0237 過ぎたる恐怖は真なる危難を避け得るか(1)[視点:恐癖]
【盟約暦514年 歌い鷲の月(6月) 第8日】
穀潰しの中の穀潰しとまで蔑まれた自分には、願ってもない挽回の好機が訪れた……だなどと、楽観的な気持ちになれる「彼」ではなかった。
もっとも、彼のお供達――もとい監視役が主である護衛や執政の実働部隊を務める二十余人もの幕僚団(無論、実質的な権限は全て彼らにある)――は誰もそう思ってはいなかったようであるが。
東オルゼ地方は南西、ロンドール家が執政を二代続けて努めた『関所街ナーレフ』にて、ちょっとした成り行きにより、その”臨時”の執政に収まっていたエスルテーリ家の”新”指差爵エリスという少女がいる。
貴家とはいえ、自分の息子と同じか少し上ぐらいの年端でしかいかない新米の令嬢だ。だが、その凛たる迫力に彼――【紋章】のディエスト家の「廃嫡子」ジェローム――は対面早々気圧されてしまったのだ。
【紋章】家の”元”後継者として、ジェロームは決して、軽薄でも軽率でもあるつもりはなかった。しかし民草はおろか手足となるべき配下や中下級の貴家の係累でさえ、その命をただの「数字」として捉えて一族の行く末を差配する父――現【紋章】侯ジルモ――の刻み込まれた皺のような眼には、己は「落第者」として映り続けていたらしい。
あらゆる叱責を受けた。あらゆる折檻を受けた。あらゆる戒めを受け、あらゆる矯正を試みられ、しかし、それでもジェロームは父ジルモの期待についに応えることができずに、ただ己が無能な存在であると刷り込まれ続ける人生だったのである。
そうして、とうに見限られて侯邸の部屋住みとしてもう何年が過ぎたか。
……他家との抗争を含めた幾つかの”事故”によって、自身よりは優秀であった弟やら従兄弟やらが次々と早逝し、ついには政略結婚で生まれた息子ジグルドが正式な「嫡孫」となるに至る。
それを屈辱と受け止めるべきか、はたまた、次期当主の父君としての地位は最低限保証されたものと見るべきか――さながら、屠殺すらしてもらえないような家畜の豚のように飼い殺され続ける宿命であるか。
このような諦観に支配されていたジェローム、齢はちょうど40を回る廃侯子である。
したがって、一部の口さがない廷臣達が表立って彼のことを「挽回のチャンスが来たと思い、浮かれて”部屋”から這い出した愚か者」と罵っていたとしても……そんな楽観など自分には無いと、彼はとうに割り切っていたのであった。
故に、息子と同じぐらいでしかない新米の女指爵エリスに気圧されようが恥には思わない。
【紋章】家の重鎮達がいっそ過保護に思えるほどお供につけた幕僚団達が、その様子に露骨に侮蔑の眼差しを送りながら、さっさとジェロームを追い払うのもいつものことと嘆息する。いずれも父ジルモの厳しい眼に留まって生き残った優秀な幕僚どもが、エリスより、いろいろとあった関所街ナーレフの執政業務について、全て自分抜きで引き継ぎを行っていても、むしろ厄介事に直接関わらなくて済んだ――としか思わない。
息子ジグルドとの婚約などどうか……という本来は高度に腹芸が必要とされる政治的な”探り”さえも、父にしてディエスト家長子たる自身を差し置いて彼らが勝手に行っていることに対しても、特に誇りを傷つけられたようにも感じないのである。
前の執政であったハイドリィ=ロンドール――ロンドール家は既に、病床で余命いくばくもなかった当主グルーモフさえも容赦なく粛清されている――が使っていたという、無駄に豪華な調度に囲まれた部屋に”軟禁”されたジェロームは、ほうと息をついて覇気の無い顔を手で何度も拭った。
彼の顔貌は、疲れ切っているのに無理矢理笑んだような頬の痩け方をしている。
ただただ、父やその側近達の機嫌を損ねぬように身に着けた、ジェロームなりの処世の一つである。
くすんだ金色の長髪は、幾本もの三つ編みが絡み合うように結わえられた独特の髪型を形成していたが、それはディエスト家がかつては”北方”にルーツを持つ――忌々しい【兵民】どもとは異なる――ことをわずかに示す名残りのようなもの。
魔導大学で長らく『歴史学』や『考古学』といったものを生業としてきた一族の先祖達は、要するに『長女国』では「魔法の才」などほとんど無きに等しく不遇を囲ってきた日陰者達……の中でもずっとマシな程度に過ぎない者達ではあったのだ。
