない。知っていれば、最初から対人ではなく対魔獣の布陣で臨んでいたであろうが、一度定まった形勢と趨勢においては後の祭りである。
加えて、ヴァニシッサが焦燥に駆られたのは、なおも機能しない館内の各種魔法陣である。
なるほど、1階は泥流と共に文字通りに埋め尽くされた。だが『長女国』における、それも”走狗”の拠点防備において、それが刻み込まれ、あるいは他の魔道具・装置類と連動しているのは1階だけではない――故に、ただ単に術式を構成する回路が寸断されている、ということだけでは説明のつかない事態と言えただろう。
そして、この”事態”を引き起こすためにオーマが持ち込んでいたものは3つ。
1つは、地下に形成された臓漿溜まりにて、震泳次元茸達に運搬せしめた数種の属性障壁茸達である。【属性】という概念が広く浸透し、人々の認識もまたそれに縛られたる異世界シースーアの魔法使いを相手取るに当たって、いわば生きた【妨害魔法】装置として、基本かつ有効なエイリアン=ファンガル種として当然に、この【領域戦】でも持ち込まれている。
だが、その有効範囲は決して無限大かつ過信できるものではなく……少なくとも、地下から館の2階にまで届かせられるものではない。
2つ目は、当初より、それこそオーマがジェロームの到来を期日として【報いを揺藍する異星窟】において種々の進化エイリアン達を生み出す期間から構想されていた、ナーレフを試験場とした【紋章石】破りの方策であった。それは最初は、寄生小蟲の体表に極小の魔法陣を書き込む形で導入されていた。
このような形を取ったのは、『長女国』において【魔道具】と判定される物品には、頭顱侯家ごとに細かな違いはあるが、一定の規制がかけられているためである。
端的に言えば、それらは禁制品に近い取り扱いなのであるが……その理由の一端において、こうした装置は、その気になれば「魔法陣」入りのものとして製造される場合があり、この場合、それは街あるいは重要建築物に刻まれた警備防衛のための魔法陣や【紋章石】に干渉しうるのである。
このことは、オーマが今後『長女国』の”魔道具産業”に手を出していこうとする中での重要な初期条件ではあった。
今この戦闘の局面において重要なのは、その作用を利用する形で、この極小魔法陣入りの寄生小蟲――オーマが名付けたるは『紋様小蟲』――は更にその活用を洗練されていた、ということである。
それこそが、オーマが持ち込んだ第3の”魔法陣殺し”の要としての吸血種ユーリルであった。
【血操術】と【蝙蝠術】を組み合わせた軌道は乙女達を寄せ付けなかったが――ユーリルが、攻撃的かつ突進的な戦い方ではなく、むしろ防御的に、ル・ベリやレクティカが振り回す触肢茸達の背後に隠れるように『応接間』を飛び回ったことに気づいたのは、ヴァニシッサだけである。
――だが、その意味までを彼女はすぐには察知できない。
そしてとある可能性をヴァニシッサが思い当たる頃には、既に手遅れとなっていた。
ユーリルが展開した「血管」魔法陣。
それはリュグルソゥム一家の知識と技術が【エイリアン使い】の下、吸血種の身体的特性と絡み合う形で組み上げられた一種の執念じみた代物であり――【報いを揺藍する異星窟】と連携するべく身体内に取り込んだエイリアン=パラサイト達と、まさに連動していたのである。
≪きゅほほほ。つまり原理さんでいえば、小醜鬼ちゃん達の『瓶詰め脳』さんと一緒なのだきゅぴ≫
≪そう……かな? そう……かも……?≫
≪あはは、まぁちょっと高級さんな『瓶詰め脳』みたいなもの、かも? あはは≫
≪ユーリルさんの人権~≫
道化蟲モノが述べた通り、生きた魔法妨害装置という意味で、ユーリルはその生来の対魔法使い的性質をより洗練される形となっていたと言える。
