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0238 澱と泥濘の逃散は債鎖(さいさ)の縁様を暴くか[視点:伯楽]

 時は【紋章】家の廃侯子ジェロームがナーレフに到達するよりも2週間ほど遡る。


 『関所街ナーレフ』の代官邸では、この日も官吏達が慌ただしく駆け回る。

 ――この日「も」ということは、つまり、これまで「も」であり、そして見通しが立たぬほどにまでこれから「も」という意味である。


 かつて才気煥発なれども、その故に部下達への要求――鷹揚さという意味において――もまた高かったハイドリィが主人(あるじ)であった頃と比べれば、いささか雑然とした有り様であろう。

 書庫室や資料室で丁寧に安置されていた、埃を被った書類の束を、あるいは抱えあるいは魔法によって浮かせて運びながら、目の下に(くま)を垂らしつつも足早に移動する者ばかり。


 それでも、決して血筋やコネクションのみによって登用されたわけではなく、むしろ前執政ハイドリィが自身の手足とすべく厳しい選抜基準を設けて採用した者達であったわけだが……この時ばかりは、道を邪魔する者は兵士や特務部隊であろうが押し退けんと殺気立っている理由は至極単純。


 人員が足らぬのである。

 今や、前執政による特大の失政(・・)として認識されている過日の『ウルシルラ攻め』において、少なくない数の吏員達もまた遠征隊に従軍させられていた。大部隊の移動であるため、必然、彼らは輜重と兵站の管理を担う要員として働くが、求められていた役割は実はそれだけではない。ハイドリィはエスルテーリ家の排除を見越し、道中でエスルテーリ家の拠点に入り込んでそのまま掌握する人員も加味していた。

 さらにそれに留まらず、聖なる泉ウルシルラの制圧後に、そのまま新たな拠点を整備する構想であり、そのための下準備としての要員として、占めて代官邸から3割もの吏員達が動員されていたのである。


 ――そして、既に知られている通り、派遣された兵士達も従軍した吏員達も、街に帰還(・・)できたのはその半数弱。


 無論、これは代官邸の吏員が8割ほどは残った……という意味ではない。

 吏員達のうち、独自の伝手を持った者や魔導貴族家の縁者、街内における有力組織との関係があって「情報」を先に得た者や、空気の変化に敏感な者達を中心に数十名単位での吏員の脱走が発生していたのである。


 同僚の一部が出奔したという不穏な空気感の最中、まるで北海送りにされて【氷海の鬼】どもに散々嬲られてきたかのようなボロボロの状態でかろうじて生還してきた”遠征隊”から――ハイドリィとその側近達に上級官吏、上級の兵士長達がごっそりと死んだ事が伝わるや否や。

 素早く荷物をまとめて代官邸から引き払う者が、さらに数十名単位で脱走。

 一体全体どういう風の吹き回しか、よりにもよってナーレフ代官邸が長らく敵対し苦渋を飲まされてきた旧ワルセィレ復興を目指す反乱軍である【血と涙の団】の”生還者”達までもが乗り込んできて、混乱を恐れて代官邸から逃げ出したものが、また数十名単位で脱走。


 ……とはいえ、逃げ出した者ばかりでもない。

 逃げ出す準備をしていたところ、あるいはまさに逃げ出そうと心に決めていたところで、ハイドリィに代わってエスルテーリ家の()指差爵となったと伝えられるエリス=エスルテーリが現れたのである。

 傍らに、街の出身と思われるまだ少年のあどけなさの残る”護衛”を従えた女指爵は、”生還者”達の先陣を切り、触れを出して街の広場に人々を集め、凛たる毅然さと透き通ったような声で、次の通りに宣言した。


 一つ、前執政ハイドリィが叛逆を起こしたが、失敗して横死したこと。

 一つ、ハイドリィが呼び起こしたのは荒廃をもたらす凶悪な魔法災害であり、旧ワルセィレ一帯を覆っていた”長き冬”も実はその一環であったこと。

 一つ、その”災厄”がナーレフにもたらしかけた惨事を防ぐために、エスルテーリ家が【血と涙の団】の協力(・・)を得てハイドリィを討伐したこと。

 一つ、その功績が認められ【紋章】家から正式な代官が派遣されるまでの間、臨時(・・)代官としてナーレフの掌握に務める権限を与えられたこと。


 有能であり街を富ませる努力もしていたが、抑圧的な恐怖政治を敷いていたハイドリィの為政から”何か”が変わる。決意に溢れた若き女爵への期待や、”生還者”達に事情(・・)を聞いたことによって、もう少しナーレフの行く末を見てみようという気にさせられた者が数十名単位で引き留められる。


