0240 真贋の移ろうは見極めんとする者の前にて[視点:伯楽]
「治療」を続けるユーリルとリシュリーを後に、迷宮領主オーマの【空間】魔法の”門”――ゼイモントとメルドットが発見したかつての【幽玄教団】ナーレフ支部の”置き土産”――をくぐり抜け、ラシェットは『救貧院』上階の廊下に戻った。
夕刻から夜半に移るひんやりとした冷気が吹き抜ける。
『長き冬』――【冬ノ司】がもたらしていた”季節”の暴走――は既に消え失せている。春を通り越して初夏であるが、それでも、この時刻に小高い丘地にある『救貧院』を吹き過ぎる夜風は未だ肌に冷たく感じる。
……いいや。
妙に熱いものを見せつけられたせいに違いない、とラシェットは思った。
それで夜風が必要以上に肌寒く感じられるのに相違ない。呼吸を整えるように深く息を吐きながらラシェットは歩速を早めた。
あらかじめ聞かされてはいたが――その治療行為を直に見たのはラシェットには初めてのこと。なのだが、見ていてどこか心臓が鳴って落ち着かなくなるものを感じ、手短に用件だけ伝えて足早に去ったわけである。
ラシェットは、まだちゃんと知り合ったばかりの――同じ「先生」に仕えるという意味で――同年代の少年であるユーリルとは、話すようになって間もない。間もないのだが、ここ『関所街ナーレフ』において、迷宮領主オーマが命じた様々な活動において連絡を取り合う場面も増えていた。
まだ、本格的に【眷属心話】を構築するための”網”ができる前なのだ。
マクハードもそうであるが、ナーレフの事情に通じていて、要するに【人世】側の出身でありながらオーマの――【闇世】の迷宮領主の従徒として活動することのできる”連絡役”の存在は重要なのであった。
もちろん、鍛えられ始めてはいるが、ラシェット程度の実力で「荒事」は任せられない。
だが、いざとなればエリスの盾になる程度のことはできたし、ナーレフの「表」と「裏」でのちょうどよい小間使いとして――ユーリルと分担したり、時に情報を交換する中で、オーマという共通の主の”無茶苦茶さ”に意気投合しつつあったという状況。
……エリスと自分の関係について、工作員なりにあれこれと勘付いているであろうユーリル。ラシェットもまた、彼の【聖女攫い】という事情について気になり、気になるも聞く機会が無く、そんな折でのこの遭遇だったわけである。
血なまぐさくも、どこか儚く壊れてしまいそうでありながら。
しかし、そこに透明な睦まじさのようなものが感じられた。それがユーリルとリシュリーの”時間”である。
そんな治療行為を目の当たりにしてしまったのだ。
自身とエリスとのことを意識しなかった……と言えば嘘になろうか。
――エリスは”貴種”なのであるから。
その意味するところには、貴種には貴種たる役割・役目があるということ。
ラシェットが、いいところ、彼女の護衛を役割・役目とするのが関の山というように。
――彼女の従士長にして元ヘレンセル村の村長であるセルバルカから、既に、いくつかの縁談に関する打診の動きがあることを聞かされたラシェットであった。
セルバルカに悪意は無いだろう。むしろ、それは「善意」による忠言ですらあるのかもしれない。それが『長女国』に生きてきた先達としての、つまり、生き延びるための処世であるのだろう、セルバルカのような者にとっての。
雲上から地底までが【頭顱侯】という最高位魔導貴族達によって業界ごとに壟断され、支配されている【輝水晶王国】では、本来、ラシェットの如き「枯れ井戸」の貧民などは、成り上がるような可能性は皆無だし、千に一つその幸運に恵まれたとしても、よほど思慮深く立ち回らなければすぐに取って食われてしまうものに過ぎない。
だから、そんなこの国での当たり前の”常識”という観点からは、ラシェットは既に”常識”の外側から、それを破壊することのできる存在――【エイリアン使い】オーマという「先生」――の知遇を得た。
