0239 「いのち」と「にんげん」の意味にまつわる貧しき寓話(1)[視点:廃血]
旧ワルセィレ地域を支配する交通の要衝に『関所』として作られた街ナーレフ。
市内はロンドール家の集中的な投資によって構築された経済産業発展のための「新市街」と、旧来の住民を封じておく地区たる「旧市街」に分かれている。しかしその他にも、両市街の境目に「貧民街」が形成されており、これは『長女国』中において”あぶれた”者達がたどり着くが故であった。
魔導の叡智による大豊作と、”荒廃”がもたらす飢饉が激しく繰り返される『長女国』において、魔法の才能に恵まれない”枯れ井戸”達のうちでもさらに他の才知にも運にも恵まれず、身一つの単純労働などでしか生計を立てられない者が数多く発生している。
ナーレフは、この意味において将来的に南方の海運大国にして都市連合共和国である『次兄国』に送り込まれるべき”労働力”の、待機場所という性質も備えつつあったのだ。
斯くして、国内の同規模の都市においては相対的に大きな貧民街が形成されていた。ただし、ハイドリィが【奏獣】による頭顱侯への成り上がりを優先していたこと、その過程で旧ワルセィレの民の抵抗運動を弾圧するために厳しい通行制限を課していたことから、『次兄国』への本格的な”労働輸出”は施策としては実現されていない。
そのため、貧民街の住民達は、むしろ、ナーレフに跋扈する様々な他家からの走狗組織の”出先”や、『猫骨亭』によって擁される数々の合法・非合法の商団・密輸団への人員供給源となっていたが――その一角に『救貧院』はあった。
街の西。少しだけ小高い地点から、貧民街と旧市街を結ぶいくつかの路地を眺望することのできる立地である。「教会」とは全く異なり、暗灰色の質素な色調であるが、良くいえば質実剛健とした、悪くいえばまるで”牢獄”のような石造りの建物が『救貧院』であった。
だが、そのように感じさせるのも当然のこと。
この建物を構成するのはこの地域には無い石材なのだ。
通常の鉱夫集団には到達できないほどに深い鉱脈から掘り出された暗灰色の石材は、元は【幽玄教団】(別名「人攫い教団」)が、その各支部の建設にあたって独自に調達した代物である。
「はい、並んで並んで! たくさんありますから、大丈夫ですから! ――今宵も生きる糧を我らにお与えくださった、いと高きにおわす……あぁ、諸神に感謝を」
だが、その暗灰色に覆われた四角い『救貧院』が与える圧迫感にはおよそ似つかわしくない、ほのかな熱気と湯気と、いっぱいの薪を魔導の火によって燃す暖、そして何より胃袋の中でぐずつく腹の虫をくすぐるような――むわりと漂う馳走のにおい。
時刻はすでに夕方を過ぎている。
つい最近までは「長き冬」の災厄の影響によって、ただでさえ、荒涼寒々とした印象を深めていた『救貧院』である。
ここは「街一番の危険地帯」の一つとされていた区画なのだ。なにせ、知識も覚悟も無く迂闊に近寄ろうものならば、教団の別称たる「人攫い」の意味するところを直に体感することになるのだから。
教団の使役者たる【騙し絵】のイセンネッシャ家の悪名はナーレフにおいても褪せたものではなく、前執政のハイドリィも、殊更に距離感を過たぬように接していた走狗組織の一つである。
――そんな区画が、今や、雪解けの陽気の中に生まれ変わったかのよう。
腕まくりをし、汗をかきながら”炊き出し”の指揮を取るのは元ヘレンセルの村付きの教父ナリッソ=ハーバマイス。『末子国』の正教たる【聖墓教】の教父であり、事実上の左遷人事によってこの地を踏むこととなっていた彼であったが、その表情は疲労をたたえつつもどこか血色が良い。
この日も既に『救貧院』前の広場には百と数十名の貧者――体の弱い者や老人ばかり――が集まっており、イノシシでも丸ごと煮ることができそうな大鍋3つからは、肉と野菜が煮込まれたシチューの香りがもうもうと茹だっていたのである。
斯くも人の賑いとは建物を覆っていた区画全体の印象をも変えるものか。