 だが、その一方で、ナーレフという一国境都市においてとはいえ……これは『長女国』における【派閥】抗争の一環としての、市政における政変にも等しい状況でもあった。

 そして、そうした事情も十分承知である――と言いたげな新臨時代官エリスによって、代官邸から引き払い故郷や係累の土地に帰りたい者は帰っても良いと促された者が、最終的に数十名単位で離脱。


 差し引き、代官邸は往時の6割の人員で通常の業務を回さねばならなくなったのみならず、ハイドリィの失政がもたらした後始末をせねばならず。


 そこに、ほぼ壊滅した上級者達と入れ替わるように、エリス=エスルテーリ指差爵とその従士・幕僚達に加え、元はハイドリィ子飼いの旧ワルセィレの出身である行商人マクハードを筆頭とした【血と涙の団】の面々がぞくぞくと乗り込んできた。

 故に、このような状況下であえてナーレフ市政の場に引き続き残ることを選んだ吏員達――別に気骨がある者ばかりだからというわけではなく”地元”で”能力”によって採用された、つまり言い換えれば他に係累(コネ)という名の逃げ場の無い者達――の最初の仕事は、それまでナーレフにおいて反乱者であり罪人扱いであり様々な領域から締め出していたはずの【血と涙の団】の団員達に関する、数々の「処置」を解除することから始まったのであった。


 ……なにせ、人手が足りない、という訴えを新代官エリスは聞き入れてくれた。

 彼女はそのまま、エスルテーリ家の従士・幕僚達と、様々な意味で”寛大”なることに【血と涙の団】の構成員達をマクハードの丸抱えの元で、代官邸を中心にナーレフの市政を回すための「臨時」の補充人員として割り当ててくれたのだ。


 だが、それでナーレフ市政下で長年続いてきた体制の激変という難事への対応の労苦が緩和されるというものでもなし。


 前の失政もとい執政ハイドリィが叛逆者であったこともあり。

 ロンドール家が二代20年に渡って積み重ねてきた数々の記録――余すところなくその()()()()()せよ、という指示が新指爵エリスより下された。


 とはいえ、一口に言っても「あらゆる記録」というのは一種の無理強いである。

 なにせ、エリス――正確には、どういう吹き回しかその側近の位置に身を収め、付きっきりで離れない護衛の少年ラシェットと共に、代官の執務室に陣取ったマクハード=ラグラセイレという男――が求めたのは単に代官邸における記録だけに留まらなかったのだ。


 元はハイドリィに泳がされ、旧ワルセィレの民と【血と涙の団】の動向をコントロールするための”子飼い”であったため、マクハードはハイドリィのやり口を熟知していた。

 それは、ナーレフを拠点とする表と裏の様々な商会・集団・密輸団や賊との繋がりだけではない。ロンドール家の自立と他の頭顱侯家との対等化という野心成就のために、ハイドリィはあえて、王国の各業界を壟断する頭顱侯諸家の”走狗組織”のナーレフ進出を許容していたのである。


 ――当然、エリスもとい側近のマクハードが求めたのは、そうした諸組織との繋がりにおける「記録」も含めてのこと。


 さりとて、代官邸に残った吏員達のほとんどは、一部の好奇心ある物好きを除けば、多くはナーレフにおいて厳しい選抜を勝ち抜いて登用されたか、帰郷してもそこで新たな立場を得ることのできるような繋がりを持たぬ者ばかり。つい先日まで重罪人や討伐・摘発の対象として扱っていた【血と涙の団】の構成員達が、今宵より”同僚”となったことは、まさに天地がひっくり返らんばかり。


 実際のところは、【血と涙の団】との合流については、希少なる【通信】の【紋章石】によって代官邸に残った者のうち上位の吏員達には遠征先からハイドリィによって共有されていた情報ではあったが、既に彼らは逃散している。もっとも一部の聡い者を除いて、【紋章】家本領に到達するなり、ロンドール家に連座する形で処刑された者も多いが……。


 だが、残った者達は”生還組”の意外な結束(・・)に驚かされることとなる。

 元はロンドール家の兵士、エスルテーリ家の従士や兵卒、【血と涙の団】の構成員という敵対してきた者達であったはずだ。

 それが、さも詩人の謳う劇作のような「同じ地獄を食らった旅の仲間」であるかのように、ある種の眼には見えない絆によって結び付けられているかのようにスムーズに連携しているのである。さても、死線を共に超えるとは恩讐を超えてこれほどまでの連帯を生み出すものであるかとばかり。