得たのだが、では、その勢威を生かして――エリスににわかに纏わりつくようになった”貴種”としての責任を片っ端から打ち払うのか? ということに疑念と葛藤が湧き出でていた。
それは何のためなのであろうか。
自分はユーリルがリシュリーにしているように、エリスに恩を返しながら、同時に、彼女が他の何者の妻となることも阻止して、つまり死んだ父がかつて母とそうしたように、彼女と共に暮らしていくようになりたい……と、そういうことを願っているということなのだろうか。
その答えをすぐに出すことができない。
何故ならば、オーマの従徒として【闇世】の、文字通り世界の裏側の知識を少しずつ与えられ学ばされているラシェットなのだから。
自分の、迷宮領主オーマ「先生」への”貢献”の形によっては――さらにエリスをこちら側に引きずり込むことも、できてしまうのだから。
斯くの如く囁く自分が、有る。
引きずり込めば、もはやそこで【人世】の常識は通用しない。『長女国』の絶望的な常識が通用することは無く、エリスはオーマに頼り、自分に頼らざるを得ないようにさせることもできるであろう、と。
――だが、それはきっと悪心の誘惑であった。
然もなくば、弱心による教唆であったに違いない。
かつてエリスを、彼女の母と共に救って死んだ父の縁をラシェットは知ったから。
あの【冬】の災厄の真っ只中、亡き者にされようとしていたエリスを抱きしめて、ククに――オーマから預けられたその眷属――に託して、呼び起こされたる【エイリアン使い】による【空間】魔法の力によってナーレフの実家へ送り届けたのだ。
そこで、ほんの数日であったが――エリスが母に、彼女を助けたことで愛する夫が死んだ病弱なる母に優しく接してくれたことを聞いた。
そのことを、ラシェットは忘れるわけにはいかない。
あの幽玄の中で垣間見た、父ではなく母が死んでいたかのような悪夢の混乱の中で感じた絶望と寂寥の反動のような「これで間違っていなかったのかも知れない」という想いが安堵に変わったことを、ラシェットは否定することができなかった。
だから、貧民街出身の少年は、令嬢の騎士となることで満足すべきである。それ以上を、まるで運命を、彼らを取り巻く常識を理外にとことん堕ちてまで捻じ曲げてはいけないのである。
オーマがラシェットに見出してくれた「可能性」とは、ラシェットに与えられたもの。ラシェットが道を切り開くために与えてくれた何かであり――その代償もまた相応のものであったが――誰かの運命を我欲のままに引き寄せることを啓いた何かでは、きっと、ない。
それが、ラシェットの倫理観であった。
それが、この神の似姿として、もはや何人生分が【運命流転】したかもわからない騒乱の中を駆け抜かされ攫われるかのように【エイリアン使い】の行動に巻き込まれてしまったラシェットが至った――決意であったのだ。
(でも、諦めるわけじゃない)
物語の世界ならば、きっと、騎士がお姫様を助けたらそこでめでたしめでたしとなるのだろう。そこで構築された関係性が永久に固定されて、後は、読者の想像力の世界の中で淡く夢のように残り香となって漂い続けるのだろう。
だが、これはラシェットにとっての現実だった。
密輸団の使い捨ての丁稚に過ぎなかった汚い小僧が――掴んだ運であり、切り開くことのできた道でもあった。
その方向性を過たぬようにする、ということである。
それは、まるで酒場で際限なくツケを膨らませていくように”先生”の力に頼って、自分にとって都合の良いようにやってもらうということを意味しない、という意味である。
まどろっこしい、じゃあ具体的にどうするのが「正解」だって思ってるんだよ、ラシェ坊主? ――とは、ラシェットのこの煩悶を聞いたる【ウルシルラ商会】の会頭マクハードの言である。
だが、これに対してラシェット自身に明確な答えや良い考えがあるというわけでもなかったのだ、現時点で。ただ、彼の中での意地があるだけである。その”意地”が、相手と関わる際には、よくよくその相手を見定めなければならない、とそう強く頭の中で鳴り響いているかのように、である。