ナリッソが教父としての正装――【聖墓教】の聖職者である身分を示す種々の装身具と、少々ゴテついた法衣――を脱ぎ捨て、さながら建設現場の頭のような格好でいるのは、決して、熱気の中で働くには不便かつ窮屈であるからというだけではない。
それでも教父としては、彼は貧者達に与えられる糧への感謝の聖句を口ずさむ。
だが、それは貧者達に対する説教としてではない。「諸神」と唱えるべき箇所(狭義には【人世】に残ったジンリ派の神々を指す)を「諸神」と唱えたところに、彼の中における大きな心境の変化が現れていた……そのことを指摘できるほど【聖墓教】に詳しい者などは、この場には、居なかったが。
無論、ナリッソが一人でこのすべてを切り盛りしているわけではない。
『救貧院』の内外で、十数名ほどが働いていたが、いずれも元【血と涙の団】やエスルテーリ家の従士に連なる者達(正確には”生還組”であるが)がほとんどであったが――。
その中には、到底”下っ端”ではない者が、実は混じっていた。
働くことすらできずに物乞いに身をやつし、その日を生きるので精一杯の”貧者”の中には気付く者はほとんどいなかったが――椀にシチューをよそう炊き出し者の中に、町娘というには凛としすぎた気配を放つ少女がいたのである。
エリス=エスルテーリその人である。
ちょうど、具材の継ぎ足しのために燃料である薪を抱えてきたラシェットと従士一名と入れ替わるように『救貧院』内の食堂へ戻っていく姿を、ナーレフの創立初期(つまり20年前)に運悪く事故で片足となった貧者の老人が、眩しいものを見やるような目で追いかけていった。
エリスと入れ替わったラシェットは、他の働き手達と二言三言かわしながら、空になりつつある大鍋の一つを確認しながら、荷を下ろして早々にエリスを追って『救貧院』に引っ込んでいく。
――だが、集まった貧者・貧民達は、むしろエリスよりは”彼女”の存在の方をまだ知っているだろう。今宵の炊き出しには、まだ大物が下働きに混じっていた。
「旧市街」の中心区画に酒場『木陰の白馬亭』を構えるベネリーである。彼女もまた、酒場の数名を引き連れて参加していたのだ。
旧ワルセィレの民の対ロンドール家支配の抵抗勢力【血と涙の団】においてナーレフ内の組織ネットワークを掌握する大幹部であったベネリーだが、ハイドリィの失脚死と共に、避難先であったヘレンセル村から帰還していたのである。
代官邸の役人・吏員や市衛の一部にも顔が利く彼女は、貧民街の者達との関わりもあるため――正確には貧民街の出身者の"就職先"である市内の諸組織に対してであるが――取り込みの一環として参加を要請されていたのであった。
「教父様、ちょっとこっちへ来てくんな!」
「また急患か……今行くぞ、行きますとも」
そして街における”大物”の最後の一人が声を上げる。
『救貧院』前の炊き出し場とは庭一つ分離れた地点に、簡易的なテントが貼られた"診療所"がある。そこからナリッソを呼んだのは【霜露の薬売り】の老頭目ヴィアッド。
彼女もまた、この連日の炊き出しに当然のごとく参加する者である……ただし、治療役として。『長女国』における”食い詰め”た流れ者としてナーレフのような新興都市に流れ着き、しかし、日々の糧を得るために働くこともできなくなった者が――最後に頼るのが『救貧院』だった。
その本来のあり方に戻すという意味での参加でもある。
と同時に、【霜露の薬売り】は、その結成の当初――老ヴィアッドが、まだ母に連れられた薬草摘みの少女に過ぎなかった時分――の組織に立ち戻ることも意味している。ハイドリィの施政下では、いち早く”密輸団”の一つに転身し、今また、ハイドリィの敗死という政変に際して再び”治療団”にその身を翻らせたのであった。
――ハイドリィと関係のあった多くの合法・非合法の組織が、”生還組”を中心に再編された市衛部隊による公式の捜査だけではなく・非公式の襲撃をも受けている、という噂がにわかに市中に広まる中、ヴィアッドは最も強かに変わり身を演じた人物であろう。