 そしてその故に、”置き去り”吏員達の懸念は数日から一週間ほどで解消されていくこととなる。

 確かにハイドリィはナーレフの兵を半減させたが、従来は厄介な武装勢力であり、ナーレフと特に『次兄国』の間の国境交易(密輸含む)を妨げていた【血と涙の団】が発展的に解消。”参事”として事実上のナーレフ市政を掌握する存在となったマクハードの商隊に合流し、旧ワルセィレの民と共にナーレフ内外の治安維持に協力していたのである。


 この意味では、代官邸とその周辺ならばともかく、ハイドリィが勢力均衡のために招き入れた走狗勢力(厄介な連中)との実際の交渉はマクハード商隊――改め【ウルシルラ商会】が既に取り仕切っている。

 残留組の吏員達に限れば、代官邸で日々の管理業務を回し捌きながら、同時に【ウルシルラ商会】によってもたらされる大小の「記録」や「情報」を代官の執務室にそのまま(・・・・)届けるために駆けずり回る日々となっていた……ということである。


 そうした日々が1~2週間も続けば「それにしても若き令嬢の手腕はあのハイドリィを凌ぐのではないか」と、吏員達は、業務の合間や業務後の酒場や宿屋での話し合うようになる。中には脱走しておいて、空気の変化を見てナーレフに舞い戻り、再度の登用を願うような者も十数人単位ばかり現れるほど。

 というのも、まさにそうした「エリスの市政」がもたらした驚くほどの()()()()()()について話し合う者達は、吏員や兵士や、残留組や生還組、新住民や旧住民を問わないのである。


 ――旧ワルセィレとナーレフの血塗られた20年を思えば、これは、長くこの地に住んでいる者ほど驚くべきことであったからだ。


 予想された暴動が、起きてもほとんど散発的で小規模な小火(ぼや)に終わった。

 ハイドリィの為政下で利権を得ていた()合法組織が混乱を起こそうとしても、それらは迅速かつ速やかに制圧された。

 人々が恐れていたよりもずっと、誰もが想定し得ないほどの穏やか(・・・)な政権交代であったと言えたのだ。


 ハイドリィによって処刑された者達への名誉回復と見舞金という形での保証。

 ハイドリィの手駒として恣意的に動かされていた粗暴な非合法組織達の解体。

 ハイドリィがその権力の源泉としていた関としての厳格なる通過審査の緩和。

 ハイドリィが抑圧のために交通路を制限・分断していた各村の交通の再整備。


 エリスはこれらの施策を矢継ぎ早に命じ、マクハードと共に”参事”となった、エスルテーリ家従士長にして元ヘレンセル村従士長セルバルカ率いるエスルテーリ家従士団が実行。さらにその手足として【ウルシルラ商会】が動き、代官邸の吏員達(生還組の合流を含む)が、それを補助していくという形が、新たなリーダーシップの下で急速に整えられていったのである。


 この若き女指差爵は、今や「融和」の立役者であった。

 それは”長き冬”の災厄とハイドリィの強権的な統治の終焉と相まって、ナーレフの住民に変化の予兆を感じさせずにはいられないものである。たとえ彼女が、短期間で王都に召喚されて去ってしまう”臨時”の代官であったとしても。


 そのように(・・・・・)、ナーレフの市中では表から裏まで。代官邸の廊下から市場の道合、酒場の片隅で、期待と訝しみ入り交じる形でまことしやかに語られている。



 ――そうした「会話」の中心には、あの日の”生還組”であった者やその縁者達が居る、ということに違和感を覚えるような者達は、ほとんど皆無であった。



   ***


「おう、ラシェ坊主。その書類はこっちだ」


「重っ……!」


 書斎として、というよりはもはや文字通りの書類置き場となっており、雑然としたるは、前の執政ハイドリィの執務室。

 エリスの「護衛」を直々に迷宮領主(ダンジョンマスター)オーマから仰せつかったラシェットであったが、その本来の任務はどこへやら。こうして力仕事に近い雑用をさせられているが、やむを得ないこと。


 他にエスルテーリ家の従士がついているため、エリスが無防備というわけではないが、それでも、その側を離れることにラシェットは抵抗を感じる。

 だが、それでも”彼”を手伝わなければならないのは、何も彼――マクハード=ラグラセイレという男――が、ラシェットの「同僚」であり、より重要な役目を迷宮領主(ダンジョンマスター)オーマから仰せつかっているから……というだけではない。