ナーレフを、ハイドリィと【血と涙の団】と、【エイリアン使い】と【冬】の災厄を巡る、この短くも濃密な混乱と騒乱の中で――ラシェットはもう一生分かと思うほど様々な人物と遭遇して関わってきたかのような想いにさえとらわれていたのだから。
生まれ落ちた赤子がどのような人間になるのかを、産婆がしわくちゃの目を細めて見定めるかのように。生まれ落ちた家禽の健康状態を、よくよく見定めるかのように。
自分も、自分を取り巻く者達も、そして何より自分が【関わる】者に対してこそ、よく見定めることを通してのみ道が見えてくる――とでも言うかのように。
想いを抑え込んだラシェットの中に、取って代わるように湧いてきたのは、そのような眼であったかもしれない。
だから、ラシェットは「正攻法」で行くと決めたのだ。
護衛という分を侵すのではなく、しかしそこに安住するのでもなく、とにかくエリスを助け、エスルテーリ家の従士達に混じって彼らを助け……同時に【エイリアン使い】オーマの”生徒”として、彼の”活動”の一助となって、その道の先に自分とエリスの運命も切り開いていくものと念じていた。
――決断の時は迫りつつあったのだから。
近い内にナーレフに訪れる【紋章】のディエスト家の”廃侯子”と入れ替わるように、エリスは王都エーベルハイスに召還され、そこで正式にエスルテーリ家の爵位を受け継ぐ。そこに同行し、彼女の側仕えになると同時に、オーマの『長女国』王都における”眼”となるか。
はたまた【ウルシルラ商会】の活動の拡大に合わせて、次に、オーマが狙っている『次兄国』の勢力圏への進出という動きについていき――本格的に経験を積んで実力を積み、それを以て、いつかエリスを迎えることのできるだけの力を得ていくか。
そして、『救貧院』の冷たい廊下を早足で踏みしめながらしばしそんな物思いに耽っていたラシェットがたどり着いたのは、まさにその話し合いが行われている場であった。
***
冷たい『救貧院』の一室で、関所街ナーレフ――旧ワルセィレ地域を軛くためであった都市――の行く末を根本的に転換させる話し合いは行われていた。
質素な机をいくつか、向かい合うように並べられただけのものであるが、片側にエリスと指差爵家の従士達と代官邸の役職者達。
もう片側には、旧ワルセィレの民の抵抗運動を「内外」から率いていた【血と涙の団】の大幹部達の生き残った面々が居並ぶ。
そしてその場を取り持つように、あるいは同席して参加するように、【エイリアン使い】オーマの元で”商会”を立ち上げ(でっち上げともいう)た最初の責任者であった元【幽玄教団】の導師であるゼイモントとメルドットの2名。そして彼らの側に、当然という体で並び座るは、密輸団から薬師集団に衣替えを果たした『霜露の薬売り』率いる老ヴィアッドである。
燭台が灯す明かりは朧げである。硬い顔や渋い顔で居並ぶ面々がぼうっと照らし出されるが、その場には、複雑な対立関係を抱えていたはずの者同士の剣呑さは少ない。
むしろ、警戒感は漂わせつつも、どこか安堵とこれからの交渉に対する期待が入り混じり、故にその反動としての不安をのぞかせるような様子であった。
「まず、最初にお伝えさせていただきます。【森と泉】として皆様が再び”独立”することは、私の力ではできませんし、認めることもできません」
決して密室で何かを決めてしまおう、というある種の薄暗さのみが場を支配しているわけではない。”表”で行われている、ナリッソを中心とした炊き出しが醸し出した穏やかな活気と熱気が、まだ冷たい『救貧院』の内部にじわじわと浸透してきているかのようではあった。
「馬鹿な……! 我ら【森と泉】には、お前達『魔法使い』なんていらない。そのために、俺達は戦ってきたし、仲間だって何人も死んできた。何を今更――」