……それが何の因果か、麗しき【輝水晶王国】の三大派閥の一角の領袖の地位までもその掌中に収めてしまった。
腐っているばかりでいることもなく、くんくんとその鼻をひくひくさせてから、ジェロームは隠蔽魔法の痕跡を探り当て――ハイドリィという男の実に趣味の良い秘蔵の果実酒を探り当てる。簡易的なものであるが【氷】魔法を吹き込んだ【紋章石】によって、容れ物にわずかな霜がつく丁度いい冷たさに保たれている代物である。
途端、ジェロームの不貞腐れていた気持ちは爽やかなものに取って代わった。
それが王国北方産、おそらくは【冬嵐】家の荘園産の20年ものであることまで香りだけで嗅ぎ分け、香りを時間をかけて愉しんでから――【像刻】家の彫像達よりも無機質で人間味の薄い父ジルモや、その複製のような鉄面の廷臣・幕僚どもに、このような美酒の味わいはわかるまい、とジェロームは彼にのみ許されたささやかな心理的反抗を敢行すると共に、舌の上で転がすように果実酒を味わった。
実際のところ、王国の南西部でこのような北部の果実酒を楽しめるのもまた、『長女国』の物流業界を牛耳る【紋章】家の威光がもたらした贅沢なのであるが――果たして、父やその幕僚どもがどれほどこうしたことに頓着しているかは、ジェロームにとっての密やかな謎である。
無論【継戦】派の指導者として、絶えず西方の最前線に送る軍需物資の類だけでも、ディエスト家本体は十分すぎる以上に潤っている。【騙し絵】家やリリエ=トール家(今は【明鏡】家)の”鉱山労働者”達が掘り出した僅少な魔石や鉱物や、それらを【魔剣】家や【像刻】家、【纏衣】家が鍛造した武器防具の類などの輸送と売買から得られる莫大な利益によって、王国で「最富裕」と称される程度には。
そして、ディエスト家によって整えられ構築された『王国七街道』が恩恵を与えているのはそれだけではない。食料・工芸品などの輸送は元より、こうした嗜好品の類を各地に供給する役割を果たしており、かつてのロンドール家も、ギュルトーマ家も、アンデラス家を始めとした分家筋といった中下級の魔導貴族家も、まさにその”中継ぎ”によって潤っているのである。
だが……そうした実態を、ジルモやその幕僚達は、せいぜいが寄り子どもを適度に繋ぎ止めて置くための飴として、ただの帳簿上の数字としてしか捉えていないのだ、とジェロームは確信していた。
いっそ分家として降下してくれれば、自分もそうした、己の感性によって「善い」ものと「悪い」ものを選り分けながら、自らもまた愉しむというごく一般的なディエスト家の家臣としての日々に徹することができたろうか、と思う彼である。
しかし、たとえ廃嫡された身であっても、そのような願いは「長子」には許されぬわがままの類であった。
一応は、見限られて見捨てられるまでのわずかな期間、ジェロームもまた後継者として帝王学を授けられた身。
【紋章】のディエスト家が何をその力としているのか。他家とどのように関わり合い、現状、どのような立場であって、どのような問題を抱えているのか、といった事柄などについての理解は、彼にもあった。
実際、ジェロームとしても、口に出さずに密やかに心理的反抗をしているだけで――これがディエスト家にとって仕方の無い状況であることを、十二分に理解していたのだ。
父ジルモが、幕僚どもが、一切の無駄の許されないかの如き緻密すぎる魔導陣の回路を人間の形に押し固めたような連中にばかりなってしまうのもまたやむを得ないことである、ということを理解する程度の知恵は彼にはあった。
――【紋章】家は、大きくなりすぎた。
そんな、言い知れぬ不気味さすら感じるような直感的な恐怖感を、もう20年以上もジェロームは抱いてきたのだから。ある意味では、その恐怖感もまた己が父ジルモに見捨てられた原因の一つであると確信する程度には、彼自身を【紋章】家中枢に座す他の者達と画し続けた感覚なのであった。
……こうした最中における、今回の『関所街ナーレフ』を巡る大混乱である。
ジェロームは、己の価値と役割を十分に悟っていた。
――己は”生贄”か、さもなくば”餌”である、と。
”餌”とはすなわち、何者かによって食いつかれることを前提とした存在である。