「しっかし、お前の……おっと、俺達の首領(ボス)はどうなってるのかねぇ。メルとゼイの元爺さんどもに聞いた話も、あながち正しいんだろうなぁ」


 代官邸の吏員達から集めた書類の束をどさっと置きながら、ラシェットは部屋の四隅に目線をやった。この執務室が”作業”場所に選ばれている理由であるところの、前執政(ハイドリィ)の置き土産である【防音】の魔法がかかっていることを確認しつつ、ぼやくように言葉を返す。


「あー……そう、だよな。オーマ先生は、えっと、こことは違う()()()()()()別の世界ってやつから来た――って話だよね」


 もはや今までの自分とは違う。

 マクハードとは長い付き合いでもあったが、しかし、そのような心境の変化がラシェットの彼に対する口調を、あらゆる意味で砕けたものとさせていた。「あらゆる意味で」というのは、単にこれが彼にますますの親近感を覚えた、などという単純な関係性ではないということ。


 最終的に、この一連の出来事の中で、マクハードが一体全体「何」をしでかしたのかについて、ラシェットも既に聞かされていたからだ。


 その意味ではむしろ気まずい相手であるのかもしれない。

 だが、現在、代官邸の執務室を埋め尽くすほどの書類や記録や証文の山をせっせと処理しているのは、この2名のみなのである。


 ……人手不足という意味ではない。

 エスルテーリ家の従士達にも、【血と涙の団】の元構成員達にも明かすことのできない、二人の真の共通点。それは、共に迷宮領主(ダンジョンマスター)オーマの従徒(スクワイア)であるという――そんな二人にしか(・・・)担うことのできない”作業”だったからである。


複式(・・)の帳簿記入法ねぇ。いや、原理は分かるぞ? 説明されて理解してみれば『航海士の卵』ってやつだ、どうしてこんなこと思いつかなかったんだって……思うような技術(わざ)だ。仕組み自体は合理的なもんだ、初めて見るものでもない――根っこの部分はなぁ」


「……俺にはまだ何がなんだかさっぱりだよ。普通の”会計”ってやつどころか、算術だってまともに習い始めたばかりだってのに」


「わかってるわ、そんなことはな。だがまぁ、人生の先輩の独り言だと思って聞いとけやラシェ坊主。愚痴る相手がお前しかいないんだからなは、ははは」


 ――ロンドール家がいかに王国に害を成したか、その不正を全て20年前の記録から暴くべし。それはオーマがラシェットとマクハードを通してエリスに伝えた、ナーレフ掌握後の為政に当たってぶち上げるべき「目玉」だ。


 (しか)して、その真の狙いは――ラシェットにはまだよくわからないが――熟練の行商人であるマクハードは戦慄と共に理解したようであるが、代官邸に関わる、関所街ナーレフにおけるありとあらゆる商業・財務・経済・金融などにまつわる「関係」情報の獲得だったのだ。


「まぁ、そういう商売の世界じゃ情報は武器だ。その意味だけならハイドリィの野郎がやっていたことと大差無い……としか思わないだろうなぁ、他の奴らは」


「違うの? さっぱりわからない。いや、全部オーマ先生がなんでも知って理解して、てのがすごいことだってのはわかるけどさ。ほら、みんなの弱みを一人ひとり握る、とか」


「まぁ弱みっちゃ弱みだが……そんな生易しい(・・・・)もんじゃない。本人が気づいていない弱みだって、握られちまうからなぁ、こいつは――商人殺し、組織殺し、統治者殺しって奴かもなぁ」


 これ(・・)の価値はあのハイドリィの野郎だってわかっていなかっただろうよ、と呟きながら、生半に応じるラシェットの実に腑に落ちていない感情を読み取ったか。マクハードが「めちゃくちゃわかりやすく教えてやる」と言いながら語って聞かせたのは、次の通りの内容。


 曰く、異世界からの【客人(まろうど)】であるところの彼らの主オーマがもたらした「複式簿記」という記帳法。その本質は、商会や組織の『眼には見えない重病(バランス)』を炙り出すことであるのだという。


「確かにオーマ先生は村では『治療士』やってたけど……商会にも”病気”なんて、あるのか?」


「ああ、あるぜ? 何回もでかい商売を成功させてようが、どれだけ手下や子分どもにきっちり給金払えてようが、お構いなしに首が回らなくなることがある。首領(ボス)の表現で言うなら……単式(・・)での記帳法だと、見えてこない借金(ツケ)って名前の病気(・・)が、あるんだよ」