そしてそれは、ナーレフにおいて、この一ヶ月あまりの夜陰に乗じた「敵対組織潰し」の夜襲において、リュグルソゥム一家と副脳蟲達との間で少しずつ調整され、強化されてきたものであり――およそ考えうる限りの基本的な感知魔法・警戒用の魔法の類であれば、すり抜けてしまうことができるようになっていたのである。
≪でもでも、全種類さんをぶち込むってことは流石に厳しいけどね!≫
≪大丈夫だぁ! あらかじめ侵入さんするところに合わせて、毎回微調整さんすればいいってもんだねっ!≫
それはちょうど、ヴァニシッサらが【精神】魔法を、丁寧な解錠ではなく「壊す」ために最大出力としたのと同じ原理であった。
感知魔法を回避するのではなく、むしろ「壊す」ために、紋様小蟲の体表の魔法陣とユーリルの『血管』魔法陣を連動・増幅させる形で、負荷をかけ、感知されることを前提として、『染みの桃花』店の魔法的防備の術式達を一時的であれ機能不全に陥らせたのであった。
然りとて、『罪花』の戦士たる乙女達もまた手練れの魔法戦士ではある。
魔法使いの集団同士の拠点戦において、こうした魔法陣潰し・防衛という局面自体は一般的なものであるため、そのバックアップやリカバリーの手段なども種々に有してはいたわけだが……そうした対策というものは、それを実行するための時間があればこそ意味を持つ。
1階にて。
泥流から悪夢の萌芽の如く、ぬたりぐちゃぐしゃあと次々に突き出すように出現せるは、およそ【人世】にて”荒廃”の中に現る魔獣はおろか、【闇世】より這い出る魔獣よりもさらに【おぞましき】凶獣達――の中でもさらに、それぞれに個性という”名”の”付き”し威容を持つことを主から望まれ、そしてその身をその存在をその役割に合わせ、相応に適応して、体現せる者達。
アルファ以下の”第四世代”の最精鋭部隊の出現は、制圧という名の怒涛が、二度三度と叩きつけるように押し寄せるものであることを思い知らせるものである。
泥流をさらに雷鳴と大地の軋みの中でかき混ぜた【おぞましき】咆哮が『染みの桃花』店を震わせる。もはや暗号による連絡と【精神】属性による連携をも無用とさせるほど、乙女達は垂直に脳梁内の恐怖本能を直撃されたかのような、電流を背筋に流し込むように直接的な脅威を幻視させられる。
既に、1階の出入り口を固めて逃さないようにし、籠絡する――という当初の迎撃方針と戦術自体が破綻していたのであった。
ヴァニシッサが気づいたのは、そうした崩壊劇である。
これは初めから、魔物の巣窟か魔獣氾濫を制圧する水準での備えが必要な、そういう戦だったのだ。
だが――そうした趣向もまた、悪いものではないのかもしれない。
……かもしれない、のだが。
己が既に、初々しき『花』ではなく、一つの館を率いる『執事蜂』の地位にあることを思い出しながら、あえて自らの陶酔を助長するような【精神】魔法は使うことなく。
陶酔と冷徹の狭間にて、館主としての精神がヴァニシッサに次善を逡巡させる。
――人員には、既にそれなりの被害と犠牲が出始めていることが、彼女には伝わっていた。
ならばこのまま、ナーレフにおける『罪花』の命脈と権益を保つためにこそ、全面的な降伏をすべきであるか? ちらりと、もちろん目線などを向けるではないが、ヴァニシッサがその意識を『3階』に集中させた。
常の手段では到達できない、極秘中の極上の特別迎賓室……という名の”監獄”の状況に思考を巡らせたからだ。
現状は、地中が【エイリアン使い】によって一時的に【領域】化されるという、実質的な【領域戦】の構図である。
1階の泥流噴射の中から飛び出した表裏走狗蟲達が、その【共生】したる小醜鬼部分を結合させることで『ゴブ皮』の【転移】術を敢行したが、そのことは「小醜鬼が【空間】魔法の”門”として発動された」という部分については、なんとかヴァニシッサにまで伝達されていた。