無論、それが決して、話し合いと交渉の順調さを保証して予兆させるものでもない。
ものでもないが――声を荒げる”外”の、つまり【血と涙の団】の実働部隊、ハイドリィの手下に組み込まれてきた密輸団や武装商人達の集団と何度も戦ってきた団員の生き残りの若者。身を乗り出そうとする彼の前にそっと腕を伸ばし、静まるように止めたのは、父とも慕っていた前団長アルグを失った若き新団長のサンクレットだった。
その落ち着いた眼差しを見抜いて、護衛としてエリスを守るようにその後ろに立っていたラシェットも、飛び出そうとした姿勢を直していた。
「……死んだのは、前の指差爵様もだったよな。あんたらにはあんたらの目的があったのはわかっているが、共にハイドリィと戦ってくれたことは、わかっている」
ナーレフ「内」側での団の取りまとめ役であるベネリーらは神妙な顔のまま、推移を見守っている。そして、様々な意味でこの事態を引き起こし、引き回し、そしてこの状況を引きずり込んだ立役者であるマクハード=ラグラセイレという男はあえてこの場に呼ばれてはおらず、代官邸での”実務”に追われていた。
「ロンドール家の不正を暴くこと、それを以て【紋章】家のこの地での権勢に異を唱えることが、父の長年の目標でした。結果的にそれはできましたけれど――」
「本当は俺達だって、わかってるよ。『魔法使いども』がおっかないってことぐらい……な」
尚も憤懣やる方ない様子であるのは、いずれも歴戦であることがわかる「戦士」達の代表ばかり。
だが、やり取りを聞きながら皆思い出したのだろう。
そもそも彼らの前の団長アルグがどのように殺されたのか、ということを。
決起するように仕向けられたのは、ハイドリィによってである。
しかし、手を下したのは――後にベネリーなどから知らされたことであったが、独自の思惑でこの『騒乱』を利用した魔法使いどもの最上位者の一角たる【騙し絵】のイセンネッシャ家の特殊部隊であった。
彼らにとって、ハイドリィ=ロンドールの野心の成否はどうでもよかったが、その「ついで」の行動によって【血と涙の団】は戦力を半壊させられた。
そして【騙し絵】家だけではない。
マクハードという団の”後見役”が、仲間を売ってまで独自に【森と泉】を守るための力を手に入れようとしていたが――それさえもが、さらに他の【冬嵐】家という別の頭顱侯家による陰謀に利用されていたのであった。
戦力が半壊したために直接対決をすることができず、その上で【聖山】に行くという意味で、憎きハイドリィの軍勢に同行させられた【血と涙の団】の団員達である。それでも機を見て仕掛けるつもりが、マクハードのせいであったとはいえ、他家に【冬ノ司】の力を奪われる寸前でもあった。
「たとえ【紋章】家が直接統治していなくても、ナーレフには、既に様々な頭顱侯家の手の者達が入り込んでいます。ハイドリィもそれを、自分なら御せると思って、わざと受け入れていましたけど……」
「あのマクハードの大馬鹿が【四季ノ司】様達の御力を豪快に吹っ飛ばしてくれたからね。おかげで、どうにかワルセィレの民が『魔法使い』様達に対抗できそうなものまで失われてしまった」
「そうともよ若造ども、ひっひっひ。『長女国』ではどこもかしこも怖い怖い”走狗”どもの手が入り込んでるからねぇ。一度取り込まれたら、その中で、上手に上手に立ち回らないとあたしみたいに長生きはできないねぇ!」
エリスが指摘し、ベネリーが呆れ返って天井を仰ぎ、ヴィアッドが現実を告げながら煽るようにサンクレットの後ろの団員達をじろりと見回した。幾人かは納得しがたいと歯を噛んだり拳を握りしめていたが――最初のように声を荒げる者はいなかった。
「形の上での”独立”はできないし、意味もない。どうせまたすぐに飲み込まれる――ってことか」
「それが、マクハードの親父さん……の意見だったよな」
そうした、団の戦士や勇士達のそうした囁き合う様子を眺めながら、ラシェット少年は、この”話し合い”の主目的をようやく理解した。