 【盟約】によれば【四兄弟国】を”富ませる”役割は『次兄国』が負っている。

 【紋章】のディエスト家が『長女国』内の流通を牛耳り、統合して物流・交易網を整備しながら最富裕(・・・)にのし上がって行く過程で、王国においても商人層は育っている。

 しかしそれでも『長女国』における商取引は、それが大きなものであるほど、その業界を壟断するいずれかの頭顱侯家か、はたまたその走狗組織か、あるいは担当(・・)の『次兄国』の商人の影響を得ずにはいられない。


 もっともわかりやすい形で言えば、こうした者達からの借金(しえん)である。

 それは『長女国』で活動する者を、個人から組織まで大なり小なりを縛る(やまい)であった。

 だから、いかにある商会が見かけ上は大儲けしていて羽振りが良さそうであっても、()純な記帳方()では、そうした実態が見えてくることはない。


 ――例えば、その商会が本当は誰によって支配されており、無理を言われた際に反抗できずに言いなりになってしまうのか、といった、真の力関係のようなものなどについて。


 ただし、マクハード曰く、主オーマが指南した複式(・・)の記帳法それ自体であれば、既に『次兄国』の特に沿岸地域――建国以来の海運業を伝統とする諸都市――で、似たようなものが実用されているという。この意味では、この世界(シースーア)もまた、決して技術という点で遅れているわけではない……とラシェットの手前、どこか悪ガキの反駁をここにいない主オーマに向ける。


「問題は『報告書』の方だ。細かさ(・・・)が段違いな上に、様式まで高度に統一されて共通化されてやがる」


 統一されている、ということの”恐ろしさ”をピンと来ないラシェットに対して、特段、現時点での理解を期待していないマクハードは肩を竦めるのみであった。

 だが、まるでいつかラシェットが理解した時に思い返せれば良い、とでも言っているかのように遠い目でマクハードは舌打ちと独り言を続ける。


 普通、そうした『報告書』というものは門外不出なのだ。

 なにせ、商会や集団・家系全体の財産について記されたる情報の宝庫である。それが外部に漏らされることは、自らの強みと弱みを外部にさらけ出すに等しい。だから、そういうものは作成するとしても、あくまでも自身の商会や一族の中で、効率的に現状を把握するためのツールに過ぎない。


 だが、迷宮領主(ダンジョンマスター)にして自らを【客人(まろうど)】と称した彼らのオーマがもたらしたその”細かさ”は、まさしくその『逆』をこそ志向した技術であった。


「手前の組織の門外不出の情報を、誰が見てもわかるように公開する(あばく)ことが当たり前。さらけ出(ばら)すことが当然な――決算書(バランスシート)だって? そうするのがどんな商会にとっても常識だっていうんなら、一体そりゃあ、どういう『世界』だと思うよ? ラシェ坊主」


 技術には、それが必要とされる前提と環境と背景がある。

 記帳の仕方という意味では「複式簿記」的なものは『次兄国』にも存在するとマクハードは知っていたが――迷宮領主(ダンジョンマスター)オーマがもたらした技術(それ)は、技術(それ)を必要とし、あるいは活用とする大前提が根本から違っていた。


 それはむしろ、まるで邸宅の壁も天井も床も全てをガラス張りにするかの如く。

 ある商会や組織の「財産」や「資産」を、どこまでも透明化(・・・)させてしまうための、細やかなる、しかし精緻なる、体系化されたる方法論だったのである。


 結果、オーマの存在と正体を直接知る者にしか入ることを許されない代官邸執務室において、何が起きているのか。


「名うての商人のマクハードさんにわからないことが、俺なんかにわかるわけない……はぁ、それよりこれで全部のはずだ。あとは、マクハードさんの仕事(・・)ってこと、だろ? 俺にはまだそんなわけわかんない”算術”なんて無理、絶対無理」


「――チッ。ま、今はそうだな、くそ、首領(ボス)の野郎……せめてメルとゼイの元爺さんも派遣してくれってんだ。いや、それかさっさとラシェ坊主に成長してもらうしか――あぁ、くそ! 優先度の高い作業だってのは嫌というほどわかるが、せめて俺がもう2、3人に”教育”してからじゃダメだったのか!」