あの衛生状態の悪かった生臭坊主がねぇ、とでも言わんばかりの、油断ならぬ好々婆のような眼差しで、ナリッソが必死に引き起こす”癒やし”の【神威】の様子を見やりつつ。
売り捌いて『猫骨亭』への上納金とするべき「密輸品」としてではなく、治療に使うという、その本来の用途のために運んできた種々の薬草を煎じた薬湯を、ヴィアッドは余った鍋で煮込んでいた。
ナーレフの創立期から活動していたという意味での「古参」でもあるところのヴィアッドは、ナリッソが派遣されてきたばかりの頃はおろか、彼の前任の教父がハイドリィに謀殺された経緯まですべて知っていた。
……当初は左遷されたことに憤慨し、実績を積み残して『末子国』本国へ戻ろうと息巻いていたナリッソが――鬱がち堕落していった姿も知っていたのだ。
それがどうして、ここ最近は――ナーレフに戻ってからは――随分と血色が良くなったことが、ヴィアッドには不思議である。
まるで体内から悪血と共に悪い気と共に吸い出されたかのようであり、おまけに、十中八九あの「オーマ」という名の青年の仕業であろうが、ナリッソは昔と比べればずっと【神威】の力に近づくことができたのだ。
その心情に、小さくない変化が起きたに違いない、と老薬師は考える。
傷病を得た貧者達に対する彼の祈りによる奇跡は、必死は必死であったのだが――その質が、今回の一連の事変の前後で大きく変化していた。
まるで息子のように目の離せなかったナリッソという「生臭坊主」の変化を振り返っていたヴィアッドであったが。
「――おっと。待ちな、あんたはダメだよ」
そばをさっと通り過ぎようとする何かに気づき、表情を顰めて小さく舌打つ”薬売り”の頭目。
彼女は低い声を上げて手を伸ばし――ナリッソについていこうと飛び出した少女の手を掴んで、それ以上行かせないように力を込めて引き止めたのであった。
「……!」
飛び出そうとしていたところを、ほとんど引き倒されかけるように止められたのは、リシュリー=ジーベリンゲルという名の亜麻色の髪の少女。『救貧院』において、”見習い”という立場でナリッソに預けられた――どう見ても”訳あり”な存在である。
ヴィアッドの「薬師」としての経験と勘が、彼女の全身から醸し出される”癒やし”の【神威】と、そしてその対極にあるとしか思えない、醜悪な何かの力の気配。それに対する本能的な警告のようなものを、紹介された当初から、ヴィアッドはずっと感じていた。
リシュリーが抗議するようにヴィアッドを上目遣いに見上げるが、ヴィアッドは険しい顔の中にふっと慈しみを込めて、まるで諭すように叱りつける。
「このヴィアッド婆の眼を誤魔化すことはできないよ? リシュリーのお嬢ちゃん。あんた、今日はまだなんだろう? ……そうでなくたって、あたしはあんたがこれ以上その『力』を使うのに反対なんだからね。あんたらの『オーマ様』に言いつけちまうよ?」
およそ「治療」という行為に携わる全ての者に対する”天敵”であるかのような。
そのような得体の知れないものを感じ取りつつも――それを扱うリシュリーという少女自身が、ひどく、ひどく、これでも相当マシになったらしいというが、具合と血色の悪そうな身体を押して「手伝い」をしていることをいたたまれない気持ちに感じる老ヴィアッドである。
『治療者の不養生』などという次元のものではない。リシュリーに何かを手伝わせるならば、それこそ『救貧院』ではなく、たとえばベネリーの酒場などもっと別の場所もあったのではないかと思わずにはいられない。
――だが、【闇】の中に少々ばかり剣呑さが秘められた気配を一瞬だけ感じ、ヴィアッドはその思考を中断。リシュリーの手を引いて立たせ、彼女の服についた埃を払ってやった。
「来たのかい? ”影”の坊主。あんたのリシュリーお嬢ちゃんが、また無理をしようとしたよ」
ヴィアッドが振り返りつつリシュリーの手を離すのが早いか、その”影”の気配がすっとリシュリーの傍らに移動。暗がりからぬらりと、烏の濡れ羽のような漆黒をまとった三白眼の少年が姿を現しながら、頭を押さえて軽く目眩に襲われた様子のリシュリーをそっと座らせた。