食いついた何者かはそのまま釣り上げられるであろうが、”餌”は噛み砕かれ飲み込まれて死ぬであろう。そして父に疎まれ続けた自分の命とは、そうするに相応しい価値があるもの、と見込まれたのであった。
……無論、廃されたとはいえ、既に息子ジグルドがディエスト家の後継者とされているとはいえ、王国最上位の中でもさらに派閥を率いる雲上家の直系の長子の価値は軽いものではない。
しかし【紋章】家は、要するに「苦境」を乗り切るか、または「苦境」に陥らないようにするために、何を切り捨てるのかという選択において――ジェロームの有効な使い道を見出した、というわけであった。
かつて”帝王学”において聞き知らされた状況から、それほどまでにディエスト家を取り巻く状況が急激に悪化しているのである。それは、酒と娼館といった珍味に逃げるように遊び暮らしていたジェロームにすら感じ取らずにはいられないものであった。
例えば、5代前に分かれた分家であるアンデラス家が手隙であったならば、まず、ジェロームではなく彼らがハイドリィ=ロンドールの大失態を収拾するために送り込まれてきたであろう。
しかし生憎と彼らは、つい先日起きた【皆哲】家の粛清という大事件の後始末のために、旧リュグルソゥム家の所領という特大の火中の栗に派遣されたばかり。そこで可能な限りディエスト家が不利を被らないように、新興のリリエ=トール家と【歪夢】家とやり合いながら統治を行わなければならないのである。
そして”大番頭”であったロンドール家を自ら粛清したとあっては、一体誰が、彼らに任せていた『王国七街道』を舞台とする日々の物流を掌握し、混乱を押さえ、つつがなく西方への輸送を継続しなければならないだろうか。
ディエスト本家の人員は、まさにそのために多くの人手と兵力を割かねばならない有り様であり――ロンドール家が長年に渡って莫大な投資を行ってきた『関所街ナーレフ』なのだが、とてもとても、掌握するための人手を割く余裕など皆無。
ジェローム自身は「見捨てられた」と開き直っているが、それでも、ずっと目を背けていたはずの”家業”の先行きを思わずにはいられない。そんな彼は口中の果実酒の風味に、嫌に苦いものが混じるのを感じてますます気を滅入らせていた。
――ディエスト家は今、苛立ちと深い疑心暗鬼に支配されている。
それが、情報のあまり入らないはずの自身にさえ伝染してきていること自体から、危うさの程度がひしひしと感じられたからである。
事は、単に”野心家”が暴挙を起こして主家に挑戦した――という単純な図式ではないのである。
まず、長年【紋章】家に仕え、ロンドール家の監視役でもあった最も老練な工作員が裏切った。
ロンドール家が引き起こした今回の”叛逆”劇は、十中八九、直接にはこの者による焚き付けであろう。ハイドリィの野心までは承知し泳がせていても、ネイリー、という名の老工作員の裏切りは大きな打撃である。何よりも、その背後がどこと繋がっているかが問題であった。
加えて、この”叛逆”劇の中で、いくつもの他家……どころか身内においても陰謀が起きていた。
ギュルトーマ家が不服従と様々な陰謀すれすれの動きを巡らせていることはかねてより”放置”されていた通りであるが、監視と牽制役であったロンドール家が潰えた今、完全なる獅子身中の虫としての害が大きくなっている。
そして、その手引によって【冬嵐】家が動いたことはまず間違いなく――そうなれば【盟約】派の領袖たる【四元素】家が旧ワルセィレという地域に手を突っ込もうとした意図が働いていないわけがない。指差爵こそ死亡して代替わりしたが、エスルテーリ家が「やけに協力的」としか思えない対応であったことも、ディエスト家にとっては警戒を招く要素でしかない。
また、残る三大派閥のもう一方たる【破約】派を率いる【騙し絵】家もこの混乱に乗じて独自に動き、何かを得たようであり――つい先日のこと、臨時に王都エーベルハイスにて招集された【魔導会議】において『迷宮開放令』を提議するというこれまでにない動きを見せたらしい。
いやしくも【紋章】家の係累であるならば、いくらジェロームのような落伍者であっても、その意味を理解できぬ者はいない。
【紋章】家が掌握する王国網羅の物流網は、盟約によって定められた『迷宮封印令』の存在を前提としたものなのであるから――要するに、これは明確なる”経済抗争”開始の宣言に他ならないのである。