不思議に思っていたのだ。
既に、マクハードとベネリーの大喧嘩の末に【血と涙の団】は解体され解消され、オーマが作り上げた(『次兄国』出身で『砕けた大陸』帰りなどとんでもない大嘘っぱちだったが)商団に合流することになるというのに、なぜ、このような場所――わざわざ【エイリアン使い】オーマの力が入り込み”拠点”と化しつつあった『救貧院』――にて、改めて交渉をする必要があるのかということを。
だが、この様子を見てみれば当然である。
事実と出来事と、言動と行動を思い返してみれば、当然である。
【ウルシルラ商会】などという名前に変えようとも、全員が、納得していたわけではないという、ごく当たり前の事実が残っていた。
マクハードという男は、それが最終的には【森と泉】を救う力を手に入れるためだったとはいえ、この地に存在していた、ワルセィレの民と【四季ノ司】を繋ぐ超常の巡りを自らの力とすべく、【血と涙の団】の戦士や勇士達を犠牲にしようとしたのだから。
ナーレフの”内側”の取りまとめ役であるベネリー達を納得させられただけでも、むしろ驚きというもの。そこにどの程度、オーマの入れ知恵や力が関わっているかは、エリスは無論のことラシェットにも想像はつかないことではあったが。
なんとなればマクハードは――エリスによって市政に参画する”参事”に任命されたことで――いきり立った血気あるワルセィレの若者達に命を狙われてもおかしくはない、そのような立場にあったのである。
――そんな、ハイドリィの一派が力を失ったことで市政の天秤が大きく傾き、それをエリスの尽力(と【異星窟】の水面下での活動)によってなんとか均衡を戻したが……このままでは、こうしたワルセィレの民同士の対立が新たな火種となり、そしてそれを収穫しようとする他の魔導貴族家の思惑を呼び込みかねない。
それを防ぐための「話し合い」なのであった。
この場は旧【血と涙の団】の若い戦士や勇士達を納得させ、取り込むための場なのである。
(だから、オーマ先生はあんなことをやろうと言い出したってことか……)
マクハードから聞かされていた話や、ユーリルや「クク」を通して伝達されていた【報いを揺藍する異星窟】からの、とある指示と情報をラシェットが反芻する。
それは、既にマクハードによってエリスへの「ある献策」ということで、大要は彼女へ伝わっているものであった。
ややぎこちない空気の中、ベネリーの取り成しとヴィアッドの茶化し、それを睨みつける従士長セルバルカの咳き込みを挟みながら、エリスによる”交渉”が進められていく。
その主眼は、前執政ハイドリィ=ロンドールによって着せられた罪の全ての赦免である。【血と涙の団】として活動していたサンクレットやベネリーらの活動は全て合法化され、自由化され、彼らや、彼らを匿っていると見なされ事実上隔離されてきた旧ワルセィレの民への数々の有形無形の制約が撤廃されることとなる。
代わりに、彼らの活動はマクハードの商会が発展した【ウルシルラ商会】の傘下として再編されることが条件。ハイドリィによる【聖山】の制圧失敗で半減した兵力に代わり、事実上の街の守備団として治安維持や防衛力となることなどが提示されたが――その会頭がマクハードであるということにやはり抵抗や難色が示される。
しかし――。
「はっはっはっは! 我らが”大旦那”様は、この地でとてつもなくド偉いことをなされようとしているからなぁ!」
「そうだとも。ナーレフはおろか、ワルセィレ地域にだって留まらんよ。『次兄国』とも繋いでいくことができるし――『救貧院』も”庭”みたいなもの……あぁ、これはこっちの話だがな!」
「名目の独立に実が追いつかなきゃ意味がない、そうだろう? だが、実が急拡大してしまえば、名前を付ける方の思惑だって飛び越えてしまうからなぁ!」