「……済まないな、ヴィアッドの婆さん」
「ほれ。これを飲ませておきな、使命感だけは立派なじゃじゃ馬だねぇ」
症状の緩和には役に立ちようもないが、しかし、体力を自然快復させるには良い薬湯を、少女リシュリーのためにヴィアッドは既に煎じて用立てていた。それを、現れたる彼女の保護者のような、恋人のような、従者でもあるような、どこからどう見ても立派な「工作員」然たる少年ユーリルに渡す。
彼がリシュリーに向ける表情は優しげだが、悲痛さが刻み込まれていた。
さながら、末期の重病の家族を看取ろうにも看取りきれない者の表情に似ており、ヴィアッドにとっては見慣れたものである。
……だが、ある意味で、リシュリーは単純に「死に瀕している」よりも尚悪い状態なのであろう。
その重病の詳細は知らされていないヴィアッドであったが――各種症状から重症度と厄介さそのものを推察はできているが――このユーリルという少年の「正体」については、実は、本人とナリッソから明かされていたのである。
すなわち吸血種であるということ。
そして、彼がリシュリーに対して、その種族特性を活かしたとある特殊な治療をできる唯一の存在である、ということを。
無論、事実を知らされたことそのものは、ヴィアッドが裏切れないようにするためであろう。特に、ユーリルなどという、戦闘員でもないヴィアッドでは、敵対しようものなら2秒とかからずに殺されてしまいそうなほどの手練れの暗殺者の「秘密」を握らされてしまったのだ。
足抜けや裏切りを試みようものならば、どういう結末が待っているかを暗示されているようでもあり、その点だけで見れば「オーマ」という青年が作り上げようとしている集団もまた、弱肉強食という意味で、ナーレフに既に存在する種々の組織とは大差無いのかもしれない。
だが、見方を変えれば、彼は重病を抱えたリシュリーを『救貧院』においてナリッソとヴィアッドに預けるという判断をした。ヴィアッドが――彼女をきっと見捨てないだろう、と、そう見越した上で、ユーリルというこの少女とセットである彼自身もそれなりの”事情”を抱えた少年をまとめて預けてきたのだ。
ヴィアッドは、それがオーマという青年の冷徹な打算であるとは思っていない。彼女は既に、ヘレンセル村でラシェットとエリスを助けた”彼”を知っていたのだから。
――ただ単に、見込んだよりもさらに数段以上に、ヴィアッドの予想を超えるだけの「力」を持っていた青年だっただけのこと。
二人だけで話し合うこともあるのだろう。ヴィアッドに目礼しつつ、ユーリルがリシュリーを抱き上げるようにして【闇】を衣の如く身にまとうような――神の似姿には禁じられた魔法である――魔力を放ってどこか遠くへその気配を眩ませる。
入れ替わるようにして広場が少しだけ騒がしくなるが、どうやら、乱闘騒ぎに巻き込まれた怪我人が運び込まれてきたようであった。斯様な状況に、泡を食ったように狼狽えているナリッソの様子を見て、まだまだ彼が「修羅場慣れ」していないなと苦笑しつつ、ヴィアッドは叱咤の声を投げかけるのであった。
***
「ユーリル、また、無茶をしたの?」
『救貧院』内に与えられた居室、からさらに”隠し通路”を経て、地下のそのまた先にある”隠し空間”にて【聖言士】リシュリーは、ぽつりと言葉を発した。
元は【騙し絵】のイセンネッシャ家の走狗組織であった【幽玄教団】の支部が置かれていた施設である。しかし、それらが迷宮領主オーマ――リシュリーにとっては大恩人であると同時に【聖墓教】における大敵――によって排除され、制圧されて掌握されてからは、こうした”隠し空間”の数々も全て『救貧院』の設備として活用されていた次第。
「……無茶しようとしていた君に、言われたくはないな」
この日はユーリルの帰りが遅かった。
何でも、迷宮にて眠りについていた迷宮領主オーマの目覚めが近づいているらしい。そのため、ユーリルが任されている任務――関所街ナーレフにおける「掃除」も本格化していた。