 当然だが、エリスの号令によって内外から集められた数々の「情報」の塊――中には代官邸に隠されていた、まさにハイドリィの隠し資産を示す希少なる【記録】の【紋章石】も数点あった――とは、ナーレフに拠点や支部を置く各組織の直接の『報告書』や『決算書』や『財産目録』の類の()()()()ではない。

 流石に、そこまで押収することができるのは、よほどやらかした非合法組織であって潰すことにオーマとエリスが共に合意したものに限られる。


 限られるのだが――『そのもの』が無くとも、問題ないのである。


 ラシェットやマクハードと歩みを揃えてナーレフに乗り込んだ「実働部隊(他の従徒)」達が、エスルテーリ家や【ウルシルラ商会】と連携しながら、少々強引(・・)に回収してきた書類と情報の数々。

 それらは個人の借金の証文や、売買の帳簿や、資産の目録や帳簿といった類が大半であるが――そうした情報同士を、マクハードはひたすらに突き合わせ読み取り分析していた。


 そうして、例えば表向きは合法に見せた商会であっても、その裏では代官邸の眼さえも誤魔化してハイドリィに睨まれない範囲で非合法組織と取引を行っていたり、そうした取引の流れを誤魔化そうと腐心して苦心したかのような偽装の痕跡さえもが、次々に炙り出されていたのである。


 斯くして、件の体系的なる方法論(ぎじゅつ)によってマクハードが分析させられた結果とは、彼がオーマから「目的」を聞いた際に当初想像していたものを遥かに超えたものであった。


 商取引と財産や資産の動きを帳簿から追いかけるという黙々たる作業の果てに見えてきたのは――いわば、人間の商活動というものにまつわる清濁と陰陽が入り混じり併せ飲まれたかのような有り様の、世相の、生々しき暴露大会である。

 それはあまりにも赤裸々に過ぎ、ナーレフ内における大小の商会・組織・個人の間における、財産・経営・債務関係の実態そのものが織りなす「諸関係」の歴史と(えにし)の紋様そのものであるとすら言えた。


 このような金と財産の交差せる流れから見えてくるのは、商会・組織・個人間の支配と被支配、依存と被依存の「関係性」そのものであり、まさにそれこそが、【エイリアン使い】オーマがマクハードに早急な把握と掌握を命じたキモたる「情報」だったわけである。



 ――そしてそれらが、既に【エイリアン使い】の迷宮(ダンジョン)において取得されていた、数百名の”生還組”から得た「情報」と精査されて突き合わされ分析されている。



「ま、まぁ……オーマ先生、人使い荒いよね? じゃ、じゃあ俺はちょっといい加減エリスのところに行かないとだし」


「おう、行っとけ行っとけ。どうせ、もうしばらくしてあの(・・)”廃侯子”ジェローム殿下がやってきたらもーっと忙しくなる。『救貧院』だったか? 『院長』のナリッソ殿と、あとユーリルのクソガキとリシュリーの嬢ちゃんにもよろしくな! 俺はまだまだこの無駄に豪華な棺桶に閉じ込められて陽の光は拝めなさそうだ、はははは畜生!」


 このさらに数日後。

 ナーレフにおける【紋章】家による探知魔法を安定して解除し、またはすり抜けるための技術が【報いを揺藍する異星窟】において確立されたため、名誉ある【ウルシルラ商会】の”会頭”マクハードの元には”援軍”が次々に送り込まれてくる。


 だが、この時点(・・・・)では、眷属心話(ファミリアテレパス)も限定されていた。

 マクハードは”参事”というおよそ旧ワルセィレの民としては飛び抜けた大出世をしつつも、市中の巷で思われているようなほどの権勢を誇ることなどできていない。むしろ――一介の下っ端吏員のような、非常に地味な、しかし膨大な、持ち込まれる書類の山を捌きつつただひたすらに帳簿の計算と読み解きを実質たった一人で強いられる日々を送っていたわけであった。

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― 新着の感想 ―
エリスとオーマはどう言った感じで協力しているのでしょうか? エリスはオーマの正体を知りませんよね?
更新頻度が増して幸せ \(╮╯╭)ノ 武力以外のアプローチでの侵略いいですねぇ。 ﹁∬∬❇)ラルヴァちゃんの知識の繭11(❇∬∬﹂ 「植物界のワイルドカード タバコ」 暗躍で活躍している寄生…
財務諸表を作らされているようで大変ですね。 アル・カポネが逮捕されたのも国税法違反だから攻め口としては間違いはないのですが、「紙の戦争」をやらされてる兵隊さんは大変だな思います。 えげつない派閥抗争に…
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