そして、それに加えて。
「リュグルソゥム家の残党……かぁ……はぁ、怖すぎるだろうが……」
からりと空になったグラスを置き、ジェロームはほのかに酒気を帯びた吐息を吐き出した。
確かに【紋章】家もまた、あの諸家連合という少々異常な共同作戦に参加した。しかし、それは主に【紋章石】の供給や全般的な兵站の調整などの裏方においてである。仮に、何かの間違いで復讐心を募らせた生き残りが発生したとしても、その「最初の標的」に選ばれるのは、例えば【騙し絵】家や【遺灰】家といった実働部隊を派遣した連中であるべきだ。
――つまり、彼らを唆した者がいるということ。
復讐に燃える残党を操った存在がいて、その存在は、少なくとも【紋章】家に敵対的であるのだ。
「関わりたくない、関わりたくない、関わりたくない……」
これは、決してジェロームのネガティブな妄想、というわけでもなかった。
腐っても廃侯子であり、”部屋住み”かつ”遊び人”として侯邸と娼館を行き来する彼は、嫌でも、こうした情報に触れることができてしまう。そして目を背け耳を塞いでいても、侯邸を覆う臭いまでは……美酒などを愉しむために塞ぐことのできない彼の鼻腔にまで、胡散臭く漂ってくるのを防ぐことができない。
決してその冷徹な表情にはおくびにも出さないが、父ジルモも、彼の選りすぐりの鉄面幕僚団も、この粛清劇に「次」があることを疑っているのだと、ジェロームは嗅ぎ取っていた。
ハイドリィ=ロンドールの”叛逆”は周到に準備されたものであり、しかも、その後に幾つもの”二の手”が続くものだったからである。
仮に彼が「成功」していたとすれば、他家はこぞってこの事をディエスト家糾弾の口実とするだろう。しかも、したり顔でわざわざ現れたギュルトーマ家からもたらされた「情報」によれば、ハイドリィが手にしようとした秘技術は――”荒廃”を利用するのに等しい外法であったという。
「なんという馬鹿なことを……恐ろしい……はぁ」
最上位の魔導貴族たる頭顱侯とは、国母ミューゼの高弟達の後継を称し、王国全体の【属性】の均衡を調律することをこそ支配の正統性の淵源とする存在である。いくら成り上がりの野心を持っていたとて――ハイドリィがその真逆を成そうとした事実は重い。
その心根に対して、ジェロームは一切理解できないという風に、酔いの回る首を軽く振るしかなかった。
……もしもその”真逆”が成っていれば、事は【紋章】家への叛逆では留まらないからだ。
【輝水晶王国】の統治そのものに対する造反となっていた可能性が高く、その場合はもはや成否に関わらずディエスト家の監督責任が問われかねない。だからこそ、他家からの糾弾が湧き起こるよりも早く、ディエスト家は自らロンドール家を粛清せねばならなかった。
何のことはない。今回のジェロームの派遣に限らず、既に父ジルモは一族の存亡に関わる難しい「切り捨て」の決断の連続を強いられていたのである。
だが、醜聞の最小化とはいえ、長年【紋章】家による王国物流の大動脈を差配してきた”大番頭”を自ら絞めたことは、十分すぎるほど大きな打撃だ。これが陰謀であるならば、【紋章】家を弱らせるという首謀者達による思惑はもはや十二分にも十三分にも達成されている。
だが――強欲なる陰謀家達にとっての本命はこんなものではなかった、ということだ。
「”廃侯子”である俺に、他人のことなど言えないが……あの”私生児”が【騙し絵】家を継いだ、だと? あ、あの恐ろしいドリィド侯が……し、死んだというのか……? このタイミングで……!?」
既に故人であるが、ジェロームが祖父、つまり先代の【紋章】侯から聞いた話では、父ジルモはかつて【騙し絵】家に数度暗殺されかけたという因縁があったらしい。ジェロームもまた、直接的間接的にそうした頭顱侯家同士が裏で糸を引く大小表裏の抗争に巻き込まれたことも無くはないが――1度だけ、廃嫡前に、王都の【魔導会議】で父の伴として顔を合わせた【騙し絵】侯の執念深い幽鬼のような表情を決して忘れたことはなかった。
その【騙し絵】家で世代交代が発生し、新たなる【騙し絵】女侯となったツェリマが、次々にそれまでのイセンネッシャ家のやり方を覆している――そんな”噂”がやかましかったのである。