いつも、血の匂いと【闇】魔法の気配、そしてほのかに、彼が連携し共闘したであろう【エイリアン】と呼ばれる存在達の生命の気配が、リシュリーにはなんとなく感じられた。それが、ここ数日は特に濃く感じ取られる。
「放って、おけなかったから」
「君らしい。でも、ナリッソさんとヴィアッド婆さんがいるから大丈夫。それにいざとなったら――ここはもうオーマさんの”腹の中”だから。君が無理することなんてない」
【幽玄教団】のナーレフ支部であった『救貧院』に備えられていた多くの”隠し空間”は、そのまま、迷宮領主オーマとその従徒・眷属達によって接収されている。
彼の者は【騙し絵】家による襲撃を撃退した挙げ句、今や自らが【空間】魔法――に近い力――を会得していたのであった。
この意味において『救貧院』は実質的に、既に彼の拠点の1つとなっている。
そうして、新たに追加され拡張された”隠し空間”の一室にて、リシュリーは寝台に横たえられ、ユーリルから”施術”を受けていた。
かざされた両手が、リシュリーの大腿に少しだけ切られて流れ出た血と交わり、結びつき、繋げられる。そしてユーリルの、吸血種の「血」が力強く流し込まれると同時に――身体の中からどす黒い何かが抜き出されていく感覚。
まるで全身が火で炙られるような、痛みとも興奮とも異なる削がれるような感覚に身を委ねながら、リシュリーは薄目でぼんやりとユーリルを、自分を攫って逃げて、さらに命を永らえさせようとしている少年を見やった。
何故、吸血種と呼ばれる種族はこれほどまでに神の似姿に近しいのだろう、と思ったからだ。
何故、彼らの「血」は「血」ではなく【生命紅】などという美しい語句で呼ばれているのだろう、と思ったのだ。
彼らは、神の似姿を喰らい、その血を抜き取る存在だというのに。
ならば、つまるところ自分は、他の誰かの命を受け取って、とうに死んでいたはずのこの命を永らえているに過ぎないということだろうか――と、幾度も考え続けてきた。
「受け取った分は、渡さないと、駄目だから」
【聖言士】となったことを後悔はしていない。
いつ何時に【癒やしの乙女】がリシュリーの「言葉」を借りてその力を表すかは、正直なところ【聖女】(あるいは【加護者】)たる自身にもわからないため、言葉少なに生きてきた。
それでも、ユーリルや……亡くなった義父イセットは、まるで生まれる前から知り合っていたかのように自分の気持ちや考えていることの多くを察してくれる存在であったからだ。
無論、それが常のことではないとリシュリーは理解していた。
むしろ、自らはまだまだ、恵まれすぎている、とすら思えるほどである。
――新たな「主」となった迷宮領主オーマもまたそうした類。
そして”大敵”であるはずの存在に実質庇護されることとなった自分に対して――リシュリーを通して【神威】を行使するはずの【破邪と癒やしの乙女】は、黙して何の反応を示すこともない。
だが、その”意味”を、リシュリーは考えないようにしている。
片鱗のそのまたごく一片とはいえ、初めて【癒やしの乙女】の意思に触れた時に、リシュリーは既に悟らされていたのだ。
――”神の似姿”が作り出した【聖墓教】の教義と、彼らに意思を伝え神威を行使する諸神の意思との間には、小さな、しかし小さくない齟齬があるということを。
然もなくば、どうして吸血種などという「神を捨てた」種族が自分にここまでの好意と慕情を寄せ、親身になり、愛してくれるというのだろう。
然もなくば、どうして「大敵」とされるはずの存在に、虜囚とされるだけならまだしも、積極的ではないにしろ協力し従属する立場となった自分に対して、諸神は何もしないというのだろう。
【癒やしの乙女】の「【闇世】とは争わない」という意思だけでは説明できない何かが、ある。
――然もなくば、そもそもどうして、本当に【人世】の生まれであるのかさえも実は定かではない自分という存在が、【聖女】になどなってしまったのであろう。
そこに意味があると亡父イセットは語ってくれていた。
14年前に『長女国』において発生した、ありふれた”荒廃”と魔獣氾濫によって滅びた村の跡地から自分を見つけて拾い上げてくれた亡父は、リシュリーの境遇の唯一の理解者であった。