それまで、ラシェットが内心で驚愕するほど、ニコニコと静かに「交渉」を聞き守っていた――『オーマの商会』を任されていたゼイモントとメルドットが水を得た大魚のように呵々と喝破する。合いの手を入れるヴィアッドと……彼らに既に散々調子を持っていかれて折伏された経験でもあるのか、額に手を当ててため息をつくベネリー。
あれよあれよとハイドリィからミシュレンドやら『長女国』やら、会頭であるはずのマクハードやら、ついでにナリッソを軽妙にこき下ろしていく「夢追い」の二人である。
その勢いに押されながら、どうにか、サンクレットらが漸く、この一方的に夢と未知への冒険心と好奇心を掛け合いながらエスカレートするように語り始める、『次兄国』の【遺跡】帰りであると嘯く二人の素性を誰何するに。
――あの【騙し絵】家の行動を破壊し。
――さらに【冬嵐】家の陰謀さえも砕いてマクハードを目覚めさせ。
まさに【冬】と【氷】の重雪の中で、【聖山】への道の途上で、冬眠はおろか永眠させられるところであった彼ら【血と涙の団】とエスルテーリ家の負傷兵の救助に尽力した大立物である……という「旦那様」より預けられ、任せられた”商会”を率いる2名である、という。
なんでもこの「旦那様」は、旅の治癒術士としてヘレンセル村でも相当活動をしていたようであり……とここまで語られれば、団長アルグが殺され、ヘレンセル村が暴走した【春ノ司】によって襲撃された事件の生き残りであった団員達は、果たしてそれが何者であるかを想起した。
何でも、会頭こそマクハードとされるが、【ウルシルラ商会】は実質的にその「旦那様」とやらの傘下として活動することになるのだという。
だが、確かに村の混乱を収めた”治癒術士”はその者であっても、【春ノ司】の怒りを鎮めたのは、これもまた流れの西方亜人の一種族たる赤髪の竜人であったはず――あの時、あの場において、多くの【血と涙の団】の団員達はそう認識していた。
故に、サンクレットを始めとする【血と涙の団】の”外”で活動してきた若き戦士達からすれば、このどこから現れたともわからぬ”治癒術士”が、実はその赤髪の竜人をして【春ノ司】を鎮めさせた主人であるなどとはにわかには信じ難い。
むしろ、このタイミングで突如としてその名が現れ、マクハードをも飛び越えて旧ワルセィレの民をも傘下に置こうとするような動きに、むしろ、それこそハイドリィとも【騙し絵】家とも【冬嵐】家ともさらに別口の支配の手先であることを疑うような気配も漂い始める。
しかも、エリスがこの「ヘレンセル村の治癒術士」をもナーレフの”参事”として招聘するつもりであると宣言するに、不穏さは高まっていく。
そして、その様子の変化を見極め、まさにタイミングを図ったように。
真剣な眼差しに変わったゼイモントとメルドットが、こう言ったのである。
「我らが”旦那様”は【涙の番人】と認められたのだ」
「それを、亡くなったトマイル翁も認めていたのだ」
さぁっと場を包む空気が、特に旧ワルセィレの民側を中心として、張り詰めたものに変わっていく。
その言が真であれ偽であれ、四季と聖なる山の泉への信仰によって数百年の独自の文化習慣を守りながら生き、さらに、征服されてもそれを蘇らせるために戦い続けた者の子孫である彼らにとっては――聞き捨てのならない言だったからである。
ヘレンセル村で見た奇跡と、雪に覆われた聖山で遭遇した災厄と、そして積年の怨敵ハイドリィが斃れ、団の後見役でありながら団を裏切ったマクハードの立ち回りなどが絡み合った情勢の急変への困惑の中では、信じたいという気持ちと、悪性の罠がありはしないかという警戒心が同時に膨れ上がったのだ。
だが、どうやってそれを信じることができるのだ、と異を唱えようとする者が現れるよりも早く。
またも口を開いたのは、エリスであった。
「旧ワルセィレの民を代表される皆様に、私は、【聖山】ウルシルラへ詣でることを認めます。いいえ――これは許可ではありません。詣でてください、という、ご依頼です」