そして、その視点で今回の「ハイドリィの乱」を見てみれば、イセンネッシャ家と不倶戴天であるはずの【盟約】派がその動きを妨害していない。目的が被らぬように調整したかのような、要するに、従来の『長女国』における派閥関係ではありえぬ動きが起きていたのだ。
王国はおろか【四兄弟国】全体の関係性を左右しかねない【盟約】派と【破約】派の激しい敵対関係を【継戦】派が仲立ちするという関係から。
さも、左右から【盟約】派と【破約】派が【継戦】派を挟撃して、陰謀さえも駆使して、内外から食い破って叩き潰そうとしているかの如く――少なくとも、それが己だけによる妄想上の恐怖ではない、とジェロームは悟らざるを得なかったのである。
そのダメ押し中のダメ押しこそが、話を戻せば、族滅されたはずが何故か生き残っていた「リュグルソゥム家の残党」たる若い兄妹だったのである。
【紋章】家がみすみす金の成る木に育ったナーレフを、半ば放棄するに近い判断を下した事由は酷く単純なものである。
「ハイドリィの乱」は【紋章】家が自らナーレフの掌握に乗り込んでくるように仕向けるための誘い水であり、そのタイミングでこそ、復讐に燃えるリュグルソゥム家が――【紋章】侯ジルモ以下、ディエスト家直系の係累を尽く狙った殺戮と破壊の工作を仕掛けてくるに相違ない。
父ジルモ=レズィ・ディエストは、そう読んでいる。
読んだ上で、そのような陰謀に付き合うことはせず。しかし【紋章】家として、対『次兄国』との国境要衝に成長すべき『関所街ナーレフ』と、ここを中心に鎮守すべき旧ワルセィレ地域と旧ゲルティア地域への睨みを放棄していないということを最低限示すために。
曲がりなりにも王家謹製の『晶脈石』が配置され、麗しき『長女国』の魔導の叡智に組み込まれることが決まっていたはずの領域を――よもや頭顱侯家ともあろうものが、怖気づいて放棄した、などと思われてはならない。そんな沽券を保つために。
それで、最悪、殺されてもいいし傀儡にされてもいい生贄兼囮の餌として。
とてもとても「ちょうどいい」一族の直系男子として、既に中年となっていた廃侯子ジェロームに、白羽の矢を立てたのであった。
――どうあっても無事では済まないことは確定しているとして、問題は、リュグルソゥム家を「唆した」のが誰であるか、だ。
例えば、密かに【紋章石】に【空間】魔法を埋め込むなどという離れ業をやってのけたらしい【騙し絵】家などは露骨に怪しい。
伝え聞くに、リュグルソゥム家の残党は――【空間】魔法によって逃げ果せた、とかなんとか。しかもその行き先が――関所街ナーレフの近郊にあった【禁域の森】であった、とかなんとか。
しかもしかもしかも――その【禁域】の内側にあったらしい”異界の裂け目”が、忽然と消えている、とかなんとか。
まず間違いなく【騙し絵】のイセンネッシャ家は、ハイドリィが起こした混乱に乗じてその積年の悲願(どうも”裂け目”に関係しているらしい、ということまでしかジェロームは知らない)を達成している可能性があり、その故の、つまり200年越しの「戦略変更」であるとも受け取れた。いや、むしろ「次の段階」と呼ぶべきものなのかもしれないが。
以上を綜合してみよう。
”新”頭顱侯となったツェリマが、元は【騙し絵】家の暗部『廃絵の具』の部隊長として、リュグルソゥム家残党を捜索するという名目で、多少強引な形で各地各街各都市に公然と押し入っていたことの意味が、全く違うものに見えてくるようではないか。
……もっとも、そうジェロームが恐怖している一方で、父ジルモは【四元素】のサウラディ家の方をより強く疑っているようであったが。
長らくロンドール家の下に送り込まれていた「忠臣」エスルテーリ家が、このタイミングで大きく動いた。前当主の死さえもある種の計算された発破であったのか、と思うほどその動きは迅速にして的確なる時機を射抜いたものであり――ディエスト家として”嫌がらせ”の一つでもしてやろうとする前に、さっさと、女指差爵エリスは自らを「臨時」の存在に過ぎぬとして【紋章】家の顔を立て、さっさと王都に呼び戻される筋書きを描いてみせたことがその理由である。
……ならば、自分の役割は大人しく「引き継ぎ」の場に顔を見せるだけのことでしかない。