もしも、リシュリーがその時点で既に【聖女】などでなかったならば、イセットはリシュリーを【加護者】になどしようとはしなかっただろう。そんな確信が、亡き義父に対してはあったから。
このように考えているからこそ、リシュリーは、眼の前で誰かが、そして何かが傷つき倒れその生命を溢そうとしている有り様を放っておくことができなかった。
例えそれが、自らの中に”どす黒い”何か、命という意味のその反対の何かが溢れ出すことを意味する行為であったとしても。
例え自らの力には、使われるべき優先順位があり、それを曲げてまで使おうとするならば、それはリシュリー自身の命を代償にする行為であるとわかっていても。
「だからってさ、リシュリー自身が駄目になったら元も子もないだろ? 君には特別な力がある、そんなのわかってる。でも、だからって、リシュリーが一人で全部やらないといけないわけじゃないし……こういう言い方はあれだけど、別にリシュリーがやらなくても、他のできる誰かがいるんだから。少なくとも、今は」
――本当のところ、リシュリーは【聖女】であることを言い訳にしている自分自身に気づいていた。
全面的に庇護してくれる存在であった義父が謀殺され、すんでのところをユーリルに攫われることで救われたが、リシュリー自身は、己の本当の正体をずっと知りたいと願い続けてきた。
であるならば、生まれ落ちたその時か、その直後から備わっていたらしいこの力を使い続けるのが、その意味を辿り手繰り寄せるための一番の近道であるのかもしれない。そんな想いに囚われてもいたからだ。
無論、それ以外の生き方を知らずに生きてきたからということもあるが。
しかしそれがユーリルに、自分を一番に大事に思ってくれている異種族の少年に負担を与えてしまっていることを申し訳なく思い、同時に、【聖女】であることにただ逃げ込んでいる自身の狡猾さを恥じていた。
だが、そのことを口にしようとしたところ……ユーリルが――血の”ろ過”の際に顔中と全身に浮かべる脂汗まみれの表情のまま――何か別のことで深く思案しているようであることに気づいた。気づいて、何を考えているのかを問うように、リシュリーはユーリルの眼をじっと見た。
「いや……ナリッソさんが似たようなことを言っていたな、とふと思ってさ」
「誰に、対して?」
「オーマさんだよ」
あの人はある意味大物だな、とユーリルは軽口のように言った。
曰く、教父ナリッソ――迷宮にも拉致され、そこそこ酷い目に遭わされていながら、しかもいろいろなリスクまで背負わされながら、たとえばこの『救貧院』の運営のような仕事を押し付けられ――しかし、どこか、あの迷宮領主オーマに対して同情的であるような、その在り方を心配しているような素振りであったという。
「……オーマさんの本当の年齢なんて誰にもわからないけれど。ナリッソさんの言い方は、ありゃ、まるで弟か弟子か後輩か……うーん、心配されるような”弱さ”なんてオーマさんには無さそうだな、て思ってさ」
「そうかな」
ぽつりとリシュリーが返した言葉に、ユーリルは「え?」と軽く目を丸めるのであった。
だが、思うところがあり、今はこの話題を避けようと思ったのだろう――こうして”ろ過”という名の施術の最中に、軽口のように話し合うことができるようになったこと自体が迷宮領主オーマによって与えられた恩恵の一つでもあるが――ユーリルは別の”悩み”を口にした。
そして、今この場で彼の頭を占めていた「本題」は、そちらであったろう。
「オーマさんからさ。ちょっとした”提案”を、受けたんだ」
目を逸らし、リシュリーと同じぐらいに小さく、まるで独り言のようなぽつりとした言葉であった。
その言に言葉では答えず、じっと見つめ続けることで、リシュリーは答えた。
「ネイリーが、あの”梟”の爺がシャンドル=グームで待っている。僕が知りたかったことを、そして知らなければならないことを全部全部知っているあいつがな。でも、あそこは吸血種の根城の一つだ。無策で行くなんて選択肢はあり得ないから」