ハイドリィを自らの手で討ち果たすことができず、押さえ役をやっていながらも、本当はこの場にいるどの戦士達よりも内心の振り上げた拳のやり場に困っていたサンクレットが、がたりを椅子を倒すように立ち上がった。彼は息を呑んだように驚いた顔をして、エリスを見て、それから”内側”の幹部では唯一信頼し慕う存在となったベネリーの顔を見た。
「ワルセィレの皆様に限りません。希望する全ての住民に、何が起きていたのかを、知る権利があります。だから、既に準備を進めています。既に、各村にも”触れ”を出しています」
決意の込められた表情であった。
そして、それこそがラシェットが共有されていた、オーマがマクハードを通してエリスに授けた「大計」だったのである。
「ご参加、いただけますよね。【血と涙の団】の、いいえ、ワルセィレの民を代表する皆様」
――すなわち、【聖山】詣でによる領内融和事業。
ハイドリィ=ロンドールが引き起こした混乱は、単なる謀反の類ではない。
その裏で複数の頭顱侯家や、旧ワルセィレの特異な超常法則や、そして何より【闇世】から勢力を進出させた【エイリアン使い】オーマの活動が絡み合うことで、たとえ市井の枯れ井戸の民達にとってさえも「何かが起きて、そして、過ぎ去った」と感じさせるには十分すぎるほどのものであったのだ。
ラシェットの決断と、それを是としたオーマの判断により【報いを揺藍する異星窟】という勢力は、現時点ではエリス=エスルテーリにその詳細を知らされてはいない。
しかし【人世】の『長女国』の魔法貴族の末席に連なる者として、彼女に対して、全てを秘匿し続けることはできないし、またオーマの求める活動と勢力の拡大に資するものでもない。
そして、それは市井の民達の”認識”においても同じである。
『長き冬』が消え失せ、ロンドール家の圧政が空白化したことは、市民にとってはむしろ慶事として、生活と将来への見通しが明るくなったという楽観さの中で印象が薄れていくものであるかもしれない。だが、その実には、まさに『救貧院』で今回のように潜在的な対立分子であった旧【血と涙の団】の戦士達の取り込みのように、より深い箇所にあった対立の根を埋もれさせることである。
――故に、この「融和事業」の主眼は、むしろ旧ワルセィレの民ではなくナーレフの市民達にも門戸を広げて、彼らが住まうワルセィレがどのようなものであるかを知らしめるための祭りであった。
――当然、それはサンクレットに代表される血気あるワルセィレの戦士達を取り込むものである。オーマという人物への期待と疑いが、わざと膨れ上がるように夢追いコンビが”煽った”のもまた、その真贋を自ら確かめたいと念じさせると同時に、このことに彼らの意識を集中させて、市内で不測の対立や問題を引き起こさせないようにすること。
――さらに、この事業が成功すれば、エリスという若き女指爵にとってはナーレフの情勢を安定させた(ロンドール家が悪化させたものを)という意味での大きな大きな政治的得点となる。それは、王都に召還されることとなる彼女の立場を守るだけでなく強化するものとなる。
短期的には、数週間後に迫っていた【紋章】家からの「新代官」の派遣において、容易には覆し得ない実質的な「ナーレフ掌握のための施策」の核に据えるべき事業となり得たのである。
これこそが、この場で、この機に、混乱からその掌握と立て直しという一挙の流動性に見舞われたナーレフにおいて、まさに拡大と進出のための”表”の一手として、オーマと彼の配下達(主にリュグルソゥム家やサイドゥラといった『長女国』をよく知る者達を中心に)が編み出した「献策」である。
――そしてそれを取り仕切るのが【聖山商会】である。
「共に、その真贋を確かめてみませんか?」
サンクレットと彼の周りの戦士・勇士達を、そして次にベネリーの眼を順番に見据えながら、エリスははっきりと述べたのであった。
そして姿勢を緩やかに正す振りをしながら、ちらり、とだけラシェットにも一瞥するように目線をくれたのであった。