そしてヴァニシッサは、ル・ベリが暴威的に触手を振り回しつつも、拘束優先という立ち回りをしていることなどを見て取る。
そも、あれほどの泥流を生み出せるならば、自分達を滅ぼすことだけが目的であるならば、それこそ『長女国』における土中警戒の常識の、それこそ”外側”から館を崩せば良かっただけのことなのだ。
それをせず、自らを一定の危険に晒してまであえて乗り込み――【空間】魔法によってまるで”裂け目”を、吐き気と怖気をないまぜに胃液ごと戻しかねない悪鬼凶獣の群れをこの地に呼び出すなどという芸当をしでかしてはくれたが――こうして「制圧」に拘るのは、やはり、『罪花』が囲い込んだ”権益”たるVIP達を傷つけずに手に入れようという算段では、あるのだろう。
――悶絶するような死と滅び、という役割を欲し望まれているわけではない。
斯様な凶獣・凶徒を使役し、悪辣なる動きにて前代官ハイドリィをおそらくは蹴落とし、都市ナーレフを掌握せんとする者としては、それは意外な”望み”であるようヴァニシッサには思えた。
……だが、欲されるものをみすみす、安々と引き渡すのもまた『花』の手管ではなく、『蜂』の流儀でもないのである。
そうした念が伝わったかのように、3階の醜き小鬼どもを速やかに始末した――という報告が、緊急時故、お楽しみ中のVIPの賓室に乗り込んだ『蜂』の部下より伝達されてくる。
ほぼ同時にその状況を眷属心話によってオーマが報されるも、その反応をヴァニシッサは察知している。
複数の『乙女』達をル・ベリがまとめて迎撃する中で、今度は抜剣したソルファイドがヴァニシッサの対手に入れ替わった。
竜人もまた『亜人』の一派でありながら、その人に近い形ながら、「竜尾」の存在に裏打ちされたる全く異質なる体幹原理と体捌きの格闘術に、己が『蜂』の戦士としての戦闘経験を総動員して当たりつつも――ヴァニシッサの意識は【魔人】の動向に向けられていたのである。
そうしてオーマが、レクティカに命じ、カッパーに魔導的な感知を『応接間』全体に走査させる。既に眷属心話によって地下の臓漿溜まりを基礎とした一時【領域】越しに副脳蟲達との交信を安定確立させており、呼び出された超覚腫(【土属性適応】で遷亜済)にもその多重かつ鋭敏なる【感知】技能の数々によって視させ――。
「お気づきになられたのですね?」
「そういうことか。なるほどな、それが『罪花』のやり方ってわけだ。趣味が良いとは思えないなぁ」
皮肉げに口の端を歪めるオーマに対して、まるで打ち破られる前にこそ激しく抵抗すべしというのが流儀であるかのように、暗号ではない優雅な作法で一礼を、ヴァニシッサはしたのであった。
『応接間』に存在する、『3階』に向かうための"仕掛け"を守るべく。
彼が望まぬ死と滅びの悶絶という演目をこそ、あえて、示してやるのはどうだろうという被虐の中にそれを食い破るような嗜虐が入り混じった心持ちを、意図的に、【精神】魔法によって他の乙女達に伝染・伝播させて――その精神の箍を外すような、露骨に過剰な踊りをばら撒きながら。
――だが、そこで思わぬ”援軍”が現れることとなる。
それも双方に。
否。
正確には、オーマの側に最低でもリュグルソゥム兄妹がまだ手札として控えられていることを、ヴァニシッサは予期していた。この意味で「思わぬ」という言葉がぶつけられるのは、そちら側ではない。
彼女にとっては、全く予想外な援軍の連中とは――隠されていた”仕掛け”を通り、およそ人の【精神】から退避させていた『3階』の方から、わざわざ、出撃してきた者達だったのである。