その後の段取りは、全て、父とその幕僚団から目付役としてつけられた実務家どもが担うのである。
――あっさりと殺されるか、または、エリスの後ろにいるであろう陰謀家達の中で最も”利益”を貪った者に籠絡されてその傀儡となるか。それだけがジェロームの存在価値である。
問題は、ジェロームがどのように排除ないし傀儡化されるかであり――その情報を元に【紋章】家は、生き残りを賭けた”道”選びを過たぬための判断材料にしようとしているだけのこと。
故に、まずもってエスルテーリ指差爵家の思惑を全霊で探る必要が、ある。
ディエスト家が本家の係累を送ってきたという体面さえ作れればよく、早々にジェロームがハイドリィの執務室に押し込まれて”部屋住み”とされたのは、そういうわけであった。
ならば、己の人生とは、結局は酔生夢死であったこれまでの”部屋住み”生活と何ら変わらないのかもしれない。いつ、生きていることさえ無駄だと父に判断されて毒酒を与えられるか恐怖し、恐怖しすぎたあまり擦り切れて開き直ってしまったジェロームであったのだから。
「【四元素】家か……リュグルソゥム家が自らか……それも恐ろしいが、一番恐ろしいのは、3者3様に、だな……はは、は……」
仮にエスルテーリ家を操るのが『長女国』内の勢力である場合は、ディエスト家は生き残りのために、より繊細な綱渡りをしなければならなくなる。力を落とすにしても、その落とし方そのものを過てば、たちまちのうちに崖から引きずり降ろされるが如くに墜死せしめられるだろう。
線は薄いが、リュグルソゥム家の復讐者達こそが”首謀者”であった場合、話は『長女国』にとっての脅威という意味では警戒度は変わらないが――むしろエスルテーリ家に対しては、いかにその尻尾を掴むか、掴んだ上で排除することで他家に対して「貸し」を作れるか、というチャンスを得られる可能性がある。
だが、逆に言えばその証拠を押さえることができなければ、みすみすエスルテーリ家を王都にまで逃がしてしまうことになるわけであるが。
しかし、しかし、その2つの可能性よりも、ジェロームとしてより恐怖を感じていたのは――ロンドール家、ギュルトーマ家、そしてネイリーという相互に監視させていた3者が、それぞれ別の思惑から「結果的に結託」してディエスト家に害を成す共同歩調を取ったかのような、今回の「乱」の顛末から想起される可能性。
すなわち、ディエスト家が大きくなりすぎたことによって宿命的に生じたかもしれない――傘下組織、傘下各貴族家における離反の動きの拡大、である。
もしも、そうであったならば、父ジルモやその冷徹なる幕僚団どもの努力などというものは、虚しいあがきに過ぎないのであるかもしれない。
そこまで考えてから……ジェロームは、急に色々なことがどうでもよくなった。
貴家の仮にも長子にあるまじき所作で、年代ものの果実酒を瓶ごと直接口につけ、ごくごくと喉仏を鳴らしながら飲みきってしまったのである。
ただの”廃侯子”としてはありえぬほどの、自家に対する内的洞察を深く内省しておきながら――彼はその憂いも恐怖も苦悩も、全て安易に投げ出す道を、いつも通りに選んだのである。
それは彼自身も自覚しているところであったが、父から落伍者の烙印を押された理由の一つたる”悪癖”の発症であった。
「どうせ俺にすることなどない……『娼館』へ行くか……確かナーレフにも【罪花】の『娼館』が、あったはずだったな」
あるいは果実酒以上に、そればかりは、ロンドール家の父子が二代に渡ってナーレフにもたらし育てた”産業”の中で、ジェロームが唯一認めているものでもある。
なにせ――。
「う、噂は――本当だろうか……?」
生唾がごくりと嚥下される音。
さも、それはほろ酔いが別の悪酔いに取って代わられる合図であったかのよう。
ナーレフ派遣に先立ち、ジェロームは、とある”噂”を耳にしていたのである。
西方の亜人達とも、東方の獣腿人達とも異なる――南方からの、とても珍しき、小柄にして醜なれども逞しき『蛮族』が、ナーレフに入荷した、という”噂”を。
恐ろしい、なんと恐ろしいんだ、とうわ言のように呟きながらも、ジェロームはどこかそわそわと落ち着きのない「熱」を、その眼に浮かべて、ひたすらにその身をぶるぶると揺すらせていたのであった。