僕にはもっと力が必要なんだ、と食いしばるようにこぼすユーリルに、リシュリーはかけるべき言葉が見つけられない。
本人から聞いたわけではなく、誰かから教えられたわけではない。
しかし、知識としては知っていた――吸血種という種族あるいは社会の、独特な性質について。
彼らは「使命」に縛られて生きる存在なのだ、と、リシュリーは知っていた。
それが個人の意思や想いを超えた強制的なものである……ということまで知っていた。
――リュグルソゥム家の”妹”にそれを教えられたのである。
その話を聞いたリシュリーは、単に命じる相手が違うだけで、自分とユーリルは似た者同士なのかもしれない、という思いを新たにした。
しかし、たとえ自分を愛してくれているのが「使命」によってそうさせられているのだとしても、構わないとリシュリーは思った。
人は、どこからがどこまで「使命」によって動かされているのか。
どこからがどこまで、自分自身が「そうしたい」という願いによって動いているのか。
その違いが、リシュリーには、わずか14年の生であっても、考え続けてきても考え続けてきてもわからなかったからだ。
この意味において、ユーリルの苦悩をリシュリーは理解することができた。
そして同時に、羨ましいとも思ってしまった。
迷宮領主オーマがユーリルに「提案」したのは、彼の吸血種としての力を更に引き出すと同時に――より、その”本質”に近づくことができるかもしれない、そのような代物だったからだ。
庇護され、守護られ、その本質が何であるのかを確かめるための力の行使さえも危ぶまれて制止されている自分とは、真逆だな、とそう思った。
”使命”という意味でいうのであれば、何故自分の身命の内にこれほどまでに「命の反対のもの」が湧き出で続けるのかを、リシュリーは本当は知っていたのだから。
だが、そのことへのわずかばかりの不満に近い感情をリシュリーがユーリルにぶつけることはなかった。
そうする前に、この”隠し空間”を訪れた者があったからである。
「――いたいた。おーい、ユーリル!」
「ラシェット? あぁ、もうそんな時間かよ。わざわざ呼びに来てくれたのか?」
【空間】の扉を超えて現れたるは、迷宮領主オーマの従徒という意味では同時期に同輩となった負けん気の強そうな少年である。
現在は、一時的にナーレフを治める存在として奔走している、エリスという名前の貴族の少女の側付きの護衛兼オーマとの連絡役のような立場となっている。
リシュリーは詳細を特に知らされていなかったが、この日の『救貧院』で予定されていたのは、炊き出しだけではなかった。
エリスと、そして旧ワルセィレの住民が構成する抵抗組織であった【血と涙の団】を代表する大幹部達による、ある重要な行事に関する最終の詰めと交渉と、2週間に渡って続けられてきた会談の総まとめが行われる予定だったのである。
それは、ただ単に関所街ナーレフと旧ワルセィレの民が和解する、というエリスの知る”表”の話にだけ関わる話ではなかったからである。
故に、戦闘もできる連絡役・監視役として動くことのできるユーリルに声がかかったということ。
後に、迷宮領主オーマがナーレフ全体を実質的に掌握していくための鍵とする投降者マクハードが【商会】を率いて会談に合流する予定となっており、危険性は相当程度摘まれていたとはいえ、襲撃の可能性への備えという意味も込められている。
”ろ過”そのものは既に終わっており、ユーリルがリシュリーの開けた大腿に止血を施し、毛布をかけてくれた。
自らの体内に注ぎ込まれたユーリルの生命紅の巡りを感じながら、また、抜き取られた「廃なるもの」をユーリルが回収していくのを見つめながら、リシュリーはユーリルを見やった。
「じゃあ、また行ってくるよ。ヴィアッド婆さんに後で言っておくから、無理しないで。戻るのは気力が快復してからでいいからな」
そのまま、任務に赴く工作員の気配にすうっと変わっていく少年の背を、リシュリーは、ただじっと見つめ続けていたのであった。





